玄関先にて

鈴上隼也人

玄関先にて

 藤堂春彦は暇である。暇を持て余しているのは傍から見ればすぐわかるような暮らしを経てていた。というのも、海の見える街へ引っ越したいとの思いが元来よりあり、それが叶ったもので随分と有頂天になったものである。幸せな生活がこれから待っている。心機一転である、との思いが心中より湧き立ちつつあった。しかし、これも元来よりの癖であるが、彼は労働というものが何より嫌いであった。それだから、こちらに越してきた後に働き口を手にしたは良いものの、少し働いては休み、最近はもうすっかり働きに出なくなっていた。それが彼にとり、単純な暇とは少し違う部分であった。本当であったのなら働かなくてはならなかったのである。引っ越しに伴って出ていった金子のことと、これよりの生活に必要な現金はもはやほとんど手元に残されてはいなかったのだ。その解決方法はひたすらに労働に精を出すことであるとわかっていながらも、何よりも面倒との思いから日々を煮えきらず過ごしていた。

 そんな折、彼は暇をどうして潰していたのかというと小説を書くことで何んとか日の暮れを、何もしていない自分であっても正当化したかの思いで迎えることが出来ていたのである。

 とはいえ、小説というのも少しく怪しいものがあった。読書経験のほとんどない彼は、創作というものがあまりどういうものかを理解しておらず、それに加えて読んだことのある本と言われて出てくるのは夏目漱石のものに限られていた。ひどく傾倒したわけではなくて、読んだことがある、という程度であった。それでも春彦には影響を少なからず残しているようで、日本語の、美しき流れを意識するようにもなっていた。

 そんな美しき流れを損なわぬよう書かれた話というのは、直前に別れた女のことばかりであった。

 その女というのは散々彼だけを愛すとの思いを鮮烈なほど熱く向けてくる情熱的な女であった。それが彼の仕事が忙しくなって、生活もその女と暮らし始めてから一番潤っていた頃、彼は仕事に集中しなければならぬ日を経ていたのだが、それがどうも気に障ったのか知らぬが他に男を作ったのである。あれだけ私にはあなたしかいないなぞと歯の浮くような台詞を云っていたにもかかわらず少し構わなくなっただけで心変わりをする化け猫めいた単なる糞袋であったことが露呈したのであった。

 春彦はとにかく不愉快で、女のことが憎らしくなっていった。そしてすっかり別れたあとの今でも思い返しては不愉快になり、その不愉快を延々とノートに書いていたところ、これは小説に出来るかもしれないとの思いに至った。そしてその女の性悪な、どうしようもなく救いようのない振る舞いを、美しき日本語で以て書き連ねてやろうとの思いに至る。これでまかり間違って新人賞でも獲れた暁にはあの女への復讐もしっかり出来るし、自分のような才能に溢れた男を置き去りにし、しょうもない単なる派遣仕事で一緒になっていたという、誰からも羨ましがられないステータスのゴミみたような間男と自分を天秤に掛けざるを得なくなる女の精神を思うと自然と嘲笑が湧いてくるのであった。

(あの間男を取ったことが最大の失敗だったと、うんと後悔させてやる。なんてったって俺は才能がある。凡才で、派遣バイトのしょうもない男とは雲泥の差だろう。うんと後悔するがいいさ)


 そんな春彦は仕事に出ていた名残で今朝も午前六時にきっかりと目が覚めた。まだ三月で春には程遠い北海道ではストーブがまだ必要であった。冷え切った部屋を暖めるべく火を入れる。そして火にあたるため、まるで専用のように置かれた小さな椅子に座ってハイライトを吸い始めた。一本吸い終わる頃、漸くストーブが赤くなり始めた。これに安堵し、歯磨きと洗顔をする。これが朝の習慣であった。

 ストーブの近くには小さな椅子の他に、小さな座卓もあった。そこにはすっかり草臥れて綿が飛び出している箇所もあるような座布団が敷いてある。彼は家に居るとそこに座り一日の大半を過ごす。定位置についた彼は、前日に書いた草稿を眺める。内容は美しさとは程遠い、女への憎悪により駆り立てられた、ただそれだけで書き進められた文章がある。

(うん、こりゃだめだ)

 内容はどこまでも憎悪を捏ね繰り回したものとなっており、酷く稚拙で、小説と呼ぶにはあまりにも伝えたいことがない。良く云えば自然主義的なものかもしれないが、随筆としてあったらまだ読める可能性があったが、とても小説とは云えないものであった。

 ペンをハイライトに持ち替えた春彦は空中に白い息を吐いた。気温が低いせいなのか、煙草の煙なのかはわからなかった。ただ、視覚的に白かったそれは本来ドス黒い溜息だったためうんざりする。

