みつかいのしまへ

山崎朝日

みつかいのしまへ

 自分は本当に十四になる齢まで「淡いグレーのふわふわ上着」を着て過ごしたのだと、彼女は言った。初めて会った日に。信じられなくて僕は笑ったけれど、彼女は大真面目だったし、「すべての大人がすべての子供を命懸けで護る約束の証だから」と彼女にその服装をさせ続けた信仰深い母親のことを悪く思ってもいなかった。こういう人とは付き合えないなと、僕は思った。挨拶をする程度の顔見知りにとどめておくのが無難だと。

 常に北を指している針はつまり常に南をも指しているのだと、彼女は言った。二度目に会った日に。まあそうとも言えるかもねと僕は笑ったけれど、その時彼女の首にかかっていた方位磁石のペンダントは、今僕の首にかかっている。

 知識や科学技術は悪いものじゃない、むしろ必要なものだと、彼女は言った。初めてベッドを共にした日に。十四歳まで何の疑問も持たずに淡いグレーのふわふわ上着を着ていた人の言うことじゃないと僕は冷笑したけれど、彼女は怒りもせず、いつも通り生真面目に首を振って言った。その知識や技術を正しく使う、別な「知識」が必要なだけなのだと。

 ではその「別な『知識』」を、僕らは――僕ら、今の地球人は――持つことができているのだろうか。僕にはわからない。いや、わかっている。答えは「否」だ。

 人類は何も変わっていない。古い地球人も現地球人も同じで、本当に必要な知識は持っていない。少なくとも、いや、多くとも。知識や科学技術の使い方を正しく理解している人間は、ごくわずかだ。世界に、ヒトとその他全ての生きとし生けるものに、害を為さない科学技術の使い方。わかっている人は、いるとしても、本当に本当の一握りだろう。

 知識や技術そのものは、遅かれ早かれ歴史が進めば当たり前に進んでいく。増えていく。それを「進歩」と呼んでしまったところに誤りがあった。いや、ある。今もだ。

 とはいえ、その「歴史が進めば当たり前に」得ることのできる知識さえも、僕らはまだ古い地球人に追いついていない。いわゆる「終末時代」に地球上で使われていた文字はほとんどが解明済みだし、深い地層から掘り出された図書館、その膨大な資料の解析も着々と進んでいるけれど。にもかかわらず。僕らはまだ、先祖たちの持っていたような知識や科学技術を持ってはいない。

 それでも。

 僕らの船は南を指して進む。古い古い文献から拾い出して名付けた、アムンゼン・スコット号。彼女のペンダントを首に、僕は舳先で双眼鏡を覗く。


                   *


「グレーの上着の子供がいる」

 新聞を眺めていた彼女が呆然と言った時、僕はそれが何を意味するかわからなかった。

「ああ、色つきの写真、多くなったね、最近」

 フライパンを傾け、パンケーキを皿に移しながら、記事に目を遣ることもなく、そんなことを言った。

「それ、本物の色じゃないからね。知ってるとは思うけど」

 僕の口調はいくらか苛立っていたかもしれない。遺跡から掘り出された書籍に残っているような色鮮やかな写真の撮り方を、僕らはまだ知らない。印刷されているのは、撮影者が添付した大まかなメモ、ここは赤系ここは青系ここは黄色系というような、大雑把な支持に合わせて色を載せただけの写真だ。不必要な経費のかけ方だと、僕は常々思っていた。不要というより、害悪と言った方がいい。

 赤なら赤という指示に対して、載せるインクの量、その割合まで、写真を撮った人間は指定しない。そんな知識もない。イエローとマゼンタのインクを何パーセントずつ載せたら完全な真赤が印刷されるのか、写真家は知らない。

 個々の出版社や印刷所職員のセンスによって、写真のもたらすインパクトが違う。そんなのは間違っている。雑誌に載せるイラストなら構わない。が、報道に添付する写真は。

 しょっちゅう口にしていたから、僕の意見を彼女は知っていたし、同意してくれてもいた。それなのに。新聞に載っている写真の色を鵜呑みにするようなことを、彼女が言う。その事実に、僕は苛立ったのだった。そんな僕の気分に、その時の彼女は気づかなかった。あるいは、気づいてはいても無視したのかもしれない。

