赤い染み

臆病虚弱

     ………………


「……この肉、旨いな」


 私は向かいの友人にそう言った。彼は自らが振舞う肉への感想に、意外なほど乾いた表情で『そうか』と言って肉を口に入れた。

 私はその彼の様子をちょっと変な目で見ていた。

 というのも、彼は社交的な男でこうした雑談やちょっとした感想でも普段ならば拾い上げて話を続ける。意識してそうやっているようではないらしく、親しい友人になるほどに彼のお喋りはとめどなく続く男だった。だが、そんな彼が本日は無口なのだ。


 私は、その無口の理由を何となく察していた。

 私は白飯の上にタレにくぐらせた肉を乗せ、口に運ぶ。脂の旨味、醬油の塩気、タレと白米の甘味、ほのかな酸味、胡麻の風味、口の中を満たす肉汁、とびきり上級の肉だとよくわかる味だ。だが、私の心は、ちょっと、嫌な気配への心配に揺れていた。

 

 「……うまそうに食ってくれて、嬉しいよ」


 ぼそっと彼はそう言って、ぎこちない笑いを浮かべた。私はその返答がてら、彼の身に起きている事を、それとなく確認する。


 「ああ、でも珍しいな。君の家で食事なんて……」


 「普段は、あいつがいるからね。今日は……あいつ……実家行ってるから……」

 

 彼が妻について語る際少々声色が変化したことに私は気づく。微妙な揺れ、大したことではない、そう思うべき程度の変化。だが、彼のしょげた様子を見れば、何と言うか、重大な機微に感じてしまう。私はその、彼の妻についての話を切り出すべきか迷う。そのことは触れてほしくないのかもしれない。

 だが、彼としても私を家に招いたというのは何か話したいからであろうし、まだ触れられたくない話題かどうかは分からないのだから、とりあえず、訊いてみてもよいだろう。そう思って私は話を切り出す。

 

 「そうか……。珍しいね。君の奥さんが泊りで遠出なんて、今まで無かったし。大抵、君がついて行くだろ?」


 「……そう言えば、そうだな。まあ、あいつもたまには一人実家でゆっくりしたい事もあるさ……。普段から俺に付き合ってくれてるから」


 彼は含みのある言い方でそう語る。私は話を続けるべきかの迷いはまだ渦巻いてはいるが、話に掉さすよりはと彼の言葉に反応する。


 「付き合ってくれてる……か。私は君たちのこと結構仲の良い夫婦だと思っていたけどなぁ」

 

 「……はは……。そうかな? 俺がべったりなだけだよ」


 彼はそう言いながら肉を口にする。確かに彼は少々『重い』くらいに彼の妻を愛している様子であった。彼は六歳ほど年上の女性と職場で知り合い、彼の熱烈なアプローチの末に結婚に至った。彼の妻は社交的で朗らかな様子の彼とは対照的にサバサバとした印象を受ける様子だった。

 私は彼女とはあまり交流がないのでそこまで仔細にはわからないが、彼と話していると自然に彼女の話題が出てくるので何となく性格や雰囲気からのイメージはある。


 彼の口から語られる彼女は美しいや可愛らしいなどの愛ある形容詞に彩られていたが、エピソードとしては彼が彼女の為に尽くしている話が多く、彼が彼女から何を受け取っているのかはあまり記憶にも残っていない。

 それに、最近は彼も仕事の忙しさなどから私とは週に一度ちょっとした連絡を取り合う程度の交流になっていた。そして彼の少ない連絡の中には疲労や彼の妻との関係が少々上手く行っていない様子が数度垣間見えた。


 そんなこともあって、私は彼の『自分がべったりなだけ』という発言に、複雑な意図を読み取ってしまう。彼の愛が冷めてしまったのか? 何か喧嘩でもしたのか? 

 そう言う無粋な想像をする中で、彼は私の様子に気づき話しかけてくる。


 「どうかしたかい? 手が止まってるぜ、今日は遠慮せずに食べてくれよ。実は肉、ちょっと買いすぎちまったんだ。初めて大きい塊で買ってみたたもんだから」


 「ああ、うん……。大きい塊か。専門店で見る様なヤツかい?」


 「それよりも大きいかもしれん。実は知り合いに酪農家がいてね。血抜きだのなんだのまで見せてもらって肉を買ったんだよ。面白い体験だったね」


 今日私は日曜日だというのに急な仕事がありその帰りに彼の家に寄ったため、彼が午前中や昼間に何をしていたのか、あるいは先日何をしていたのかは全く知る由もなかった。


 「へぇ。処理まできちんと見たうえで買ったのか……。でもそれを体験したうえでよくそんなに食えるな。私だったら少し時間を置きたくなるね」


 彼は皮肉っぽく笑いながら言う。


 「罪悪感まで味になる。俺はそう思うよ」


 そうして彼は肉を口に入れる。その様子を見てふと私は気づいた。彼はさっきから肉しか食べていないのだ。しかも、塩コショウもふらずにそのままの肉をそのまま口にしている。野菜などには目もくれずに。


 私はさっきの会話や今までの彼の様子から何だか不安になってきた。確かに、さっきも言ったように彼は最近仕事や生活で忙殺されていた様子だし、何だか今も様子がおかしい。健康には人一倍気を遣い、そもそも肉をそこまで好んで食べるような男でもなかった。明らかにおかしい。

 そう思うと私は肉を口にする手が止まってしまうのだ。だが、せっかく用意してくれた彼の心意気を汲めば、彼の事を疑うような様子で手を止めるのも申し訳ない。そんな板挟みの思いでぎこちなく私は再び肉を口に運ぶ。


 「肉というのは……。速筋遅筋、その中間となる筋肉、そして脂肪で味が複雑に変わるらしいな。そして牛の場合、雌の脂肪分の割合が多く、運動も少ないため肉が柔らかく脂肪分との兼ね合いが良いと聞く」


 「ふうん。これも雌の肉なのか?」


 「まあ、そうだな。……そういや、人間も女の方が旨いらしいな」

 

 彼は肉を口に運びながらそう言った。私は答える。


 「ん? ああ、そういや昔、本で読んだな。人の味を覚えた羆が妊婦や子供、女を襲い、保存として土の中に埋めた話……」

 

 「だが、日隈の舌と人間の舌は違うからなぁ、人間の下にはどう感じるのか、なんて馬鹿な妄想は今することじゃないな。はは」


 「ハハ。全くだな……」


 話を広げたのは私だが、先ほど以上に不穏な雰囲気が周囲を包んでいる。私は流石にもう肉を食べる気にはなれず、白米をかき込むと箸をおき、『ごちそうさま』と彼に言う。


 「おいおい、全然食べてないじゃあないか。口に合わなかったのか?」

 

 「いや、ちょっと腹の調子が最近芳しく無くてな。良い肉だと胃がもたれてしまって。……肉は美味かったよ。ありがとう……。少しお手洗いいいか?」


 彼は少し安心した様子で「ああ、どうぞ」と返事をする。

 私はそのままリビングを出て廊下を渡りトイレへと向かう。


 (続く)

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