第05/15話 襲来

(そういえば、この店は大切戸コミュニケーションズの固定電話サービスを契約していたっけな。じゃあ、システム障害が解消されるまで電話がかかってくることはないのか)小さく安堵の息を吐いた。(こう言っちゃなんだけど、助かるな。めったにないが、かかってきたらきたでほとんどろくな内容じゃないからな)

 紺斗はSMSアプリを閉じ、ホーム画面に遷移した。その時、メールアプリのアイコンに通知バッジ──一件の受信──が表示されていることに気がついた。アプリを起動し、メールを確認する。

 受信時刻は午後九時七分、送信者は市役所の熊出没情報メール配信サービスとなっていた。本文には「午後八時頃に水炭みずすみ町で熊が一頭、目撃されました」「周辺住民の方々はご注意ください」という旨が書かれていた。

(注意って言われてもなあ……おれは最近この近くに引っ越してきたばかりで、地理がよくわからないんだよな。このアルバイトだって、採用されてから二週間しか経っていないし。

 まあ、少なくともおれの自宅やこの店の所在地は水炭町ではない。そこは安心だな。……でも警戒はしないと。熊が目撃されたのは四時間ほど前だそうじゃないか。今ごろはよそに移動しているかもしれない。もし水炭町がおれの自宅やこの店の近くに位置しているなら、おれが仕事を終えて帰路についている時に出くわしてしまう可能性がある)

 紺斗は南の壁の外に目を遣った。店の南側には長方形の駐車場が設けられ、その南の辺に接するようにして車道が東西に通っている。道路の向こう側は小さな休憩所となっていて、簡素な東屋と男女兼用の公衆便所が建てられていた。道路や休憩所の南側は崖で、十メートルほどの高さがあった。

(妃乃は大丈夫だろうか? 熊に遭遇しやしないだろうか? たしか今晩は元今里もといまざと宅で遊ぶと言っていたからな)

 元今里は高校生時代に知り合った女子で、紺斗と妃乃の共通の友人だ。神津大学ではスキー部に所属し、スキージャンプ競技の選手として活躍している。家はこのコンビニの近くで──具体的な住所はよく覚えていない──、一人暮らしをしていた。紺斗の勤務中に来店することもしばしばあった。

(妃乃は「泊まりはしない」「明日の朝までに家に帰る」って言っていたっけな。なんでも、元今里宅がある所は交通の便がとても悪くて、自動車の類いでないと行けないんだとか。それで、自家用車で元今里宅を訪れた後は、翌朝までに車を家に戻して、母親が通勤できるようにしておく必要があるんだとか。

 ……妃乃のやつ、元今里宅から自宅に向かっている最中に熊に遭遇してしまわないだろうか? でも車に乗っているわけだからな。もし出くわしてしまったとしても、クラクションで脅かすなり猛スピードで通り過ぎるなりすれば、襲われずに済むか?)

 玄関扉の開く音や客の入店を知らせるメロディが聞こえてきた。紺斗は我に返ると、スマートホンを操作して画面を消灯した。「いらっしゃいませ」と言いながら玄関に視線を遣る。

 来たのは二十代後半くらいの男だった。スキンヘッドの頭やぎょろりとした目つきには本能的な警戒心を抱かされた。身に着けている茶色系統の長袖ジャケットや長ズボンはシンプルなデザインで、あえて他人の印象に残らないようなものにしているのではないかと勘繰った。

「おい、手を上げろ」

 スキンヘッド男は右手を紺斗に向かって突き出してきた。その手には自動式拳銃が握られていた。

(──)

