第2話 旅館の主人

突然の異常事態に、玄の脳は停止した。

いや、頭は回っている、思考もできる、だが体に命令を出す部分が停止したと言った方が正しいだろう。


玄はまず自分が電話をかけ間違えた可能性を考えた、大いにあり得る、だが念入りに確認しまくって電話番号を打ったのだ、これはないと信じたかった。

次に玄はこの声の主がかの旅館の従業員である可能性を思い付いた。最近はイケボだのロリボだの、声が妙に可愛かったりかっこよかったりする人の活躍が多い世の中だ。なのでこういった声を持つ人を玄も見る機会があった。なので、幼い少女のような声をしつつ、実はもうこの人は成人済みなのではという思考に至った。


そして最後の可能性、

この旅館で育った子供という可能性である。

これが一番無難、しかしこの対応しておきながら上記の可能性が当てはまっていた場合の気まずさはもう想像もしたくない。


「っ…」


ぐるぐると思考を回しても、手が、足が、口が言うことを聞かない、動かない。

そうこうしていると、意外なことになんと向こうからアクションがあった。



【…あなた、どこの人?、この旅館のこと、どうやって知ったの?】



「!」



相手が質問してきた内容には、旅館についてのことが含まれていた。つまり、電話の相手はとりあえず旅館関係者ということになる。

それだけでもわかって、玄は体から力が抜けた。今にも体が直角に折れて床にばたんきゅーと逝きそうになったが、なんとか気力を絞り、会話を続けた。とりあえず、相手を大人と仮定して会話しよう、そうしたら、まぁ、失礼だとかそう言うことにはならないはず。



「わ、私は白鷺玄と申します、この旅館のことは」


【違う】


「えっ」



いきなりスッパリと否定され、心の底から玄は困惑した。だって、おかしなことは何も言っていないのだから、あまりの展開にすっかり困り果てた玄を置き去りにして、電話の少女はその可憐な声で話を続けた



【私はどこの人なのかと聞いたの、あなた、どこの人?どこに住んでるの?】


「…それは住所のことですか?」



ひしひしと嫌な予感が脳裏をよぎりつつも、確認しなければならないという理性を全力で押し上げ、質問を必死に紡いだ。本当に、嫌な予感がする、と玄は思った。だって会話が何かおかしい、なにか、なにかが噛み合っていないような気がするのだ。




【ジュウショ…?、なんだっけ、それ…どこかできいたことあるけど…?】


「っスーーー…」




待ってくれ、玄は真っ先にそう思った。

そして次に、これは子供の可能性が濃厚なんじゃないだろうか、と考えた。

住所の場所がわからないじゃなくて、住所そのものがわからないとかもう子供じゃないのか、と思った。

そもそも電話口の相手に対して敬語じゃない時点でおかしいと思っていた。

そのような失礼な態度をとる人は世の中にもいるが、いかんせん、声が幼いし、常識にも疎い。なので、意を決して玄は質問した。


「君は、旅館の子ども?」


【…旅館の子、ではない】


「えっ」


違った…のか…?!


急に背中から冷や汗がどばどばと出てきた。

え、この世に住所を知らない大人とかいるの!?、とひたすら心の内で玄は自問自答を繰り返した。現実逃避とも言う。だんだん背中だけじゃなく手や足からも汗が滲み始めたところ、電話の子が、



【私は旅館のお客の…子ども?、

だと思う】


と言ってくれたおかげで、とりあえず玄のスマホが手汗でべっちょべちょになるという事態は避けられた。

子どもだった〜!!対応合っててよかった〜!!、と玄が安心したが、新たな疑問が生まれた。

旅館客の子どもがなぜこの電話に出ているのかということだ。疑問が頭に浮かび、悶々とし始めたところで、電話から新たな声が聞こえたのだ。




【ン?、秋、お前何してんだ?】


【ぁ…】



聞こえたところ、若年男性の声のようだった。この人こそ、旅館の従業員だろうか、いや、この子の親か?、どちらにしろ、この状況を打破できるなら…と希望を見出した次の瞬間、電話を落としたらしき衝撃音が耳を貫いた。