「違うの」

 焼きあがったパンケーキの皿を今まさに載せようとしていたテーブルに、彼女が新聞を広げた。仕方なく僕は、彼女の行為に対する不快の意は軽く眉を顰めることで表すにとどめ、コメントを述べるのは控えて新聞に目を落とした。一面の半分以上を写真が占めている。予想に反して、写真はモノトーンだった。

 倒壊した建物群の間に怯えた目をして集まっている、子供の写真だ。瓦礫の隙間から顔だけ、あるいは目だけを出している子供(あるいは大人)もいるが、明らかにわざわざ、写真に撮られるために、わずかな開けた場所に寄り添って立つ十数人が目を引く。

 大陸と大陸のつなぎ目あたりが何かしら紛争中なのは珍しいことではなかった。というか、そうでないことの方が珍しい。国の名前も国境線もしょっちゅう変わり、今現在起こっていることさえ、どこを経由してきた情報かで内容が全く違うのが普通な、そういう地域だ。物心つく前からずっとそうだった。それに慣れてしまってはいけないとは、僕も思っていた。自分の国でないからといって、そんな状況を当たり前だと思ってしまってはいけない。無関心であってはいけない。世界のどこかで起こっていることは、やがて自分たちにも起こる可能性のあることだ。無関係だと思ってはいけない。けれど、自分に何ができるわけでもない。それも物心つく前から変わらない事実だ。心を痛めはしても、何もできない。だから、悩んでも仕方ない。そう思っていた。要は、慣れてしまっていたのだ。彼女もそうだと思っていた。

 彼女がテーブルに広げた新聞の紙面、その半分以上を占める写真を眺めて、僕は思わず眉をひそめた。

 何を考えているんだ、と思う。同じ写真の隅の方ではまだ土煙が上がっているような場所、その場所が安全である保障などどこにもないような場所に、わざわざ、開けた場所を作って、子供を集めて。そんなことをして撮る写真に、何の意味がある。撮影者がカメラを構えている間にも、戦車が戻ってこないという保証がどこにある。幸運にも殺戮を逃れた数えるほどの幼い命を危険に曝して写真を撮ることに、何の意味があるのか。

「子供がみんな、淡いグレーの上着を着てる」

 彼女がまた言った。僕は更に苛立った。

「モノトーンだよ」

 淡い、はともかく、グレーかどうか、どうしてわかるのだろう。どうして、彼女はわかったつもりでいるのだろう。淡いピンクか淡いブルー、或いはそのほかの、淡い何色かでないと、どうして思うのか。それより何より、今、この写真に対して思うのは、思うべきなのは、上着が何色かではないだろう。

「違う。よく見て」

 いつになく強い調子で彼女が言う。訝りながら、僕はもう一度写真を見た。戦闘間もない、瓦礫の街。遠い地平と空との間を埋める土煙。地面の濡れているところは、泥水なのかそれとも水以外の液体なのか。目ばかり大きな、煤だらけの、痩せた子供。その痩せていることが、サイズの合っていない上着を着せられているせいで余計に目立っている子供。泥だらけ、煤だらけ、血だらけであることが、新しい上着を着せられているせいで余計に目立っている子供。そこまでを、考えるともなく考えて、思考がいったん止まった。

 新しい、上着?

