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 男は提出する書類を持って、上司の机に向かう。だが、上司は席を外していて、その代わりとでも言うように上司の家族写真が机の上に鎮座していた。可愛らしく笑う子どもと、嬉しそうに手を繋ぐ上司とその妻。その微笑ましい写真に少しだけ頬が緩む。

「私の机の近くで何をやっているんだい?」

 男が後ろを向けば上司が立っていた。その手には大量の書類が重ねられている。上司には少々前時代的なところがあり、デジタルでの仕事を好まないこともその一つだった。その所為で、この上司の元で働いている人間も、自動的に多くの作業をアナログでやることになっていた。そのため、研究所内では雑用過多の部署と言われていた。

「いえ、提出の書類を持ってきました」

 男は手に持った書類を上司の机の上に置いた。上司がその隣に自分の持っていた書類を置く。そして固まってしまった腰を伸ばす。つい先日五十歳になったばかりの上司は、体の節々の痛みを訴えることが多くあった。久々に女房に会いてぇと愚痴を漏らすこともセットだ。男にとって上司は、父親としての役割を精一杯こなす、家族思いの人間だった。だがそれと同時に、研究者としては人とは思えぬ、モノのような一面をひしひしと感じていた。

「これ、打ち込んでおいてくれ」

 そう言って上司に渡されたのは、上司の実験データだった。その内容に男は吐き気を催した。上司は、零に電気ショックを与えて脳波を調べるという非人道的な実験を行っていた。さらに結果で痛覚の存在を肯定していて、マッドサイエンティストどころじゃないその思考回路を男は心底軽蔑した。

 だが、ここで口を挟めば男の計画は無に帰してしまうため、男は言いかけた罵倒を喉の奥に押し込めた。負の感情を多分に含んだ熱さが喉の奥で燻って、上司に向けた笑みは不格好な形に歪んだ。それっでも男は何も気にしていない風を装った。幸い、上司は男など興味もないと言うように、次の準備をしていたため顔を見られるという事態は避けられた。

 男はデータを打ち込みながら、眉間の皺を深くさせた。普通の人であれば死ぬようなボルト数を、欲しかった結果が得られたにも関わらず流し続けていた。その間の零の、体の痙攣の様子や、原型を留めていない顔が歪む様子が詳細に観察されている紙を握りつぶす。手書きで記されたそれは、余りにも現実的でグロテスクだったから。

 上司が出張に行き、帰ってきたのはそれから二日後のことだった。融資をしてくれている相手との話し合いに疲弊していて、目の下の隈は隠しきれていない。大きなため息をついて椅子に座り、話しかけるなという雰囲気に包まれていた。

 上司のポケットから、破られた写真が落ちる。男が拾えば、上司の娘の写真であることが分かる。男は目を見開いた。上司は、破られた自分の娘の写真をポケットに入れていたのだ。破られた場所は真っ直ぐで、意図して破ったのだということを嫌でも感じさせる。上司にその写真を返すことが出来ずに机に戻れば、先輩が目を丸めた。

「お前、それどこで手に入れたんだよ」

「いえ、ポケットから落としてて。意図的に破られた跡があったので返せなかったんですよ」

 先輩は面倒くさそうな顔をした。この写真について何か知っているようで、言いかけて、でも言わない、ということを繰り返している。そして声を潜めてこう言った。

「あれはいいお父さんを演じておきながら、家族のことなんか一ミリも思っていないんだ。本当はもう一人娘がいたけど研究に使ったって噂があるくらいだ。俺も寝言で『娘、電気ショック』なんて言ってるのを聞いたことがあるし、そもそも娘の名前なんて覚えていないような人間だ。だからその写真も適当にいないときに机の上に返しておくことをおすすめするぞ。俺は忠告したからな。何かあっても俺のせいでは断じてないからな」

 男は失望した。机の上の写真立てを見て、零に対しては非道な事を行うが、家族に対しては一定程度の情を持っているものだと思っていたからだ。だが、そんな人間的な情など一ミリも持たないモノだった。それが、男に人間不信の芽を撒いた。

 男は先輩の言う通りに、上司の目を盗んで写真を返した。その後その写真がゴミ箱で更にバラバラになった状態で見つかった。男が返した写真の何かが気に入らなかったのか、落書きまでが施されていた。そして男はそれをうっかり手にしてしまった。それは、上司が部屋に入ってくるタイミングと丁度同じで、逃れることなど出来なかった。

「なぜゴミ箱を漁っていたんだい?」

「漁っていたというか、見たことのある写真があったので」

 上司が何かをぼそぼそと言ったが男には聞き取れなかった。男が下を向いて必死に言い訳をひねり出そうとしていると、上司はもう飽きたように退出を促した。その写真が欲しければ持っていても良い、という言葉を付け加えて。

 俺が父親ならば、自分の娘の写真を知らない男が持っているのは遠慮願いたい。それを許すという愛情の浅さに、もはや怒りすらも湧いてこなかった。最近は特に、日に日に疲弊していくことを感じていた。

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