思わぬ衝撃に、玄はスマホを耳から離してしまった、が、耳から離してもはっきりと聞こえる驚きからの大声がスマホから発せられた。


【おめ、電話には勝手に出んなって言っただろォ?!】


どうやら電話口の子どもは約束事を勝手に破って電話に出ていたらしい。

玄は、だろうな、と考えた。

普通旅館の電話を子供に担当させるわけがない、というか、そんなこと約束させるくらいなら手の届かないところに電話を置いておけよ、と、玄はと思った。



【ぅう…】



電話口の子どもはやってしまった、バレてしまったというようにうめいていた。

途端、男性が急に焦った声で話し始めた。


【エ、ア、ァー、怒ってるわけじゃない、

オ前が電話をしていることに驚いただけだ、すまん…、なァ、秋、電話を渡してくれ、後でまた電話させてやる、約束だ。えぇと、確かここに…、ホラ、秋がさっき食いたいって言ってた飴ちゃんだ、ちょっと待っててくれ、そしたらまた変わってやるからな】


【!、あめちゃんくれるのか?】



少女の声が沈んだ声から喜びを持つ声へと変わった。余程飴をもらえるのが嬉しかったのだろう。電話越しだと言うのに、その嬉しさがこちらに伝わってくる。



【あァ、食べていいぞ…、後でちゃんと俺とお話しもしような】


【ぅ、はぁい】



一通りのやり取りをしたあと、子どもは飴の方に興味が移ったのか、どこかへ行ったのだろう、電話口の声が少女から大人の男性に変わった。



【お電話変わりました、私、旅館の主人である入相久遠と申します、先程は失礼いたしました。お客様は何用でこの旅館に連絡を?】



「ぁ、いえ、自分は客ではなくて、」



自分との電話になった途端、口調ががらりと変わった相手に玄は思わず感嘆した。

す、すごい、まともな大人だ…!、就職活動で散々面接官から嫌味やら皮肉やら痛い質問をされ、電話では受付嬢の明らかにおざなりな対応をされるなどを受け続けてきた玄にとっては、電話でちゃんとまともな対応をするという時点でこの旅館の評価がぐんぐんとまるで成長期を迎えたタケノコのように上がっていた。


にしても、さっきの子はなんだったのだろう、とふと玄は考えた。


旅館の子ではなく、客の子?、だが電話口の入相久遠と名乗った男はあの子に親しそうに話しかけていたし、飲食物だって渡していた。ということはかなり仲が良いと考えられる。上客、というのは偉い客のことだろう。その子どもということは…




【?、客じゃない?】




思考にハマっていた玄はハッとしたのち、慌てて久遠の質問に答えを返した。つい考え込んでしまった、焦るな、焦るなと自分を鼓舞しながら。


「わ、私はそちらの旅館の従業員募集のチラシを見て、ぜひそちらで働きたいと思い、電話をさせていただきました。」


よ、よし、ちゃんと言えた!、と玄が己に感動していると、電話口の久遠から怪訝そうな返答が聞こえてきた。



【…従業員?】


ありえない、と言うような口調だった。

え、なに?と玄が疑問を思っているうちに、相手から思わぬ返答が返された



【っ、は、ははは!】


「っ?!」


相手からの返答は爆笑だった。

心の底からの喜びを全力で表すかのような迫力のある笑い声だった。電話越しにでも喜んでいるのが伝わる。これが知り合いとの会話だったら玄も乗っかって笑っていただろうが、いかんせん、今笑っているやつは名前だけ知ってる赤の他人だ。

