モノ、零
堕なの。
プロローグ
プロローグ
その仰々しい機械に繋がれた少女(というと長いのでここでは便宜上「零」と呼ぼう)は、特別な人間だった。科学者たちに言わせてみれば、人であるが人ではない。人を模した植物的性質を多く持つ実験対象だった。いや、彼らはこれは非道な実験ではないのだと自分に言い聞かせるために、零を植物のような、もはや生命体ではないモノだと思いこんでいた。だが、研究を正確に言い表すのであれば、人であるが人では持ち得ない特性を持つ零という種であった。
零には呼吸が必要なかった。酸素を得ずとも零は生きていられた。空気を吸ったり吐いたりはするものの、それが体に与える影響は無いに等しかった。だから零は機械によって空気のない真空環境に置かれても、十数年生きていくことができたのである。それが零にとって良いことかどうかは置いておくが。
零には食事が必要なかった。外界から何も得ずとも、零は体内でエネルギーを生成することが出来た。この体質故に、生まれたときから何も口にせず、親から与えられる母乳やミルクも飲まなかったのである。だからこそ、この体質が露見したと言えよう。もちろん。この研究施設でも、零に与えられる食事はない。
零は人類の未来の可能性の一つだった。何も食べずとも生きていければ、呼吸をせずとも生きていければ、人は環境と共生することが出来る。世界はそう信じて、零の研究に多額の費用を詰め込んだ。実際に、その研究によって、零の体内で起こっていることが少しずつ分かり始めた。なぜ空気がなくとも生きていけるのか。どうやって体内でエネルギーを生成しているのか。それは世界が驚愕するような結果ばかりで、それが期待と費用の投資を後押しし続けた。今では零の体内は乱雑に散らかっていて、生まれたときの人としての姿は持っていない。それでも生きているというのだから、矢張り零は人ではないのだと研究者たちは安堵した。
その研究者の中に一人、一般的な倫理観を持った男が居た。男は平凡という言葉が似合うような人間だ。もちろん、研究メンバーに選ばれているからには優秀だが、姿だけを見せれば百人中九十人は見向きもしない容姿であった。男は研究さえできればそれで良かったので、その容姿について悩むことは今までの人生で数えるほどしかなかった。
男が零に会ったのは、配属されてすぐのことだった。この研究所に来た研究者は、研究室のメンバーに挨拶した後、研究対象を直接見ることが慣例となっていた。男は零の姿を見て息を呑んだ。そのあまりの痛々しさと、それでも生きているという恐ろしさに。まるで殺人鬼に襲われて体を滅多刺しにされたような大量な傷跡。しかしその傷跡は整列していて、理性に支配された悪意のない傷であることが伺える。それがより、理不尽さと憂虞を呼び起こした。
「生きているのですか」
緩く震えた声は縋るように喉から絞り出された。こんなのが、という言葉は飲み込んで、当たり障りのない言葉選びをする。だから研究するんだという倫理観のない返事に、男は目を閉じた。心も閉ざした。男は嫌悪感を抱いて仕方がなかった。
男は配属されてしばらくの内は心を押し殺して研究していた。自分がしているのはただの実験で、非人道的な面はどこにもないのだと言い聞かせた。しかしそれにも限界はある。男はある日、涙が止まらなくなってしまった。
医者にかかるも原因は不明。本人からしてみればストレスと罪悪感から来たものだったが、研究所に勤務している医者も、倫理観の壊れた人間だ。だから、男の心内など想像することも出来なかった。
男は仕方なく、処方された薬で無理やり涙を止めるようにした。副作用として眠気と食欲減退があったが、病気です、しばらく休みをもらいます、ということは出来なかったから体に鞭打って働き続けた。その間も、男の心は確かに擦り減っていた。そしてある日、パリン、と割れる音がした。
「おい、ビーカー割んなよ。隣の席の俺も片付けじゃねえか」
「あ、すみません」
男は手元から滑り落ちたビーカーを片付けながら、ここをやめようと決意した。隣で喋るモノの声は表面上をなぞるだけで、男には何も入ってこなかった。
「お前、俺の話聞いてんのか?」
「すみません。ぼーっとしてしまって」
男はそう言うと、へらりと笑った。いつもの男なら考えられない笑い方に、隣のモノは心配の声をかけようとした。だが、その言葉が発される前に男が立ち上がってその場を去ったため、その言葉は宙ぶらりんになった。
男は深刻な面持ちで、常にファイルに忍ばせていた退職届を握って上司に届けに行った。しかし、それは認められなかった。当たり前だ。零の研究は社外秘となっているものが多かった。研究室同士でもそうなっているのに、研究員が中で起こっていることを外に話されても困るのだ。上司は取り合うつもりはないというようにその申し出を一刀両断し、無理やり退室させた。
男は気を悩ませた。男の中にもうここで働き続けるという選択肢はない。ただ、できるだけ穏便に退職をしたかった。退職をした後に遺恨が残るのは、男にとってなるべく避けたいところであったからだ。しかし、それは難しそうである。男はそんなことを思いながら研究所内をフラフラしていれば、配属されたときに案内された零の体が保管されている部屋の前にたどり着いていた。禁じられているわけではないが、男は誰にも見られていないことを確認してその部屋に入った。
そこには初めて来たときと変わらないように見える零が居た。それを見て、男は口元を抑えた。なんとか吐き気を堪えて、その保管された体に近づいた。こんな、こんな、と纏まらない思考が男の脳を埋め尽くした。言語化し難い不快感が男を支配する。男は保管ケースに手をついた。分厚い硝子で覆われているケースは零を守るためものではなく、閉じ込めるためのものだった。それが男には気持ち悪く思えて仕方がなかった。
男は部屋を出ようとした。そうしてドアノブに手をかけると、男の耳に少女の声が届いた。助けて、助けてと。零に、テレパシーのような力はない。だからそれは男の幻聴だ。だが、男はそれを自分に向けた救助信号だと受け取った。男には人並みの正義感が備わっていた。だから男は、零を助け出したうえで自分もここをやめようと思った。そのためには準備の時間と綿密な計画が求められる。男は仕事場に戻った。微かな希望を持ちながら。
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