魔法のおぼろげな日

ぼくる

第1話

 午前一時、長針が6を指そうと言う所、相生真弓は駅近の安い居酒屋に向かっていた。金曜の夜の駅前、人気には事欠いていなかったが、彼女が一人でぶらつくには、とりわけ腕の一方が物寂し気に映っていただろう。真弓はしかし、そうした不足を周囲に気遣われるのは余計だと言わんばかりに自分を装い、やがて歩調は速く、大股に歩みを進めた。踏切に差し掛かると、彼女の足並は一層速くなった。電車の通らないこの時間にも関わらず、踏切の警報に対する幼少期からの恐怖心は、顔見知りによる他愛ない会釈と同様の素振りで以て、彼女に閃いていた。

 商店街の直前で右に折れ、たこ焼き屋、美容院、スナックバーを尻目に、三ブロック先の角を左に曲がったところで、真弓は左手の小道に入った。目的地である居酒屋の前では、酔っぱらっているに違いない三人のサラリーマンが談笑している。その内の一人、紺地に白い線の入ったネクタイを緩めた、その中で最年長らしき風貌の男が、半分に畳んだジャケットを片腕に掛けている別の男の肩に手を置く。彼は近付いてくる彼女を、その肩越しにちらりと見やってから、その一瞥に話の腰を折ることもなく、ただ彼ら独自の、向かうところ敵なしと言った様な大胆で断定的な会話の中に沈んで行った。彼女は情熱的とさえ言える無関心で、自らの周囲に壁を築き上げ、彼らを悪趣味な背景の一つとして瞬く間に溶け込ませた。

 店に入った真弓は、いささか無愛想過ぎ、排他的な店内の雰囲気に少し戸惑い、反射的に入口のドアを振り返った。店の一隅からは、賑やかな声が入り乱れているのが聞こえるが、店員の来る気配が無い。真弓はその場で突っ立ったまま、忙し気に足を踏み換えたり、大した用が内にも関わらずスマートフォンを弄ったりしていたが、やがて自身の有り余る手持ち無沙汰な体裁に耐え切れなくなったのだろう、彼女は半歩前進すると同時、若干体を前に屈めながら「すいませーん」と声を放った。しかし店員は来なかった。真弓は次に、メガホン代わりに片手を口元に添え、大きな声で店員を呼んだ。するとレジの奥から「はーい」と、野太い声が返ってき、黒いワイシャツに身を包んだ男が暖簾を無造作に払い除けて出て来た。

「何名様でしょうか?」

「ひと――一名です」

「それではカウンター席、ご案内いたします」

 真弓は一番端の席に腰を下ろし、裏地がウールになっているベージュのチェスターコートを背凭れに掛けると、メニューを手に取っては、それと周囲を交互に見やった。カウンター席には彼女の他に誰もいず、テーブル席からの甲高い会話のみが、スピーカーから流れる『マリーゴールド』に覆い被さっている。こういった場に不慣れであるということは知られたくはないという気持ちは彼女に、さり気ない一瞥や、聴き取る気もない耳を落ち着きなく、幾度と振り撒かせ、働かせた。

 酔いが一通り回ったところで、真弓は不意に電話を掛けようとした。相手は真弓の元恋人だった。彼女は六月の半ば、会社の士気高揚と銘打った飲み会の帰りに、その元恋人である男が、新人社員の背の低い女と、洋服の青山の駐車場でキスしている所を、片側三車線の道路を隔てて目撃したのである。現在、そういった関係とも言えぬ関係にある相手、美しきキリストの絵画であった様な過去を一瞬で滅茶苦茶にしてしまったあの老女に引けを取らぬ男、それは真弓にとって、酩酊に任せて感情を爆発させる格好の的だった。

「もしもし、私」と真弓。受話口からは暫くの間、騒がしい沈黙のみしか届いでこなかったが、彼女がもう一度「聞こえてる?」と尋ねた後で、胡乱気な声が返ってきた。

「あ――ああ、聞こえてる」

 真弓はそこで、不平染みた溜息を漏らし、スマートフォンを持っている手とは逆の手で、目頭を強く揉み込んだ。

「まだ、付き合ってんの」

 真弓はまるで、自分にはさも無関係な事柄を尋ねるかのように、偶然目についた時事に関する話題をそっと投げつけでもするみたいに、平板な声調で聞いた。通話相手が無言の時間を設ければ設ける程、頼んでおいた焼酎の炭酸割りが彼女の喉を通った。