 瓦礫の間のわずかな地面に立っている子供たちは、揃いの、新しい上着を着ていた。勿論、本当の意味で新しいわけではないし、本当の意味で揃っているわけでもない。「淡い」と一口に言ってもその淡さは様々で、ほとんど黒に近く見えるものから逆にほとんど白に近いものまである。ましてや使われている素材は、どこかから集めてきたぼろ布がほとんどだろう。一人一人の着ている材質が、一人分の中でさえ場所によって違うのが、写真を通してさえ見える。それでも、作られたばかりであることがわかるのは、それらの服がまだどこも破れていなくて、血の染みがついていないからだ。そして、実際には色の濃さも形もまちまちであっても、同じデザインを目指して作られていることがわかる。頭の部分だけが黒い、フード付きの上着。体全体を覆う(ことを目指しているのであろう)淡い何色かの上着の、袖部分はずいぶん長くて、腕だけでなく手も全て覆っている。子供の一人が黒いフードを目深に被っていて、そのフードが一風変わった形をしていることも見て取れた。額にかかる部分の中央だけが長く伸びて、鼻の頭まで達している。何のためのものか、僕には見当がつかなかった。しかし、無意味なものではないのだろうと思う。そんな余裕などどこにもあるはずのない瓦礫の街で、ありあわせの布を継ぎ合わせてわざわざ作ったと思われる上着だ。単なる「デザイナーの思いつき」であるはずはなかった。

 答えを求めて隣を見る。「これは?」と問うたつもりだったが、彼女は違う解釈をしたようだった。僕の眼をまっすぐ見返し、力を込めて頷く。

「これは、私が着ていたのと同じもの」

 彼女の、着「ていた」もの。大急ぎで、僕は脳内を探し回った。そして見つけた。「淡いグレーのふわふわ上着」だ。彼女が、十四歳になるまで着せられていたという。そこには「すべての大人がすべての子供を命懸けで護る約束」が込められているのだという。


 最初に声をあげたのが誰かは知らない。彼女かもしれないし、他の誰かかもしれない。今となってはどうでもいい。写真の場所まで子供たちに食べ物を届けに行くのだと、彼女は言った。そして、子供たちを、安全な場所に連れ帰る。五十人以上もの人が、直接その場所に行く実働部隊として名乗りを上げていた。後方支援に当たる組織は千人を超えるという。

 支援組織に加わるだけなら、反対しなかっただろう。僕だって、何とかして子供達を助けたい、助けるべきだと思う。そのために、できる限りの援助をしよう。物質的、経済的なこと、事務的なこと、その他、考えなくてはならないたくさんのことに、僕もできる限り力を貸そう。

 けれど彼女は「行く」と言った。自分もまた、その服を着て育った一人だからと。全ての大人が「命懸けで」全ての子供を護るのだと。食料を配って終わりではない。命の危険のない場所に、子供たちを導かなくてはならない。彼らだけでは無理だから、大人が付き添って、安全な場所まで。まだ繁殖年齢に達しない若い成鳥が雛の行進を護るように。

 

 何とかして彼女を思いとどまらせようと、僕は最大限の努力をした。図書館をめぐり、古代の文献を読み漁って反例を探し出し、彼女の前に並べた。

 黒と白の鳥たちは、自分の子以外に餌を与えたりしない。当たり前だ。親だって食べなきゃ生きられないんだから。何日もかけて、自分の分と、雛の分。もとよりギリギリの量しか運べないのによその子まで育ててたら、みんな栄養状態が悪くなって結局共倒れになってしまう。そんなことにならないように、親鳥の命が尽きれば、雛の命もそこまで。そういうものなんだ。それに、何らかの理由で卵や雛を失った親が、親を失った卵や雛を代わりに育てたりもしない。そんなの知ったことじゃないんだ。自分の子だけが、可愛い。自分の子が生き延びられるよう、死力を尽くす。野生動物ってそういうものだろう。毎年、何割かの親は戻れないし、何割かの雛は凍え死んだり飢え死んだりする。

 それから、子育てをしていない若い成鳥が雛の行進を護ったりもしない。驚異的に不器用で歩くことの苦手なこの鳥がそんなことしたって、それこそ共倒れになるだけだ。初めての行軍の途中で天敵に襲われたら、あるいはクレバスに落ちたら、それはそれ。そういう運命だったということだ。多分、それぐらいでちょうどいい。そうやって、生き物たちはバランスを保つんだ。

 黒と白の鳥たちが、彼女が信じているように支え合ってみんながみんな無事に海に戻れたりしたら、海はあっという間に黒と白の鳥でいっぱいになってしまう。増えすぎた鳥のせいで今度は餌の魚が足りなくなって栄養状態が悪くなって、結局やっぱり共倒れだ。

