第3話 初恋

 余りの泣きっぷりに、大けがでもしたのかと、陽路はとりあえず委員長に事情を説明し、保健室に付き添ってくれた。




「……」


「落ち着いた?」


「あ、うん。本当にごめんね……」


「いいよ。階段落ちそうになったら普通に怖いから」


(……陽路君、優しい……)


 今までにないくらい、檸檬の心は軽かった。こんなに軽い気持ちになれたのは、朔斗に告白される前日以来だ。


「委員会……サボらせちゃってホントゴメン……」


「いいって」


 2人は、同じ委員会だった。それは知っていたが、昨日まで、何とも思わなかった。昨日、陽路に彼女が出来るまでは。昨日、陽路の笑顔を見るまでは……。


「陽路君、ゴメン」


「や、もうホントいいから」


「そうじゃなくて。昨日ね、私見ちゃったんだ」


「?」


「私、昨日裏庭の掃除当番で……」


「! ……マジか……」


「ゴ! ゴメン! 見るつもりじゃなかったんだけど!」


「うん……。掃除の時間に告白した俺が軽率だった……。恥ず……」


 陽路が、あのクールで有名な陽路が、両手で顔を覆い、照れを隠した。何とも人間味あふれる仕種だ。


(……あぁ……やっぱり私……)


「本当にごめんなさい……」


「なんで柏木さんが謝るの? 悪いの俺だから。ってか、那波さんに言っとかなきゃな……。那波さんに悪いことした……」


(あ、そうか。陽路君は自分が恥ずかしいんじゃなくて、那波さんに恥ずかしい想いさせたかも知れないってことを悔やんでるんだ……)


「私、これ以上誰にも言わないから! 昨日の状態だと、友達には言わなきゃいけない感じだったんだけど、みんなにも事情話して、噂とか絶対立てさせないから! 任せて!」


「……ありがとう。いい人だね、柏木さん」


「それはこっちのセリフ! 私を救ってくれたんだから!」


「え……? あ、あぁ、さっきの階段? 危なかったもんね」


「うん!」


 本当は、自分の気持ちに気付かせてくれた、自分をもやもやから救ってくれた、と、檸檬は言いたかった。でも、言えない。ここでそれを言ったら、そこでだから。


「そんな頷かなくても……。まぁ、あれは怖いか……」


「うん!」


「……」


「? ん?」


「ふっ……。怖いって顔してない」


「!!」


 檸檬は、2度目の陽路の笑顔を見た。その時、余りに高鳴った鼓動に、自分でも驚いた。そして、確信した。








(私――……陽路君が――……陽路君がすきだ)







「どうした?」


「へ?」


「だって、にやけてるから」


「え、そう?」


「さっき大泣きしたのに……。もう怖いのどっか行った?」


「……うん。でも……」


(怖いの1個出来ちゃった……)


「え? ゴメン。聴こえなかった」


「あ、いいの! 独り言!」


「そ? じゃあ、そろそろ委員会終わる頃だし、帰ろうか。本当にけがはないんだよね?」


「うん。大丈夫。付き合ってくれてありがとう」


「うん」
















「「…………」」


「お、おんなじ方向だったんだね!」


 下校時刻をとおに過ぎた電車はポツポツ席が空いていて、2人は、並んで座った。檸檬は、続く沈黙を何とか破ったところだった。


「ホントだね。なんで今まで会わなかったんだろ」


「あ、それは、陽路君バスケ部でしょ? 私帰宅部だから」


「あぁ、なるほど。じゃあ、時間的に合わないか」


「うん。だね」


「「…………」」


「な、那波さんは何部なの?」


 何とか会話を繋ぐ檸檬。その頑張りに応えてくれるかのように、陽路は答える。


「バスケ部」


「! あ、そうなんだ。上手いの?」


「う~ん……、正直普通。……だけど……めっちゃ頑張ってる」


(……今、自分がどんな顔してるか……解ってないんだろうな……陽路君……)