 唖然としているせいで命令に従えなかった。全身を硬直させ、ただただスキンヘッド男を見つめ続けた。

「手を上げろっつってんだろ!」

 スキンヘッド男はいらいらして怒鳴った。相変わらずキッチンから聞こえてきている成小路のいびきが、ふがあっ、という間抜けな声とともにやんだ。

 我を取り戻した紺斗は両手を上げた。スマートホンがすっぽ抜け、スープバー装置の四角鍋の中に落ちた。

「それでいい、大人しくしていれば危害は加えねえ。妙な気は起こすなよ、こちとら準備万端なんだ」

 まくし立てながらスキンヘッド男は近づいてきた。南東にある陳列棚の西端の前で足を止める。

「あんたはとうぜん知らねえだろうが、防犯カメラは今の時間は動かねえよう細工してあるし、店長室の金庫の番号も突き止めてある。だから観念しておれの言うとおりに──」

「んんー……」

 低い唸り声が売り場の北西から聞こえてきた。まずスキンヘッド男が、次に紺斗が、そちらに視線を遣った。成小路がキッチンから出てくる。

「何なんだよ、うるせえな……」

 成小路の白髪交じりの短い黒髪には軽いパーマがかかっていて、厳つい雰囲気を醸し出していた。気だるそうな目つきはいつものことで、よくもまあアルバイトとして採用されたものだと思う。制服である深緑色の長袖ジャンパーはよれよれだったが、穿いている黒の長ズボンと比べればマシなほうだ。

 成小路は紺斗たちに視線を向けた。そのまぶたはみるみるうちに上がっていき、ついには全開になった。

砂虎すなとら……? 砂虎じゃねえか! なんでこんな所に……」

 紺斗はスキンヘッド男に視線を向けた。その顎はみるみるうちに下がっていき、ついには全開になった。「親父……」と呟く。

「てめえ、これはどういうことだ!? コンビニ強盗ってやつか!?」

 砂虎は返事をしなかった。真っ赤になった顔が小刻みに震えていた。

「この出来損ない……」成小路は眉間を険しくした。「三年前に家から出て行ったきり音信不通だったから、どうなっているんだろうとは思っていたが……犯罪者になっているとはな! この恥晒しめが!」

「うるせえっ!」砂虎は唾を撒き散らした。「犯罪者はてめえのほうだろうが! 頭を殴るわ首を絞めるわ──おれの指をハンマーで打って骨を折ったこともあったっけな!」

「大袈裟に言いやがって……ただの躾じゃねえか! てめえ、親に口答えする気か!?」成小路はカウンターの北の出入口を通り抜けた。「どきやがれ、新北野!」

 紺斗は跳ねるようにして東に移動した。北西・準北西にある陳列棚の西端の間に立った。

 砂虎は拳銃を成小路に向けた。「止まれ! 手を上げろ!」と怒鳴る。「それ以上動くとぶち殺すぞ!」

 成小路はアルバイト募集ポスターの前で足を止めると、ふん、と鼻で笑った。「嘘を吐け! てめえに人殺しの度胸なんてあるはずねえ! どうせ拳銃も偽物だろ!

 やれるもんならやってみろよ! おれを殺してみろ! できもしねえくせに強がってんじゃねえよ! ほらほら、撃ってみろ撃ってみ──」

 どおん、という破裂音が成小路の台詞をかき消した。砂虎が発砲したのだ。

 成小路のジャンパーの胸ポケットに風穴が開いた。そこから血が勢いよく流れ出し始めた。

「──」

 成小路は手で傷口を押さえた。膝をぐんぐん屈していき、ついにはひざまずいた。苦痛四割、驚愕六割の表情を浮かべていた。

「殺してやる」砂虎は平坦な調子の声で言った。「時間をかけたくないから手早く済ませてやる。ありがたく思いな。おれは常日頃から『もしいつか親父を殺す機会を得られたならさんざんいたぶってからにしてやろう』と考えていたんだ」

「ひっ、ひいっ……!」

 成小路は甲高い声を漏らした。腰を折り曲げ、床に額をぶつけた。

「ごめ、ごめんなひゃい。許ひてくだひゃい。死、死に、ひにたくな──」

 命乞いは、どおん、という破裂音にかき消された。砂虎が再び発砲したのだ。

 成小路の頭が大きく陥没し、骨の破片や脳の飛沫が辺りに飛び散った。血液やその他の体液が猛烈な勢いで噴き出し始めた。

 砂虎は、ふうううう、と長い溜め息を吐いた。成小路の死体に拳銃を向けたまま、放心したように見つめ続けた。

 呆然としているのは紺斗も同じだった。恐怖にしろ恐慌にしろ、何の感情も抱いておらず、ただただ脳内が空っぽだった。

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