……………


 「?」


 トイレに向かう途中、階段の二段目の部分に赤黒い染みを私は見つけた。その染みは、乾いた血の色のようにも思えるもので、階段の上を見上げると何段か上にもう一つ、二つ、水滴を落としたように同じ色の染みがあった。

 血……? 二階は確か……彼の妻の部屋と物置だと聞いている。……いや。今、私が行く必要はない。私はそう思いつつ首を振って、無駄な妄想を振り払った。そのまま玄関近くのトイレへと向かう。


 トイレを済ませて出る。私は目の端に映る階段を見ないようにしながら、洗面所の方へと足を向ける。

 洗面所は洗濯機、乾燥機、洗面台、風呂への扉といつもの様子が並ぶ中、床の端に折り畳まれたブルーシートが置かれていた。そのブルーシートの一部には先程階段で見た赤い染みが見える。ガムテープで養生した形跡やかなり大きなブルーシートを幾つか重ねている様子からも随分と大掛かりな……『何か』をした形跡であることは間違いない。

 そして何より、洗面所は石鹸などの匂いが満たされているにもかかわらず、その中に微かな、異臭がすることが、私の不安を更に搔き立てた。


 まさか、いや、さっきの肉の味は確かに牛の肉だ。だが、人は先入観で感覚を騙すことができるとも聞く。いや、流石の彼でもそんな凶行はしない。しかし、これは。いや、決定的な証拠はない。であればこのブルーシートを広げて……。いや、ダメだ、ダメだ。人の家に来てそんな、変な疑いを持つのも……。


 私はそう逡巡しながらもとにかく手を洗う。現実逃避である。

 ……もし、もし万が一、彼が……そんなことはするはずはないが、万が一にも彼の妻を殺し、遺体を解体していたら……。私は共犯者になるのだろうか? 真実を明かすことから目を背けた事は罪になるのだろうか? 司法ではなく私の中では、それは罪と言えるのだろうか?

 滾々と水が流れる中、私は手を一心不乱に洗い続けていた。心ここにあらず、私の心は手を洗う私の背後、足元の床に転がった幾枚ものブルーシートの束にある染み、そして階段の染み。時たま先程食べて私と彼の腹の中にある肉、その三点を行ったり来たりしていた。


 ……悪い冗談だ。有り得ない。有り得たとして、考えるのはナンセンスだ。私はそう結論付け、水を止める。洗面所を出る際に私はブルーシートを一瞥する。そこにある染みは、赤い絵の具にも思えてきた、その割には少し黒く彩度も低い気がするが、それは気のせいなのだ。私はそう言い聞かせ、洗面所を出る。目の端に映る階段の染みも絵具だ。きっと。たぶん。恐らくは。


 私はそうしてリビングへと戻る。彼は未だに肉だけを食べていた。そして、その様子は先程よりも、何と言おうか、熱意のようなものを感じる様子であった。彼は自身の口に入る肉に瞳を落とし、一口一口味わうように、長い咀嚼を経て呑み込む。何かにとりつかれたように全ての動作をねっとりと行っている。……私の目にはそのように映った。


 これは良くない兆候だ。私は心の底では既に彼を疑うポーズになってしまっている。それはいけない。この歳になるまで私と長い関係を維持している類まれな友人をそのような荒唐無稽な妄想で疑うのは良くない。そうだ、荒唐無稽な妄想だ。気になるのなら聞けばよいのだ。彼は答えてくれる。私はそう考えて元居た彼の向かいの席に戻って座り、いつもの調子で彼に聴いた。


 「洗面所、ブルーシートがあったけど、画でも描いたのか?」


 肉に目を向けていた彼の目が、ぎょろりとこちらを見据えた。その顔は一瞬だったが表情の読めない様子を浮かべていた。だが、彼はすぐに先程と同じような、少し疲れの見える表情に戻り、答える。


 「ああ、まあな。油絵を始めたんだ。意外と飛び散るものでな。庭にブルーシートを敷いてやってるんだよ。……他にも最近始めた趣味は多いぜ。家庭菜園とかな」


 先程一瞬現れた彼の様子を記憶から消すように私は平静を装い返事をする。


 「庭いじり……。へえ、意外だな。君はもっとスポーティな趣味が多かったから」


 彼はサイクリングを以前までやっていたことをよく覚えている。昔はトライアスロン大会なんかにも何度か出ていた。


 「ああ、結婚前はな。今はこの家でやれる趣味が良いかなと思ってね。家庭菜園なんか、庭に結構な穴を掘る羽目になってな。良い土に入れ替えるのは大変だよ。だが、いい運動にはなるぜ」


 「へえ、いい土ね。肥料とかもこだわってるって事かい」


 「もちろんさ。入れ替えた庭の土にはカルシウムやミネラルがたっぷりさ。……だが意外とカルシウム肥料なんかは節約もできるんだよ。焼いた骨を砕いて撒く、とかね」

 

 「……な、なるほどな」


 「結局、野菜だのなんだのも土の中の窒素をはじめとしたミネラルを吸って栄養価に変換しているわけだから、俺たちはフィルターを通して肥料を食っているようなものだ。肥料を工夫して値段をおさえなきゃあ、結局高くつくもんだぜ」


 「整然とした理論だ。反論の余地は私にはないな。ハハ……」


 骨……。食べる……。友人の変わりようも相まって未だに不安は拭えない。いや、気にしすぎだ。彼だって絵を描いているとか庭いじりしてるとか話しているじゃないか。別にそんなに不安がるような事じゃない。……そうだ、さっき洗面所で匂ったちょっとした異臭についても話を聴こう。失礼になるかもしれないが、他の奴に指摘されるよりずっといいだろう、彼が気づいていなかったらそれこそ彼にとっても大変だ。

 

 「……そういえばさっき洗面所で、なんかちょっとだけ嫌な臭いがしたんだ。私の見当違いかもしれないが、何か心当たりあるかい?」


 彼はホットプレートのスイッチを切り、最後に焼いていた肉を口にゆっくりと運び、咀嚼し、飲み込んだのち、答える。その様子は何かを考えこんでいるようにも見えた。


 「……それはすまなんだな。多分さっき言っていた『肥料』の匂いだと思う。外の物置に入れる前に洗面所に一度置いていたからその時だろうか……。もしくはブルーシートに匂いが付着していたのかも知れない。洗面所は毎日しっかり掃除してるんだが、残っていたか……。あとで消臭剤置いとくよ」


 「ああ、こう広い家だと余りても回らないだろうから大変だな」


 「全くだ。猫の手も借りたいが自分以外はあまり期待できないからな、ハハハ」


 そう言って彼は立ち上がり、食器をキッチンに持って行く。私にはその後姿が少々不気味に映ってしまった。


 (続く)

 

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