 伏し目がちで、口元が少しもごもごして、指先がソワソワしている。こんなはにかんだような陽路を、果たして詩帆でも見たことがあるだろうか? 檸檬は、ずーーーーーっと、ドキドキしていた。死ぬほど苦しかったけれど、でも、朔斗に告白された時とは、全く違い、晴れ晴れとした苦しさだった。


「なんでそんな顔してるの?」


 そう言ったのは、陽路の方だった。


「え?」


「なんか、えらく笑ってるけど……」


「え……そ、そう? そうだったかな……」


「うん。めっちゃ笑ってた」


「あはは! なんか、ちょっと思い出し笑い!」


「こんな風に人と話してるときに? ふふ……、柏木さんて面白いね」


(! わぁ! また笑った!)


 その時、朔斗には悲しいことだが、檸檬の心には陽路が溢れていて、朔斗のことは心の片隅にも無かった。ひたすら陽路が、陽路の笑顔が、心に溢れていたのだ。
















「おっす! はよ!」


「あ、朔斗……。お、おはよ……」


「? どうした? 檸檬」


「ん? 何でもないよ?」


 元気よく檸檬の肩に手を乗せ、朔斗が檸檬に挨拶をする。しかし、明らかに檸檬の元気がない。しかも、目が合っていない。檸檬も、自分の気持ちに気付いた以上、これ以上朔斗と付き合い続ける訳にはいかない。


 なんと言っても、檸檬の初恋は、朔斗ではなく、陽路だったのだから――……。













「「「なんか、今日檸檬おかしくない?」」」


「え?」


 4時間目が終わった昼休みに、檸檬の席に集まっていた慶子、ののか、奈智が言った。


「だって、なんか朔斗のこと避けてない?」


 ののかが核心をつくような質問をする。


「そ、そうかな……」


 そうは言っても、自分の行動だ。勿論自覚している。


「何かあった? ……何あったの?」


 慶子は、もう何かを察している。……様だった。その慶子の眼差しに、檸檬は一瞬息を呑んだ。


(どうしよう……、でも、朔斗に1番最初に言うべきだよね……こういうのは)


「あ、うん、昨日、帰り色々あって、陽路君と同じ電車になったんだ。で、一昨日の告白現場で見たこと、みんなに黙ってて欲しいんだけど……」


「なんだ、そんなこと? うん、そうだね、陽路君も那波さんも見られてたなんて思ってなかっただろうし」


 ののかが頷く。


「そりゃそうか。女子のみんなもあの陽路君が笑ったなんて言ったら、那波さんに余計嫉妬集まっちゃうよね」


 奈智も、檸檬の意見に賛成した。しかし、慶子だけは檸檬の様子のおかしさの原因がそれではないことになんとなく気が付いていた。

 それに気付いていたのは、慶子だけではなかった。


「帰り籐堂と一緒になったなんて俺聞いてないけど?」


「あ、朔斗……!」


 檸檬は、いきなり隣に現れた朔斗に驚いた。そして、今日1日ずっと朔斗を避けていた身として、いた堪れない気持ちになった。


「えと、その、なんて言うか、ホントたまたまで……。ゴメン! ちょっとトイレ!」


 檸檬は慌てて席を離れた。その檸檬の態度に、ひたすら不安と焦燥感に駆られる朔斗。


「なぁ、村田むらた、なんか檸檬変じゃね? なんか知んない?」


 ちょっと鋭くした視線を慶子に向け、朔斗は聞いた。


「……さぁ。私もよく解らないの。でも、ちょっと変だよね」


「ちょっとじゃねーよ!」


 朔斗が思わず声を荒げた。


「あ、ワリ。村田何にも悪くねーのにな……」


「朔斗、もしかしたら……」


 慶子は言いかけてやめた。まだ確証はないし、檸檬から直接聞きたい、と言う想いもあった。だから、朔斗の顔色を少し気にして、言った。


「まぁ、檸檬がそのうち話してくれるんじゃない?」


「……そう……だな……」


 不安そうな朔斗の顔を、慶子は心で溜息を吐きながら見ていた。


(きっと、檸檬は……。言えないことを、朔斗も気付いてはいるんだろうな……、本当は。私も調子に乗って騒いじゃったからなぁ。あの時から少し檸檬の様子がおかしいこと、気付いてたのに、どうして私あんなこと言っちゃったんだろう……)


 慶子の中で、後悔の念がズキズキと疼いていた。そんな慶子の気持ちを、檸檬は知る由もなく、自分1人だけで陽路への想いを抱え、何も用事の無いトイレへ向かっていた。


(あぁあ……どうしよう。朔斗に言いにくな……。なんて言えばいいの?今更、朔斗が初恋じゃなかった……なんてひどすぎるよね……)


 ドスッ!