 体も痛いし、働かなくては金がない。小説は金にならない。

 気持ちを切り替えるべく、茶を淹れることにした。この部屋に越してきてから購入して一番使っているものかもしれぬ電気ポットから急須に湯を注ぐ。やはり部屋はまだ冷えているらしく湯気でメガネがすっかり曇ってしまった。


 まだ草稿段階とは云え、原稿、一切はかがゆかず、いよいよ書けなくなってきたとの思いが春彦の心中にぼんやりと浮かぶ。これまた気持ちの切り替えが必要であるとし、それではといよいよ自慰に耽ることにした。近頃の彼はひどく気に入った女性キャラクターがいた。キャラクターと云っていいのかもわからぬが、所謂VTuberと呼ばれるもので、イニシャルはY・Lという女性であった。VTuberというものは大抵性的なメッセージを感じることがない容姿をしていた。それは活動している場所が性的なものを排他する方針が強いことであるからとか、キャラクターとして性的に見られることを損であるとしているからとか、色々な理由があるのだろうが、彼の好む女性VTuberはとにかく見た目がスケベであった。肉感的な体付きと対象的な白と水色を基調とした衣装でそれを打ち消しているように見えさせるのも何んだか秘められたエロスを感じずにはいられなかった。

 そんな彼女の日々の生活におけるスケベな瞬間、もっとはっきりと云えば、活動が忙しいために男を欲しても手にすることは出来ぬが、それでもその肉感的な器にはモノを挿れられることを心待ちにして、すっかり肉欲に飢えた、スケベな女というのがしっくりとしてきて想像が捗った。

 これを所謂オカズということにして……具体的に云うと、彼女が電動マッサージ機で以て自慰をしている妄想をしてやることにしたのだ。上手いこと話が進むと、うっとり濡れてしまったところに何故だかはわからないが、自身が登場し「やっぱりスケベだったんだねLちゃん」なぞと囁きながらも心待ちにしているであろう男性自身を挿入するところまでを想像出来るだろうから、色々と都合が良いのである。

 この妄想による自慰行為は兼ねてよりアダルトビデオ鑑賞で以て行ってきた彼にとり、電気を使わぬ「省エネオナニー」との呼称を付け、得意気にしていた。

 そんな徐々に高まってきた頃に家の戸を乱雑に叩かれた。

 古い家なので戸の叩き方によっては家自体が軋み上がって揺れることもあるのだが、今回の来客は無礼そのものみたような叩き方であったため内戸までガタガタと音を立てるほどであった。

(誰だよ、俺のこの何物にも替え難き至福の一時を邪魔するのは……)

 玄関先には作業着を着た男が立っていた。


 その見知らぬ男には何んだか不穏な空気が纏わりついており、少なくとも良い知らせではないだろうとの思いが春彦の中で生まれた。

「おい、君、そんな風に戸を叩かれたらガラスが割れてしまうだろう」

 春彦は来客に対し、オナニータイムを邪魔されたことを不愉快に思うしかなく、開口一番にこう云ってやったが、向こうはそれを何も気にしていない様子で、

「藤堂さんですか」

 と、まるで不機嫌やら迷惑やらの面持ちをしながら尋ねてくる。

「そうだけど、そうだったら何んだい。変な勧誘か。あとうちはテレビないから」

 春彦も負けずに不機嫌を貫き通すのであった。

「私、電気会社の者なんですけど、通知、入ってましたよね。今日これから送電停止になりますから」

 春彦は晴天霹靂とはこのことであるとし、驚きを禁じ得ない。

「何んだって。送電停止ってのは電気が止まるってことかい」

「そうです。料金のほうは請求書があると思いますからそれで払ってもらって、それからまた連絡頂ければ送電再開しますので」

 春彦は不味いと思った。

 たださえまだ寒き日が続くし、ストーブの火が今立ち消えてしまったものなら執筆にも響く。電気がなくては何も出来ぬのである。

「ちょっと待ちなさい。今、支払うから。その、滞納している分の電気料金を払うから、今電気をすぐ止めるというのはやめなさい」

 ストーブがなければ外気温とほぼ変わらぬボロ家であるところの自室の平和を守るべくしてそう云ったが、

「いや、それは出来ないんですよ。こちらで集金というのはやっていませんので、請求書で支払って頂きたいんです」

「そんなのはそっちの言い分だろう。少しはこっちの言い分も聞きなさい。払いたくなくて払わなかったわけじゃあねえんだよ。ちょっと忙しくて忘れていたんだから、そうやってすぐ止めるなんてのは横暴だろうが。てめえ、勝手なことするんじゃねえ」

 つい春彦は地金が出てきてしまう。相手が勤務中の者であるということは乱暴を働くことは決してないから、口調も強くなるのである。弱いものには強く出る典型的な弁慶タイプなのであった。