玄は突然笑い始めた久遠をやばい奴だと一瞬だけ思いちょっと引いた。


しばらくして笑いが少し収まると、久遠はとてもとても嬉しそうに声を張り上げ、玄に対して色良い返事を返した。




【おー!!、そうかそうか、お前さん客じゃないくて従業員になりてぇのか!、なるほどなぁ!】



じゃあ早く旅館に来いよぉ!、採用に決まってんじゃん!!!、と言われ、玄は大きな嬉しさと少しの困惑が混じった。ちょっと待ってくれ、と。


この返事は確かに玄にとっては嬉しかったが、あまりに唐突すぎやしないか?、と。普通は書類やら面接やらを通してから雇うかどうか決めるものだろう。念の為の確認としてまだ選考書類すら送っていないのに、本当に自分を採用する気なのだろうか?



「自分はまだ面接はおろか、書類選考すらしていないんですよ?、本当にそちらで働いて大丈夫なのでしょうか?」



【ァア、別にいいよ、こちら側としても、相応しい人材が増えるなら速攻で来てほしいしなァ】


「で、ですが、私は接客業などはあまりやったことがなくて、そちらの期待に沿えないかもしれませんよ?」



そう言った後に、玄はハッと口を抑えた。

し、しまった!、考えなしに自分を下げることを言ってしまった!


嘘でもいいから接客の仕事をしたことがあると言えばよかった、玄は後悔したが、言ってしまったことはもう取り消せない。


就職活動中の苦しさの記憶が蘇る。


また、また失敗なのだろうか、


自分は、またいらないと、


ぐるりぐるりと、頭の中でよくない考えがとぐろを巻き始めた、その時、



【別にぃ?、経験とかなくても、ここで働き始めてから学べばいいだけだろ?、だから全然うぇるかむだな!】



あっはっはっはっ、と笑う声に、頭の中で渦巻いていた暗いものが少し晴れたような気がした。

唇をキュっ、と結び、なぜか泣きそうになったのをぐぅと堪えて、玄は是の答えを久遠へ返した。


「わかりました、では、いつ頃そちらへ迎えばよろしいのでしょうか?、その、私が働くのはいつぐらいからがちょうどいいですか?」


【そうだな、こちらとしても早い方が助かるから、そちらができうる限りでいいから早く来てくれ。あ、もちろん、そちらが『できうる限り』だからな?、無理して早くしてほしいと言うわけじゃない。ちゃんとしっかり準備してきてくれ。】



念を押して伝えてくれる気遣いに、玄はまた心根がぎうっと締め付けられるような心地を覚えた。




「引越しの荷物とかはどうしましょう?、業者に頼んで、そちらに送ってもらっても構わないでしょうか?」



そう聞いた途端、久遠は急にぁ゛ー…返答を濁し始めた。そして、業者はこちらが手配するから、と言った。


「え、本当にいいんですか!?、お、お金は」


【お金は構わんよ、だが住所を後でメールで送ってほしい、チラシにメールアドレスが描いてあるだろ?、それに送ってくれ。

アァ、それからこっちからも旅館の住所を送っておく。そちらの目処が立ったらこっちに連絡してくれ。

そのあと決めた日時にすぐに必要になる貴重品をもってうちに来てくれ】



「は、はい!、わかりました」



ぴ、と電話が切れた。



「…はぁあぁ…!」


玄はふにゃふにゃとその場にへたり込むと

安心から溶けそうになった。



決まった、ついに決まった!!!!

悩みの種だった就職先がついに決まった!!

しかも引っ越せる!、住み込み!!!



「じゅんび、準備しないと!、あ、連絡もしろって言われたな…!」



それから3日後、連絡をとり旅館に行く日程を立て、それから大家に解約のことを話して諸々の手続きをし、旅館が手配した引越し業者に荷物を持って行ってもらい、最初に連絡をとった日から二週間ほど経ったあと、ようやく旅館に行く準備が整い、玄は旅館に行く日を迎えた。


そして、教えられた住所まで行った



のだが、




「…な、んだ、これ」


そこは町外れにある廃屋だった。

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