第15話 離れと月と山道と
離れに足を踏み入れた玄は、その落ち着いて、まるでおばあちゃんの家のような雰囲気に、ほっと胸を震わせた。
ざっと玄関を見たところ、清潔で手入れがされていると感じられる。
ふと玄関横を見ると、そこには掲示板のようなものがあり、掃除当番や洗濯当番などといったものが貼られており、家事は当番制なのか、と玄は納得した。
「ようこそ、離れへ!」
海がにっこりと笑いながら玄にそう言い、それと同時に、番号が書かれた紙を玄に渡した。
これは何だと玄が聞くと、海はそれが玄の部屋の番号なのだという。
海は掲示板の横に貼ってある紙を指差し、これが離れの地図よ、と玄に教えた。
それを見ると玄の部屋の番号は離れの二階を指していた。
玄は今まで二階に住んだことはなかったので、何だかちょっと嬉しくなった。
「この地図も、後で渡しておくわね、玄くんの様子からすると、まずお部屋が見たそうだし」
「えっ!」
そんなにウキウキしたのがバレていたのか…!?とそんな子供っぽい己の気持ちを察せられた恥ずかしさから顔が赤くなるのを感じつつ、その様子をうふふと笑って見つめる海を責めることも出来ず、玄は顔を真っ赤にして黙り込んだ。
「玄くんの部屋、私も見たい!」
秋がそうねだると、海はじゃあ行きましょうか、と言って歩き出した。
玄は手のひらを未だに熱い頬にくっつけると、はぁ、とため息をついて二人の後をついていった。
二人は勝手を知ってると言わんばかりにスタスタと離れの中を歩いていく。
海は従業員だからともかく、なぜ秋がこんなに慣れた顔をして歩いているのだろうと疑問に思った玄はだったが、まぁいいかと思い特に何も聞かなかった。
そんなことを思いながら、海に案内されるがままに離れの階段を上がり、二階へと行き、玄は自分の部屋の前にたどり着いた。
案内された部屋の襖には満月が輝く夜の中、寒白菊に囲まれた白鷺の絵が描かれており、
その絵に見惚れていた玄は周囲の部屋の襖と一味違う画風に気づいた。
なんだか神聖というか、言葉にし難い雰囲気をこの襖の絵から感じたのだ。
「…この絵、すごく素敵です」
玄がそう言うと、海は、よかったね、秋ちゃん、と言った。
え、と声を漏らし玄が秋を見つめると、秋は顔をぽっと赤らめ、
「その襖の絵、私が描いたんだ」
と言い放った。
玄は目を丸くし、襖の絵と秋の顔の間で視線を彷徨わせた。
なぜなら秋の見た目の年齢の子が描けるようなレベルじゃないからだ。
玄は言葉をふるわせて秋を褒めちぎった。
と言っても、大したことは言えなかったが。
「すごいよ秋ちゃん!」
「そ、そうかな」
褒められるたびに顔の赤みを増していく秋を玄は本当に可愛らしいと思うと同時に、この子は本当に何者なのだと疑問に思った。
秋はそのうち、玄があまりに褒めるので、半ばキレるように、もう部屋に入ろう!!と叫んだ。
海はその様子にあらあらと困った素振りを見せながらも顔はニコニコしていた。
玄は言い過ぎてウザがられたか…?と思ったがにやける口元を必死に隠しながら玄の背中を押す秋に照れ隠しかぁ〜と察し、はいはいと返事を適当にして部屋に入った。
そして促されるまま部屋の中身を見た玄は唖然した。
部屋の中は豪華絢爛…な訳ではなく、段ボールの山が積まれていた。
そう、玄は新しい暮らしに胸を躍らせすぎて引っ越しの荷物を開封したり整理したりする作業があることをすっかり忘れてしまっていたのだ。
「…」
玄は思わず頭を抱えた。自分の浮かれ加減に呆れたとも言う。
そんな玄をよそに海と秋は段ボールを物珍しそうに眺めている。
玄は海に申し訳ない気持ちでいっぱいになりながら今日の案内はもう終わりでいいと言った。
「えっ、離れの他の場所とかは大丈夫?」