「うん、そうだけど。何?」

 真弓は相手の返事に間に合わせる様に、口に含んだ焼酎を慌てて飲み下し、グラスをテーブルの上に置いて「ううん、何でもない」と言いのけた。が、この飲み方が良くなかったらしい。直後、彼女は噎せ込んだ。

「なに、どうした? なにしてんの?」

「ちょっと、気道に入っただけ」

 真弓は咳の合間、苦し紛れに返事をした。状況も相まってか、目が少し潤みかかっている。

「まさか、酔ってんのか?」

「うん、ちょっとね。今、何してるの」

「今は、家だよ」

「彼女も一緒?」

 返事の遅さを予感してか、彼女はまたそこで、グラスを口元に近付けて一口飲んだ。

「うん……いる」

「わーお」と真弓は、淡白さと、皮肉を纏っていそうな僅かな歓喜を綯い交ぜにしたような音色の感嘆詞を放った。それから真弓は咳払いを挟み「聞こえてるー? 久しぶりだね」と第三者に対して陽気に語り掛けた。「私、こうなったことあんまり気にしてないよ、ほんとに。だから今度から――」

 その時、受話口から「いいから、何も言うな」と微かに聞こえた。察するに、傍で会話を聞いている内に反論しそうになった恋人を、

彼が嗜めようとしているのだろう。真弓はそこで決まりの悪さを感じたらしく、僅かに眉を顰め、言葉を続けた。

「ねぇ、いいって。そこにいる可愛い子と、ちょっとしたガールズトークでもさせてよ」

「え? なに?」

 真弓はテーブルに横たえた腕、その前腕に額を押し付け、半ば突っ伏す様な格好で「話がしたいですよって、言ったの」と溜息まじりに言い放った。グラスに添えられた指――主に薬指、中指、人差し指の三本――は、一定のリズムを刻んで順々にグラスの側面を叩いている。目を閉じれば忽ち、頭が翻るような感覚に襲われる。それから彼女は大仰且つ気怠げな、のっそりとした動作で、スマートフォンを耳に当てがっている側の肘をテーブルに突き、また溜息を吐いた。

「なぁ、もうやめよう」

「やめるって、なにを」

 真弓は言葉を膝の上に落とした。

「別れ方はそりゃひどかったけど、なぁ、分かってるだろ」

「分かんないって。ちゃんと言ってよ」

「あぁ――じゃあ言うけどさ」と彼は、若干語勢を強めて言う「俺はもう、真弓が好きじゃない。それで今は、春香が好きなんだ。いいか、何回でも言ってやるよ。俺はお前と別れて、新しい彼女が出来て、前のことは忘れようとしてて――」

「なにそれ」真弓は遮って言った「もしかしてさ、私が遠回しに嫌味を言ってるって思ってる? なら違うよ。別にそのことはもうどうでもいいの。そうじゃなくて、ただちょっと、他愛ないお喋りがしたいだけで――」

「俺は話したくない。切るぞ」

「待って」  

 そう言うと同時、真弓は突っ伏していた体をゆっくりと起こし、口元に送話口を一層寄せた。もう一方の手の指は三連符を辿ることを止め、その埋め合わせとして強くグラスを握った。

「なんだよ」と先方が応じる。その声色には、不快感や苛立たしさを隠そうと言った、通話当初には備えていただろう配慮の陰など微塵もない。

「私は、私が言いたいのはただ――」彼女はここで言葉を詰まらせた。が、半開きになっていた口を一瞬引き結ぶと、すぐにも言葉を紡ぎ始めた。「あなたにもっと、クズっぽいことをして欲しかっただけでさ。会社でいい奴ぶろうとしたり、体面を気にして私に中途半端に優しくしたりするだけじゃなくて、せめてさ、いっそ殺してくれたり――」