「だから! 悪いけど言わせてもらう」

 僕はまくしたてた。

「君たちの聖書は大法螺だ、ってね。「みつかい」と呼ばれている黒と白の鳥は、極端な寒さに順応した、ただの野生動物に過ぎない。すべての大人が全ての子供を命懸けで護るなんて大嘘だ。人間が後から考えた都合のいいおとぎ話にすぎないんだ。そんなもののために――」

 彼女の、不思議そうな目に、僕は言葉を奪われる。いっぱいに見開かれた、大きな目。

「そんなこと、どこにも書いてないわ」

 そう言って、彼女は寝室の本棚の一番上から、薄い冊子を持ってきた。


                    *


 聖書ものがたり その4 みつかいのはなし


 南の海の果ての果てに、一年にたった一度ずつの夜と昼しかない島がありました。一年の半分もの長い夜の間、太陽はのぼらず、空は真っ暗だったりぼんやりあかるくなったりをくりかえします。反対に、昼の間、太陽はしずみきることがなく、高い空にのぼってかがやいたり低いところをころがるように通ったりをくりかえすのでした。どうして神様がそんなに長い昼と夜をおつくりになったのか、人間にはわかりません。けれどもきっと、深い深い、特別なみこころがあるにちがいありません。その証拠に、この島ほどではないけれどやっぱり昼と夜の数が少ない辺りでは、長く暗い夜の間、空に美しい光が現れることがあります。明るい昼間には見えない光です。それによって神様は、夜というものがけっして寒くて暗いだけのものではないとお示しになっているのです。

 とはいえ、南の果ての果ての島は、とても寒い寒い、地球上で一番寒い島でした。もちろん木や草など一本もはえていませんし、冬になるとその島のまわりの海は何百キロにもわたってこおりつきます。どうして神様がそんなにも寒い場所を作られたのか、私たちにはわかりません。けれどもやはり、きっと、深い深い、特別なみこころがあるのです。その証拠に、そんな、生き物のかげもないような場所の、真冬の、海にうかんだ氷の上で、卵を生んで育てる鳥がありました。鳥の中ではわりあい大きい方で、ヒトの半分以上もの背丈があります。そして、昼と夜とが一度ずつの島の周りで生きるからでしょうか、そんなに寒い場所でもこおってしまわない強いひふは、きっちり白と黒に染め分けられています。この鳥たちは、普通の鳥のようにお母さんとお父さんがずっと一緒にはいません。お母さんは卵を生んだらすぐ、生んだ卵をお父さんにあずけて、こおっていない海に出かけていきます。ぶあつい氷の上には食べるものがないので、生まれてくるひなにあげるごはんをおなかの中にためこんで、何日もかけて運んでこなくてはならないのです。お母さんが帰ってくるまで、おとうさんは何も食べずに、卵を自分の足の上にのせて、おなかの皮をかぶせてまもります。そうしないと、卵はすぐにこおってしまうからです。卵がかえってひなになってからも、ひなを足の上にのせ、おなかの皮をかぶせてまもります。ひなのひふは親鳥のように強くないので、この寒さのなかでは生きていけないからです。色も、親鳥のように真っ黒や真っ白ではなくて、淡い灰色で、全身がふわふわしています。それはそれは可愛らしい姿ですが、お父さんはろくにその姿を見ることもできません。そんなにも愛らしい大事な大事なひながこおってしまわないように、足の上にのせて、おなかの皮をかぶせて、ずうっとずうっとまもりながら、不器用なその足で、よちよち動き続けるのです。そうやって、なかまのおおぜいのお父さんたちとかわりばんこで風おもてに立つのです。ひながおなかをすかせたら、お父さんはここに来るまでにたくさん飲み込んでおいたお魚をはき出してひなにあげます。それがなくなったら、自分の「い」をとかしてミルクを作り、ひなにあげます。そうして、お母さんが帰ってきて、ひなをお母さんにわたしたらやっと、こんどはお父さんがごはんを食べにでかけていくのです。

