第二信:発端
全ては、あの出来事から始まった。その日の夜、私はどうしても寝付く事が出来ずにいた。それは、窓の外で何時になく月が、異様なまでに光り輝いていたからだった。
それに加え、その日の月は、これ以上無いと思われるほどに円く、其処から発せられる光は外の世界ばかりか、私の部屋の中にまでその支配を及ぼそうとしていた。
月の光に照らし出された部屋は仄白く浮かび上がり、灯を消す前よりかえって明るくなったようにさえ思われるのだった。
私は頭から毛布を被り、細かい粒子となった月の光が、窓のすぐ傍の植え込みの、広い葉の伸びた辺りに纏い付いて、黄金色の雫となって、ポタポタと滴り落ちている様を想像して、身体が冷たく、震えて来るのを感じていた。
それは無意識か何者か意識を奪われたが故か、何時しか私はベッドから身を起こすと、そのまま外の露台へと通ずる窓へと歩いて行ったのだった。
外に出ると、其処には風一つ無く、ただ月の光が静かに霧の様にゆっくりと、殆ど止まっているかの様な動きで降り注いで来るのが感じ取れるのだった。
目線を少し上げると、遥か遠くに、決して眠る事の無い大都会の光が、皓々と灯っているのが見えた。それが周りの暗闇からくっきりと浮き上がった様は、さながら空に浮かぶ島を彷彿とさせた。
再び何かに引き摺られる様な感覚を覚えながら、私は更に目線を上げる。其処には、今にも周りの空に溶けて、拡散して行きそうな満月の姿があった。今にもチーズの様に蕩けて、私の身体に沁み込んできそうな柔らかい月の光が。
その薄くヴェールの様な光に包まれている内に、私の中である変化が起きようとしていた。私はそれにすっかり身を任せきって、何が起きるのか待ち続けていた。
そして気が付いた時には、私は少し離れた中空から、露台の上に放心したように佇んでいる自分自身の姿をじっと見つめているのだった。
奇妙な事に、私は特にその事を不思議に感じる事は無かった。それはちょうど、夢を見ている人が、その中でどんな非現実な事が起きようとも、何の疑問を覚える事無く当然の事として受け入れる、あの感覚に似ていた。
暫く眺めていると、やがて露台の上に居る自分が、風船の様にフワフワと浮き上がり、クルリクルリと宙返りしたり、露台の上を飛んだり跳ねたりとし始めるのだった。傍目から見て、その動きは実に滑稽であり、さながらサイレント映画の喜劇役者か、或いはマリオネット人形を思わせる物があった。
で、思わずクスリ、と笑ってしまったのだが、その途端、私の意識は再び元の身体に戻り、それまでの浮遊感も同時に失う形となって、ドサリ、と露台の上にしたたか身体を敲き付けられる事となったのだった。だが、兎も角コツは掴んだと云う訳だ。
そこで私は、この感覚を忘れない内に、もう一度やってみる事にしたのだった。
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