陽菜は、今日も友樹に夕飯を届けに行く。
霜月れお
陽菜は、今日も友樹に夕飯を届けに行く。
「
仕事で遅くなる友樹に夕飯を持っていくことは、陽菜の日課になっていた。
友樹の部屋は、マンションの302号室。
平日の夕暮れ時ということもあって、友樹の部屋のベランダにはワイシャツ、靴下、タオルが干されたままだった。
「さすがに、今日は、まだ帰ってきてないよね」
友樹の部屋を確認した陽菜は、マンションに入り、階段の音を立てないよう上り、302号室に向かう。
302号室の扉のドアノブを引いたが、扉は開かなかった。
「はぁ~、やっぱダメかぁ……。とりあえず、友樹に食べてもらえるように置いて帰ろっ」
陽菜は持ってきた紙袋をドアノブにかけ、来た道を軽い足取りで戻っていった。
以前の陽菜は、オフィスワーカーで、毎朝の通勤電車で痴漢に悩まされていた。
いつも通りの電車に乗り込んで、その日は運が悪く、扉付近の立ち位置となってしまった。
怖くて声も出せなかった時の気持ちがフラッシュバックして、急に吐き気を感じ、陽菜は、手すりにつかまり立っているのが精一杯だった。
「ねぇ、君? 具合悪そうだけど、大丈夫?」
この時、優しく接してきた友樹が、陽菜の瞳には、輝くヒーローに映っていた。それから、陽菜の地道な活動により、友樹が乗る電車を特定し、遂には、連絡先を手に入れることに成功したのだった。
しかし、この半年ほど、友樹は仕事で忙しいのか、陽菜に会うこともなく、メッセージすら返してこない日々が続いていて、陽菜は、静かに愛という不満をしんしんと積もらせていた。
「明日は、付き合って1年かぁ。記念日くらい、友樹のこと独り占めしたいなぁ」
日が暮れた街の家々に、ぽつりぽつりと明かりが灯る。
陽菜は、暗くなっていく部屋の中から、友樹の部屋の明かりが灯るのを、静かに待っていた。
パッと友樹の部屋が明るくなったのを見て、陽菜は嬉々として、友樹にメッセージを送ってから、眠りについた。
『友樹のために作ったから、食べてね。愛してる、おやすみなさい』
朝早くから、オーバーサイズの白いパーカーとデニムのホットパンツに着替えた陽菜は、スーパーに行く。
「今日は記念日だから、気合入れるよっ!」
スーパーで、友樹の好きなハンバーグを作れるような材料と缶ビールを数本買い込んで、そのまま友樹の部屋に向かった。
「友樹は、今日も仕事。記念日ぐらい特別なものを使っても良いよね」
陽菜は、ポケットに持っていた合鍵を取り出し、扉を開けた。
「お邪魔しまぁーす」
扉の閉まる音に気を使いながら、陽菜は部屋に入り、買い込んできた食材を手際よく冷蔵庫にしまっていく。
友樹の部屋は、よくある1LDKで、掛布団が少し乱れたままのベット、ローテーブルに置かれたままの空になったビール缶、カーテンレールに吊るされた1週間分のワイシャツ、至る所に、友樹の存在と残り香で満ちていて、陽菜の胸はギュッと締め付けられ、この上なく愛おしく感じた。
思わず陽菜は、吊るしてあるワイシャツに頬を摺り寄せる。
「友樹、どうして? 私、こんなにも貴方のこと、愛しているのよ」
記念日の夕飯の支度をしていたら、すっかりと日が暮れ、気が付けば、部屋の中は仄暗くなっていた。
陽菜は、友樹が帰って来るのをひたすら暗い部屋の中で待っている。ふと、窓から空を見上げると、赤く染まった満月が昇り始めているのが見えた。
「今日も遅いのかなぁ」
陽菜はひとり呟く。居ても経ってもいられなくて、友樹が帰ってきたら、すぐに温かい食事が食べれるよう、薄暗いままのキッチンに立った。
ガチャリ。
部屋の扉が開いた音が聞こえた。
陽菜は、興奮して玄関に駆けていくと、スーツ姿の友樹が驚いた様子で立っていた。
「お前……」
「しーっ!」
すかさず陽菜は、友樹の口を手で力いっぱいに塞いだ。
「友樹、おかえりなさい。ずっと待ってたわ」
久しぶりに会えた友樹のぬくもりに触れ、陽菜は、妖しく悦びの笑みを浮かべる。
それから陽菜は、気合を入れて作った手料理を友樹に振る舞って、くだらないテレビをふたり並んで見るといった幸せな時を過ごした後、友樹が眠りに就くまで傍を離れなかった。
安らかな顔の友樹の頬を撫で、陽菜は部屋を後にする。
「ストーカーの被害届が出されたのもあるが、こんな閑静な住宅街も巡回しないといけない時代になったとはな……」
「しかも、女のストーカーときてる」
二人組の警察官が、満月に照らされた住宅街を巡回していた。
どこから風で運ばれてきたのだろうか、鉄が錆びたような匂いがうっすらと広がっている。
正面からぼうっと人影が見えてきて、どうやら女性が上機嫌に鼻歌交じりで、こちらに向かって歩いて来ているようだ。
その女性とすれ違った瞬間に、警察官たちが違和感に気が付いた。
「ねぇ、君? こんな時間にどうしたんですか?」
振り返った女性の、すらりとした白い肌と白い衣服に、べったりと赤いものがこびりついているのが見えて、不思議と警察の勘で人間の血だと認識する。
「あの、署までご同行願いますか?」
女性は、警察官たちの質問に答えることは無く、青白い月光の下、妖しく虚ろに微笑むばかりだった。
陽菜は、今日も友樹に夕飯を届けに行く。 霜月れお @reoshimotsuki
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