第一章 モノ、研究者

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 男は、部屋に入ったときよりはいくらか明るさを取り戻した表情で仕事をしていた。ビーカーに入った零の体液がゆっくりと揺れる。男の研究テーマは、一般の人間より粘土の高い零の体液は一体何かを調べることであった。中に含まれる成分を調べて、水分の割合を調べて、そうして最終的にはこの液体の役割を判明させることが目的だ。そもそも男はここに来る前から、人の体液に興味を持って研究していた。倫理的に受け付けないが、前々から彼女の体液に関しては非常に興味深いと思っていた。

「先輩、先程はビーカーの片付けを手伝ってくださりありがとうございました」

「良いっての」

 先輩と呼ばれたモノが人好きのしそうな笑みを浮かべる。先輩は世間一般で言うイケメンの部類だった。この男所帯の研究室では発揮されないが、一度外に出ればしばしば女性に声をかけられるような人間だった。

 男も先輩も、根っからの研究者のため、無駄話などせずに自分の研究にのめり込んでいった。黙々と手を動かす二人の間の空気は張り詰めているわけでも緩いわけでもなく、ただそこにあった。ただそこで二人の仕事を見守っていた。

 男は解析に回していた体液の分析結果を見る。特別おかしなところはない。人間と水の割合は違うが、それも大きな差があるわけではなく、水が少ないから粘度が高いというつまらない結果が出てきただけだった。しかし、理由もなしに粘度が異なるというのはどうもおかしい。男は他の人の論文を読んだり、その他普通の人間のカルテを読んだりしながら一日を過ごした。もちろん、その間に研究所の内部地図を二部用意したり、保管ケースの強度を確かめたりといった準備も進めていた。そうして分かったのは、保管ケースの頑丈さは男が思う数倍高いものだということだった。

 男は毎日、仕事を定時きっかりに終わらせて寮に帰る。仕事が残っていたら寮に持ち帰って行う。絶対に定時以降には研究所には残らない。男にはそんな特徴があった。それは男が一人でいる時間を大切にしているということでもあったし、度重なる心労で常に休憩を欲していたということでもある。男は机の上に置かれた、エナジードリンクの残りを飲み干した。そして廊下にあるゴミ箱に捨てて帰った。今日も定時きっかり。男は周りから見ていつも通りであった。男に対して違和感を覚えていたのは、男のへらりとした笑顔を見た先輩だけだった。先輩は研究所内の友だちや交友関係はごく狭いものだし、余計な口を挟むようなタイプでもないから放っておくことにした。このままでも特別害を与えられることはないだろう、と。そう高をくくっていたことを後悔するタイミングは、意外に早く訪れた。

「お前、何か隠してないか?」

 そう先輩が尋ねてきたのは、男が逃亡を決断してから実に一週間後のことであった。男の計画は順調だった。物の準備も逃走経路の準備も万端で、後は機会を見計らって逃げ出すだけだった。そんな折に、ついに先輩に話しかけられてしまった。男にも、近頃先輩に見張られている自覚はあった。食堂に行くときにはついてきて、休憩の時間にも、暇が合えば傍にいることが多かったように感じていた。先輩は確信に近い勘で、男のことを疑っていたのだ。

「別に、何も隠してないですよ」

 男がそう言えば、先輩の眉間の皺が寄った。そしてそれはどんどん深くなっていく。先輩は、男が捨てたはずの一枚の退職届を目の前に見せてきた。

「退職しようとしてるのか」

「しようとしたのですが、それは無理だと言われました」

 先輩はさらに疑ってくる。居心地の悪い時間が流れ、男は息が詰まった様子だった。どう言い逃れれば良い。もし上司にバラされてしまったら自分はどうなるのか。嫌な想像ばかりが駆け巡り、男の背中を冷や汗が一筋伝った。しかし、先輩の言葉は予想外のものだった。

「お前、俺から大好きな実験体ちゃんを奪おうと思っているのか」

 当たらずとも遠からずなその言葉に頭を抱えた。目の前にいる男は、ぐちゃぐちゃになった少女の実験体に恋をする研究者だった。

「分かるかい? あの可愛さが。ぐちゃぐちゃな内蔵。もちろんそのぐちゃぐちゃさは日によって違う。内蔵全てがまろび出て、初めはピンク色で色鮮やかだったものがだんだん赤黒く変わっていくんだ。保管ケース越しだから愛しくても匂いはわからないけれど。きっと臭っさいんだろうなぁ。鼻につくような刺激臭で、俺達を誘ってくるんだ。ああ、想像するだけで興奮してきた。どうせ彼女の内臓はいくつ切り刻んでも例え取っても再生するんだ。一個ぐらいくれてもいいと思わないかい? そしたらそれを顔の前に近づけて布団の中で、ふふっ」

 気持ち悪い、どころではない。その倫理観の欠片もない言葉に、ただ嫌悪感を抱かせた先輩の形をしたモノは、歪んだ笑顔を見せた。

 心があり、人間である零をモノとしか思っていない発言。男には、そんな先輩こそ人ではなくモノに見えた。なぜそんな非人道的な事ができるのか、男には理解が出来なかった。先輩の研究テーマは、零の内臓の消化酵素で、事あるごとに零の体を切り刻む張本人でもあった。

「お前が実験体ちゃんの部屋に入っていくところを見たんだ。お前も心奪われただろう。あの美しさに。そうして自分だけのものにしたいと思ったはずだ。いいや、思わないなんてありえない。そんな折にお前の退職届を見つけてみろ。お前が退職して実験体ちゃんと駆け落ちしようとしているのかと思うだろう」

 先輩は圧をかけながら話した。どんなに歪な恋でも、先輩にとってそれは恋なのだから。奪われるとなれば、正常な思考ですらも絡め取られまともにはいられなくなる。

「彼女の部屋に行ったのは、退職届を上司に見せに行った後です。それに、大切な先輩の大切にしているものを奪おうとするわけがないじゃないですか」

 そう言えば、納得はしていないものの、先輩はそれ以上の追求を辞めたようで、「俺の実験体ちゃんに手を出したら許さないからな」と吠えて去っていった。

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