 どうしてそんな大変な暮らしをしているかというと、その場所には「天敵」がいないからです。島のまわりのこおった海の上は、大きい動物たちには寒すぎるのです。この鳥たちは、鳥ではあっても、空を飛ぶことができません。そして、泳ぎは上手ですが歩くのはへたで、よちよちと、とてもゆっくりしか動けません。また、ひなは親鳥のように上手に泳ぐことができないし、もちろん卵は泳げません。大切な大切な卵やかえったばかりのひなを天敵からまもるためには、この氷の上が一番いいのです。

 どうしてこの鳥がそんなにも不器用で、飛ぶこともできなければ歩くのもへたかというと、やっぱり神様の深い深い、特別なみこころだったのです。

 地球ぜんいきでヒトやそのほかたくさんの動物たちを殺してしまった大きな戦いもおそろしい病気も、この鳥たちだけは殺さなかったからです。この鳥たちが生き延びたのはきっと、そんなにも寒い場所で大変な生活をしていたからこそ、なのです。

 その冬も、お父さんたちはいつもどおり、かわりばんこに風おもてに立って、自分となかまと大切な卵を寒さからまもってすごしました。やがて卵がかえってひなになり、お母さんたちが海から帰ってくると、ひなをお母さんにあずけて海に出ました。

 海には食べ物がいつもよりたくさんありました。そして、天敵におそわれることもありませんでした。なんだか不思議な気もしましたが、お父さんは夢中でご飯を食べて、愛するひなとお母さんのもとにもどりました。前と同じようにお母さんと交代です。なんどかそれを繰り返して、ひなが自分で歩けるぐらい大きくなったら、お父さんもお母さんももうひなのことは放っておきました。ひなたちはみんなで一緒に歩いて、海まで行くのです。その年は、たくさんのひなが無事に海までたどり着けました。天敵におそわれなかったからです。

 何年かたって、天敵におそわれないのが当たり前になったころ、気がつくと、海は黒と白の鳥でいっぱいでした。お魚は少し足りなくなってきていました。でも鳥たちは平気でした。お魚を食べに、前よりずっと遠くの海まで行けるからです。何しろ天敵がいないのですから。

 安心して、遠くの海まで、鳥たちは泳いでいきました。そして、半分海に沈んだ、大きな白い船をみつけました。もちろん、鳥たちは「船」なんてものを知りませんから、これはきっと今までいたのとは別な大きな氷の一部だと思って、そこに住むことにしました。けれども、何かが違います。この氷にはひんやりした気持ちよさがぜんぜんなくて、そして、中が空洞なのです。

 何か、鳥たちの心をゆさぶるものがありました。小さな心で、鳥たちは思いました。この空洞には、むかし何かが住んでいた。自分たちは、それを知っている気がする。

 むかし、何かが住んでいた。

 むかし、何かが住んでいた。

 むかし、何かが住んでいた。

 自分たちは、それを知っている。

 とつぜん、鳥たちはさとりました。この世界が、前とは全く違ってしまったことを。水の中にお魚はたくさんいるけれど、海の上の世界にいるのは自分たちだけなのだということを。鳥たちは、ものすごく寂しくなりました。

 急いで、鳥たちはもといた島のまわりに泳いで帰り、まだ溶けずにのこっていた氷の島に上ると、お日様を見つめました。じっとじっと、長い昼の間中、鳥たちはお日様をみつめていました。おなかがすいて、たおれるものも出てきました。それでも鳥たちは、お日様をみつめつづけました。

 鳥たちは言葉を知りませんでしたし、神様のことも、お祈りすることも知りませんでした。けれど、この時鳥たちがしていたのは、たしかにお祈りでした。それは、人の言葉にすればこんなお祈りだったでしょう。

 神様。この世界はどうしてしまったのでしょう。むかしここで生きていたたくさんの命は、どうなってしまったのでしょう。さびしくてさびしくてたまりません。神様。私たちは、むかしの通りの生活でかまいません。たくさんたくさん歩いて、寒い寒い氷の上で、かわりばんこに風おもてに立って、卵をまもります。どうか神様、この世界をもとどおりにしてください。