「はい、地図を見て覚えます、それより今日はこの荷物たちをなんとかしなければ…」
「お手伝いとかしようか?」
「気持ちは嬉しいですけど、一人でできますので…」
玄がそう言うと、少し寂しそうに海はそっか、と言い、玄くんがそう言うなら仕方ないわね、と付け足した。
そして最後に、部屋から出ていくときに、地図と共に部屋の番号を描いた紙を玄に渡した。
「困ったらいつでも来てちょうだいね!」
満面の笑みでそう言うと、彼女は名残惜しそうに玄の部屋から出ていった。
…部屋に秋を残して。
「あ、秋ちゃん、帰らないの?」
「ここに残りたい」
秋がお願いするように玄にそう言ったが、玄は正直困った。
荷物の開封作業は正直一人の方が気が楽だったからだ。
玄がやんわりと帰ってほしいと言うと、秋は少し機嫌が悪くなった。
まろい頬を膨らせ、不満げに玄を見遣る。
正直秋に睨まれたところで怖いどころか可愛いと言う感想さえ浮かんだ玄だったが、流石に、と言った風に頼み込むと、秋は渋々帰っていった。
帰って行く秋を見送り、再度段ボールと向き合った玄は、さてどうしようか、と思いながら、まずは手近にあった段ボールから開封していく。
…そのたまたま最初に開封した段ボールがいわゆる『アッチ』系の雑誌が入っている段ボールだったので本当に玄は二人を帰らせてよかったと心底思った。
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ぐーっと体を伸ばし、ふわぁとあくびをこぼす。
玄は外の空はすっかり暗くなっていたことに気づいた。
一人で作業を続けていたら、いつの間にかこんなに暗くなったようだ。
外を覗くと夜の闇が広がり、美しい月と星空が覗いていた。
玄はその美しさに、思わず月に見入ってしまう。
「…夜空に一番輝く星は小さな星じゃなくて月だよなぁ」
気づけばそんなことを口からこぼしていた。
玄は二階の窓からから見える下の景色も見たいと思い、ふと下を見た。
もちろん下には誰もいない。
大きな庭にはがらんとした洗濯竿があるだけだ。
日中に見ればよかったなぁ、と玄が後悔していると、視界の端で何かが動くのを感じた。
「…え」
月が外を照らす中、その小さな影は玄の視線に気づかないまま走り去っていった。
だが玄はしっかりその人物を捉えていた。
「秋ちゃん…?」
そして、その人物が向かっていった先も。
秋が向かっていった先は、玄が本能レベルに恐怖し、パニックを起こし海に落ち着かせてもらった原因のあの山道だ。
玄は喉から変な音が出るのを感じた。
冷や汗が止まらない。
そういえば、秋はお昼、少し様子がおかしかったことを思い出す。
玄は秋が残りたいと言ったとき、許可を出さなかったことをとても後悔した。
背中が、手が、足が、じっとりと汗ばむのを感じる。
玄は気付けば部屋を飛び出していた。
走って、走って、走る。
汗を散らせ、目を見開いて、必死に走った。
すれ違う人は皆、玄の必死の形相を見てギョッとした顔をしていたが、そんなこともお構いなしに玄は足を動かし続けた。
しばらく走ると、玄は目的地に着いた。
そう、あの山道だ。
玄は体の震えが止まらなかった。
指先からヒンヤリと温度が下がっていくのを感じる。呼吸だって変な風になってしまっている上に、気を抜いたら今すぐにでもパニックになりそうだ。
それでも玄は引き返すわけにはいかなかった。
なぜなのかは玄にも分からない。
ただとにかく、行かねばと思ったのだ。
秋を止めねばならないと。
玄は震える足を踏み出し、山道へと入っていった。
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