 直後、通話が途切れた。真弓は「もしもし」と呼び掛けたが、返ってくるのは退屈な不通音ばかりだった。スマートフォンをテーブルに置き、両手の平で面上を撫で下ろすと、彼女は立ち上がる。そして「ピリ、ピリラカピリリ」と呪文めいた言葉を呟きながら、ふらついた足取りでトイレに向かった。

ニ十分程が経過した後、真弓はトイレから戻り、座先に腰を下ろしたかと思うと、すぐにグラスを空にした。ペーパータオルで汗ばんだ顔を一通り拭うと、彼女は掌と頬の間にそれをかまして頬杖を突いた。しかしそうしたかと思うとすぐに、そのペーパータオルをぐしゃぐしゃに丸め、机上にぞんざいに投げ捨て、横たえた右腕にまた頭を寝かせた。それから放置していたスマートフォンを左手で掴むと、真弓は出会い系サイトをウェブ検索してはブラウザを閉じ、次に何を見る訳でもなく動画アプリを起動しては止め、最後には通話履歴から、先程と同じ連絡先に電話を掛けた。がしかし彼女は、それが繋がる前に、一秒と経たぬ間に電話を切り、テーブルにスマートフォンを放り投げた。投げられたスマートフォンは大きな音を立てたが、隅のテーブル席にいる連中の馬鹿笑いや、濁音のみで難なく成立してしまっている様な途絶えることのない会話、その節々で甘ったるく伸ばされる母音、そしてテーブルにジョッキを叩き付ける音、更には店内BGM等の主張もあって、彼女が響かせた一音声は当たり障りなく掻き消された。

 真弓は店を出る前に、再度トイレに足を運んだ。しかし既に先客がいた為、彼女はトイレの前の通路で突っ立ったまま、そこここの壁に貼り出されている昭和歌手のポスターや、市民体育館で催されるイベントの広告に視線を注いだ。胸奥で騒めく居た堪れなさを、彼女はそうやって誤魔化した。さも興味津々と言った按配に前屈みになったり、店内の装飾の数々――日本酒が陳列された棚、レジ脇の鉢の中で窮屈そうに泳いでいる金魚、相田みつを風の柔らかい書体で壁に書かれたシンプルな散文詩――に敢えて目を向けたりしている内に、近くのテーブル席に座っているスーツ姿の二人の男、その内の一人と一瞬目が合った。その男はこの一瞥から会話の糸口を掴んだとでも言った具合に、それでいて彼女にそれらしき興味を少しも滲ませないような無関心な態度、声調で、向かいに座っているもう一人の男に話し始めた。

「ここの女子トイレって、絶対一つで足りてないよな」

「トイレ? あぁでも、吐いてる奴がいたら男でも足りんよ」

「俺一回さ――」

 聞こえよがしなその声によってか、真弓は体をほんの微かに硬直させた。

「そこのトイレで、スイッチを何回入れても、電気が点かない時があってさ、それで店員を呼ぼうとしたら、いきなり真横の女子トイレの方から『もう、なに?』って声がしたんだ。そこでやっと俺、そのスイッチが男のトイレの方じゃなくて、女子トイレの方のスイッチって気が付いてさ」

 彼の向かいにいる男が微笑を湛えながら「それお前、酷いなぁ、最悪」と返す。

「パチパチって何回もやっちゃってたから、中からしたらビビっただろうな。でもあんなの、誰だって間違えるって」

 しかし真弓は、そういった得意げな調子の声が頭に響けば響くだけ余計に、自らの所在無さを悟らせないよう、むしろポスターの類を見ていることにちょっとした楽しみを覚えていると言った感じに、

ポスターに目を注いでいた。膝の辺りで脚を交差させたり、首を傾げたりして、春風を気に掛けない馬の耳よろしく、東から西へそれらを聞き流そうと努めた。

「もうここにすら、女性蔑視が働いてんだって。店側がわざと間違えやすい位置にスイッチを設置してさ。最近ほら、ウルトラマンブッダとか言うのを描いたタイの学生だって、書いたのが男だったら、まだましだったろうな」