 長い昼がどんどん過ぎていき、たくさんの鳥たちがたおれていきました。鳥たちが、もともといたぐらいの数になったころ、高い空から、きらきら光る何かがおりてきました。遠くの海で半分沈んでいたのと同じような、船でした。

 船に乗っていたのは、戦いをさけて空にのがれていた人間たちでした。多くの動物たちが死に絶えてしまったことを彼らは嘆き悲しみ、鳥たちが生きていたことをよろこび、神様をたたえて「みつかい」と呼びました。

 人間たちは世界のどこかに隠してあった箱からたくさんの動物たちの卵をとりだして、それぞれの場所に配置しました。それから彼らは古い知識の箱を閉じました。

 世界がすっかりもとのようになるのに、長い長い時間がかかりました。空からおりてきた人々はみんな死んでいきました。あとには子供達だけが残りました。


                   *


「すべての大人が全ての子供を命懸けで護るなんて、聖書には一言も書いてないわ。あなたの言う通り、後から誰かが考えたことよ」

 静かに、落ち着きはらって、彼女が言う。僕には理解できない。それならなぜ、彼女が行かなければならないのか。「聖書には一言も書いてない」約束なんかのために。

「そういうことじゃないの」

 同じ服を着て育った人が、この服に望みをかけた親たちがいるからだと、彼女は言う。自分の胃を溶かして我が子に与えられるものなら与えたいと思いながら、どこにいるとも知れない、本当にいるかどうかもわからない誰かに望みを託すしかなかった親が、この写真の向こうにはいるからだと。

 僕は何度試みただろう。何度、彼女に問いかけ、罵倒し、説得しようとしただろう。何度、彼女から柔らかな微笑みとともに断固とした意志を受け取っただろう。

 何て愚かなんだ! どうして君じゃなきゃいけない? やっと、初めての船が出るのに。せっかく選ばれて、船に乗る資格を得たのに。そのために何年も血の滲むような努力をして。ほかの誰にもできないことだ。戦地で死んでしまったらもう、南の海の果ての島に行くことはできない。ずっと憧れていた「みつかい」に会うこともできないじゃないか。五十人もが名乗り出たんだろう。その人たちに託せばいい。君が行くことはない。

 彼女は静かに首を横に振る。

「死ぬと決まったわけじゃないわ。第一、同じ服を着た子供たちを見捨てて、南の海の果てにたどりつけたとしても、どんな顔でみつかいに会えというの」

 涙を流して、僕は懇願する。

「行かないでくれ」

――君は戻って来れない。

 声にはしなかった。

「ごめんなさい」

 彼女は言って、いつもかけているペンダントをはずし、僕の首にかけた。この上なく優しい微笑を浮かべながら、両手を僕の頬に添える。

「愛してるわ、カイ。補充人員にあなたを推薦しておくわね」

――よしてくれ

 唇をふさがれながら僕は思った。君がいるからこそ、一緒に行きたかったんだ。僕が一人で加わってどうするというんだ。みつかいであろうとなかろうと、そんな鳥たちに会いたいなんて僕は露ほども思っちゃいないのに。


                     *


 流氷が増えてきていた。もうじき、舷側を埋めるようになる。そこからが勝負だ。双眼鏡から手を放し、寒さの中で、僕は意を決して襟元を緩めた。ペンダントを引っ張り出して掌に置き、見つめる。

 常に北を指している針は、常に南をも指している――

「きれいなコンパスだな」

 すぐ脇から声がかかった。いつの間にか、隊長のトシューが隣に来ていた。

「彼女の形見だっけ」

「形見とか言わんでください。縁起でもない」

 僕は少し声を尖らせ、ペンダントを服の中にしまった。襟元をきっちり閉じる。

「死んだみたいに」

 少しの間があって、トシューが

「そうだな」と言った。

 彼は一度だけ僕の肩に手を置き、後は黙って双眼鏡を覗き続けた。僕もまた黙って、舳先に立ち続けた。


                                      了

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