「わっ!」


「っと」


「ごめ……! あ……」


 廊下を曲がろうとして、誰かにぶつかったと思ったら、その相手は、陽路だった。


「あ、柏木さん。ゴメン。大丈夫?」


「陽路君……、私こそゴメン! なんか昨日からぶつかってばっかだね、私! あはは!」


 陽路の優しい言葉に、その声を聴くだけで、心がキューっと締め付けられ、それと同時に、心にある後ろめたさが、湧き上がってくる。


「柏木さん、なんかあった?」


「え?」


 思わぬ陽路からの問いかけに、檸檬は驚いた。


「な、なんで? 私、何か変……かな?」


「あ、いや、何となく……顔色悪いから」


「そ、そうかな? だ! 大丈夫! もう全ッ然!」


 本当は、泣きたかった。そのまま、陽路に想いを伝えてしまいたかった。でも、自分にはカレシがいて、そして、陽路にも彼女がいる。どうしようもない。どうするべきでもない。檸檬は、只、元気に振舞うしか出来なかった。


「そか。ならいいけど。なんかあったら聞くよ」


「……!」


 檸檬は心臓が跳ね上がった。なんで、陽路が、そんなに優しいのか、これは自分にだけ……? そう思ってしまう。でも、陽路には那波詩帆と言う彼女がいる。この目で確認した。陽路の口からも聞いた。それは、否定しようのない事実だ。


「あ、ありがとう! でも、本当に大丈夫だから! じゃあ、またね!」


 檸檬は、瞳から涙が溢れないうちに、手をわざとらしくひらひら振りながら、その場を立ち去るしか出来なかった。






(恋が……こんなに苦しいなんて思わなかった……! こんなに人の気持ちを考えてなかったなんて思わなかった……! 朔斗に、なんて言えばいいの? 朔斗がこんな風に、私が陽路君を想ってるみたいに私を想っててくれてるんだとしたら、どうやって言い出せばいいの? どうやって……!)


 グイッ!


 急に後ろから腕を引っ張られた。


「!?」


「……やっぱり、泣いてる」


「ひっ、陽路君……!」


「どうしたの? 柏木さん」


「……!」


 胸が詰まる。涙が込み上げる。それをくちびるを真一文字に結んで、何とか押し殺す。でも、溢れそう……。その時――……、


「俺の彼女に何してんの?」


「!?」


「なんで籐堂が檸檬にそんなこと言うんだよ。 お前何様だよ。 彼女いる身だろ?   勝手なことしてんじゃねえ!」


「……じゃあ、なんで柏木さんは泣いてるの? なんでそれをお前は放って置くんだよ」


「関係ねぇだろ! お前には!」


「ちょっ! 朔斗! 違うの! いいから、教室戻ろう! 陽路君、ごめんね」


「「……」」


 睨み合う2人を収めるように、檸檬は急いで朔斗の腕をつかんだ。


「朔斗!」


「チッ……」


 朔斗は舌打ちすると、とりあえず、檸檬に促されるまま、教室に戻った。


「陽路? お前なんで柏木さんとか言う人のこと気にすんの?」


 一緒にいた、陽路の友達の1人、正木誠之助ただしぎせいのすけがボソッと聞いた。


「別に。気にしてないけど」


「……そっか。ま、いいや。昼休み終わるから、教室戻ろうぜ」


「……うん」






 檸檬は、朔斗の腕をつかんだまま、教室に向かった。そして、決めたのだ。今日、、と――……。

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