「侮辱だ、とか言ってたやつ?」

「そう、それ。お坊さんがキレて、女子大生に謝らせたやつ」

「ははっ。でも女は女でうるさいだろ。なんか特に、自分の思ったことをすぐに発信したがる声の大きい女とかさ。あいつら、男尊女卑を変えようとすることで、実は根っこの部分では男が優れてるってことを認めることにもなるってことに気付いてないし」

 そこで一瞬の沈黙が差し込まれた。真弓は自身の背中に、自分と目が合った方の男の視線が向けられたのを感じた。自意識過剰ではあっただろう。しかし直後、彼女の耳に届けられたのは、その自意識が出鱈目に働いたものではなかったことを裏付ける様な男の声が、つまり真弓への気配りを、若しくは好感を得る為と言った目論見を仄めかす様な、向かいの男に対する角の丸い反論の声が聞こえた。

「まあ、そういうのは一定数いるだろうな。でも、全員がそうって訳じゃ――」

「まあそりゃな」と、向かいの男が応える「んで、そっから後はどうなった?」

「ん、いや確か、結局その絵は高い値段を付けられて――」

「違う、トイレの方の話」

「あぁ、いや別に、軽く頭下げて終わりだよ」

 その瞬間、漸くトイレの中から女性が出て来た。真弓はその女性の慎ましい目礼に対して軽く頭を下げ、待ちぼうけを食らったことから生まれる苛立ちを露わにすることもなく、さも店内の装飾を見るついでだったと言わんばかりにゆっくりと足を運んで、トイレの中に入った。彼女はドアを施錠すると、先程までのどれよりも深く溜息をついた。それから右手の洗面台の縁に両手を突き、鏡に目をやった。そして鏡に映った自身の面上の気になる箇所を見つけると、

口を大きく広げて歯を見せたり、両頬のたるみを解すように揉み込んだり、目を大きく見開きつつ口角を吊り上げ、前髪を指先で綺麗に揃え、頭髪の全体を手櫛で整えたりと、そういった外観の確認や慰めにもならぬ即席の化粧を施した。次いで真弓は、壁に備え付けられているペーパータオルの一枚を抜き取って顔中を、首筋の汗を拭い去った。が、一枚では飽き足らないらしく、彼女は一枚、また一枚と粗雑に抜き取り、ただ何を拭くという訳でも無く、カウンター席にあったペーパータオルにしたのと同様の仕打ちで以て、それらを即座に丸めてゴミ箱に投げ捨てた。最後に手を洗うと真弓は、電話を切った後のそれと似て非なる呪文を、声には出さず無意識のうちに唱えるかのように唇を動かしつつ、ドアを開けて通路に出た。

 彼女がトイレから出た時にはもう、二人組の男の会話は静まっていた。目が合った男の方は、テーブルの上のしめ鯖と思しきものを夢中になって口に運んでいた。その装っているのかそうでないのかの判別の付かない、素っ気ないともとれる態度は、まるで真弓の過剰な自意識を咎めている風でもあった。真弓は脇目も振らず、彼らのテーブル席の傍をさっと通り過ぎ、自分の席に着くが早いか、背凭れに掛けてあったコートを羽織ってからスマートフォンを手に取り、会計を終えて店を後にした。


 駅前のロータリーに向かい、真弓は一台のタクシーに目を付けた。窓をノックすると、運転手が彼女に気付いて車の自動開閉ドアを開けた。

「すいません、野地二丁目の近くまでお願いします」

「はい、二丁目で。はーい」

 運転手が業務的な親しみ易さを振りかざして応じる。真弓は後部座席に乗り込むと、何か衝動に促されたかの様なきびきびとした動作でシートベルト着用した。そしてネクタイを締め直す様な形で、彼女はそのベルトを両手で強く握った。車が発進し、やがて赤信号で停まると、真弓はバックミラー越しの運転手に話し掛けた。

「これ、いい椅子ですね。ほんと」

「はい?」

「この椅子、最高ですよ」

「はは、どうも。椅子褒められたのは初めてだなあ」微笑交じりに運転手が応える。ただ多少の困惑の色が、そこに滲んでいなくもない。「ハンサムって言われたことはあるんだけどねえ。まあ酔っぱらったおっちゃんからですけど。お姉さんは酔ってます?」