「そう言われましても……この場で集金は出来ませんから」

「誰がそんなことを云ってやがるんだ! マニュアル通りにしか対応の出来ねえ、どうしようもない奴だな! 良いじゃねえか、今、払うって云ってるんだから、今、金を受け取って、それであんたは帰る、それで良いじゃねえか!」

「いや、そういう風に出来ればいいんですが、出来ないと決まっているんです」

「決まり決まりって、バカの一つ覚えみたいに云いやがって! お客様がこう云っているんですが、とか、そういう風に上に確認しろよ! それともあれか、上席に相談することも許されてない、下っ端中の下っ端なのか、あんたは。それなら納得してやるよ。あんたが会社の中でもこういった汚れ仕事をやらされているのも納得が行くわな。それなら良いよ。どうで、あんたみたいなのに云っても仕方がないってことなら、それで、良いよ」

 この侮蔑を与える言葉に元より不機嫌そうだった電気会社の者がより不機嫌な顔になっていく。春彦はいいだけゴネたから、これで何も変わらないのであればもう良いという気持ちに変わっていた。食料の調達がてらコンビニまで行ってついでに電気料金も支払うかとの思いであった。

 しかし、相手は不愉快な面持ちをしながら

「わかりました。そこまでおっしゃるなら確認します」

 と、云ってくる。

「おお、確認、取れるんだ。下っ端でも、確認、取れるんだ」

 この期に及んでまだ侮辱する春彦であったが、ここでふと思ったことがあった。

 現在の経済状況である。

 確か、銀行には金がもうなかったはずである。持っている小銭を現金支払機に全投入し、千円札になったことでちょっと嬉しかったのがつい最近の出来事である。そしてそれを喜んでいる自身があったということは、もうほとんど金を持ち合わせていないということでもある。

 雲行きが怪しくなってきた。今、支払うことが実際に出来る金額なのだろうか。


「今、確認しまして、どうしても送電停止にならないようにしたいとのことでしたので、今回は特別ですがこの場で集金します」

「ああ、そうかい。それは良かった。ところで、いくらだい」

「二月分なので一万三千円ですね」

「一万三千円……わかったよ、ちょっとお待ちになってください」

 と、春彦は奥に引っ込む。財布をいつも置いてある部屋に入ってから、この位置が相手に見られる心配がないのを確認した。それから財布を見てみると、まるで足りていないことが、予期はしていたものの、やはり本当にそうであることがわかるとすっかり挫けてしまう。

 あれだけ悪態を吐いて、払えません、じゃあ不味い。

 しかし、払えないのは事実そうである。銀行に行って、それで何んとかなるわけでもないということはわかっている。本当に持っている金が全財産なのである。

 春彦は観念した気持ちになって、電気会社の者が待つ玄関先にまた出て行った。

「あの、すいません」

「ああ、今、領収書を書きますから」

「あ、いや、そうじゃなくって」

「なんですか」

「お金……ありません」

「ありませんって、どういうことですか」

「お金……今、無くって、今、支払うことが出来ません……」

「え、どういうことですか、あれだけ今払う今払うって言ってたじゃないですか。それで、私に、無理なことを言って、今回だけ特別に良いってことにしたのに、払えないって。お金がないって。そんなふざけた話がありますか」

「あの、すいませんでした。ぼく、今、財布に一万三千円もなかったんです」

「いや、なかったんです、じゃないですよ。今払うから止めるなって言ってましたよね。それを、ご自身で言ったんですよ。それが、払えないって、情けないって思わないんですか」

「すいませんでした……ぼく、お金あると思ったんだけど」

「なかったんですよね。わかりました。もうこんなに時間取られて、こっちも困っているんですから。電気は止めますからね。で、私はもう行きますからね」

「はい……すいませんでした」


 モーター音などが一切に止まった室内は嫌に静かであった。住んでいる場所がとにかく田舎であったこともあり、静寂というのはこのことであったか、と何か哲学的な気分にもなった春彦は溜まりに溜まっていた郵便受けから持ち帰ってきたものを座卓に広げる。その中にあった電気会社のものを取り出すと、コンビニなどで使える払込用紙があった。一万三千円。この金を捻出しなければ部屋はようよう寒くなり、夜も眠れぬことになるであろうし、冷凍庫の中のものもいつまで持つかわからない。

 しかし、彼にとり唯一救いだったのは「省エネ」の活動であった。

(邪魔しやがって、あの野郎……こっちに金がないとわかると露骨に態度まで変えてきやがった。本当に下っ端のやつだったんだわな。そうじゃないとあんだけのことで、大の大人が不愉快になるわけないものなあ。ったく、どうしようもないよ。まあいいや、本格的に寒くなる前に一本抜いておかなきゃな)

 静まり返った部屋の中で春彦は自身を擦る音だけを響かせながら手淫に耽るのであった。別れた女が選ばなかった理由はその姿にありありと映されていた。

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