「いいえぇ、まさか。年中素面です」と真弓は首を傾げながら言う「ここら辺で、有名人とか乗せたことあります?」

「んーこの辺りじゃあないけども――あれ、あの人……名前出ないけど芸人さんとか一回拾ったねえ」

「へぇ」

 依然としてシートベルトを握り締めながら、真弓は相槌を打ち、窓外の景色に目を回した。

「そん時は確か、おつりいらんわって言われてね。でもまぁ十五円とか、そんなもんでしたけど」と運転手が、口調からでもそれとわかる朗らかさを振り撒いて話す。真弓は「あはは」と、吐息を存分含ませたような乾いた笑い声を返すと、今度は自ら話題を提供した。

「私もついさっきなんですけど、居酒屋に芸能人がいたんですよ。何か三人で、トイレのすぐ傍のテーブルに座ってて、なんか見たことあるなって思ったら、その内の一人は深夜のテレビでMCやってる人だって思い出して――」

「ええ! なんて人ですか?」

「えぇと、何だっけ」真弓は何かを思い出そうとしているかの様に、視線を斜め上方に向けた。「名前とかは知らないけど、声が良くて、ガタイの良い人で、顔は浮かんでくるんですけど」

「いやぁでも、おっちゃんの知らない人かなあ。最近テレビも見ないからなあ」

「うーん、どうかなあ、でもそこそこ有名な人ですよ」と彼女は、自身の記憶の不鮮明さに失望でもしたみたいに、人差し指で目頭の辺りを摩った。シートベルトを握ったまま、手を顔の前まで持ち上げて。

「なにか、面白いこと言ってました?」

「いえぇ、退屈なことばっかです」

 そう言うと真弓は一瞬口を引き結び、それでもその胸に燻っている『退屈』を表現し切れなかったと言った具合に、眉を寄せては上げ、運転手にはそれと察し難い控えめな溜息を吐いた。

 目的地の周辺、最寄りの交差点の信号で停まると「お姉さん、どの辺りで降ろしましょう」と運転手が告げた。真弓は路地に入る手前の国道沿いでも構わない旨を伝え、シートベルトを掴んでいる手の一方を放し、コートのポケットから財布を取り出してそれを膝元に置くと、彼女は再びシートベルトに手を添えた。そして指定の場所で停車しかけた時になって、不自然にも彼女は先程の話題を引き摺り始めた。

「さっきの続きですけど、ほんとにくだらないこと言ってたんですよ」

 しかし運転手は、先程までとは打って変わって口を開かず、バックミラーに映る彼女に簡易的な微笑を、ちらりと歯を見せるだけの急拵えの笑みを浮かべる。客との別れが差し迫っているだけに、この長くなりそうな話に身を投じるべきかと探りあぐねている感じの曖昧な表情を、彼は次に湛える。だが真弓は、そういったことを案じる風もなく、はきはきと訴えるような調子で言葉を続けた。

「トイレのスイッチがなくて女がどうだとか、タイがどうだとかを声高に、俺の考えることはどうだって感じにべちゃくちゃ喋ってうるさくてさ。でもそこじゃないんですよ、大事なのは」

 そこで運転手が背凭れに腕を載せ、身体を後ろに捩りながら、軽く頷いて同調を示した。が、そうして当たり障りのない微笑を閃かせたかと思うと、またすぐに元の姿勢に戻って「えーと、じゃあすいませんが、八三〇円、お願いいたします」と言った。

「ああ、そうですね」

 真弓は再度シートベルトから手を放し、財布を開いて千円札に触れた。ところが彼女はそこでふと「すいません、やっぱり路地の中まで行ってもらえますか」と申し出た。

「はい?」

 ミラー越しに運転手が目を見開いて尋ねる。真弓は目の前の道路を指し示して言う「あの、やっぱりそこ入って、右に入ったところまで――」

「そこね、はーい」

 そうしてサイドブレーキが下りた途端に、真弓は相も変わらずシートベルトを掴み、話を掘り起こした。

「ごめんなさい、また続きですけど、そこじゃないんです。男か女かって問題だとかは、ほんとに表面的な、あっさりしたことなんですよ。私がタイの女子なら言ってやります。『じゃあ謝るから、その神さまとやらを連れて来いって』、『そもそも神さまは侮辱なんて知らない』って」

 運転手はミラーを介し、彼女と目を合わせるには合わせたが、もう儀礼的な笑みは返さなかった。

「『侮辱なんてのは、人が勝手にどうしようもなく作り上げた言葉で、それに、そんなことで神さまが怒るって思ってる方が侮辱になりますよー』って」

 そこで再度車が停車したが、真弓はなおも、楽しい遊覧飛行の途中であると言わんばかりに声を飛ばし続けた。

「だからもう、お寺とか神社には、本当のお坊さんなんていなくなっちゃったんです。本当のお坊さんはですね、例えばほら、休みの日に家でですね――テレビを見たりしながら、そのリモコンをお尻とソファの間に挟んじゃいながら寝転がってたりしてて、夕方には駐車場にいる猫の家族を見に行ったりしてるんです。ちょっと太ってるかも知れないけど、もしかしたらちょっと痩せてる感じかも知れないし「クッソ」とかって悪態もたまには吐いたりするかもしれないけど、それがその人なりの、ちょっとした祈りみたいなものの一つの形なんです。ジーンズの裾を捲ったりするのも、鼻をかんだティッシュをゴミ箱狙って投げ入れようとするのも――」

 そこで真弓が言い淀むと、運転手は振り向き、すかさず言葉を挟んだ。

「お姉さん、ほら、今日はもうゆっくり休みましょうや」

 運転手の声には、半ば感情的になり始めていることを示す様な抑揚が込められていた。その一方で彼は、職務上最後の句点だとでも言いたげな、愛想いっぱいにくるんだ表情を彼女に向けた。真弓は唇を丸め込んだり、下唇を噛んだりしては、心此処にあらずの視線を腿に落とした。それから言葉を口元の辺りで手探りしている様な格好のまま、掴んでいたシートベルトを解放し、財布から千円札を差し出した。

「じゃあ、気を付けてね」と運転手。後部のドアが自動で開く。真弓は車から降り、ふと思い出したかのように、冷ややかに礼を言いつつドアを閉める。目を合わせようとはしない。

「ああ、すいません。ありがとうございます」

 それから彼女は、まるでタクシーに乗っていたということや、軽い酩酊状態にあったことなどを微塵たりとも思わせない様な、正確且つ悠々自適、言わば虚無感さえ漂わせる足取りで、街灯に照らされた舗道を、つまるところ身を隠したり、蹲って消え失せてしまったりすることの容易ではない夜闇の中を掠めて行った。


 アパートの二階にある自室に辿り着くと、真弓は鍵を開けて中に入った。次いで居間に入って明りを点けると、彼女はコートを羽織ったままで二人掛けのソファに仰向けに横たわった。そして生気そのものを追いやる様に深く息を吐くと、彼女はその風道に言葉を沿わせるように独り言ちた。

「何言ってんだろ、くそ。おんなじじゃん」

 真弓はきつく瞼を閉じた。それは入眠を試みる為と言うよりは、室内の眩い照明から視覚を保護する為と言った方が近いだろう。彼女は幾度も目元に力を込めては、眉間に皺を寄せた。彼女の口元はまたしても、例の呪文を象ろうとして忙しなく動き始めた。その内に彼女は、コートのポケットからスマートフォンを取り出し、寝返りを打つように動いて左腕を下敷きにした。そして受話口を耳に当てがい、半ば背を曲げ、コール音に向かってか細い声を絞り出した。啜り泣いているというまでにはいかないにしても、目が潤んでいたには違いないだろう、そんな様子だった。

「お母さん、ねえ」

 コール音は未だ鳴り続いている。

「私が小学生くらいの時好きだった魔法のやつ、覚えてる? 靴紐の呪文とか言ってたの。それね、私無理にじゃなくて、今でもそれが好きなんだ、ほんとに。そこは昔から変わってなくて」

 口を衝いて出る言葉とは裏腹に、真弓は相手が電話に出ないままでいることを願っていた。

「ほら、サラドューラ、ピリピリラ――」

 彼女は不意に口を噤んだ。呪文の続きを思い出そうとしたが、それは徒労に終わった。

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