関ヶ咲 歩 2 前向きな一歩

1 4月25日 



 

 高校時代と比べいささか長すぎる春休みを終え4月1日から春学期を開始した俺たち学生は、それぞれの講義で単位獲得難易度の感触を感じ始める頃になる。

 2度目の大学一年生の春。

 2学年に進めなかったのは進級のための数単位が足りないというギリギリアウトだったため、スタート時点で今年取らなければいけない授業はあらかた取れている状態だ。留年という言葉の重みはあれど進級は簡単。今年は去年よりも余裕を持った一年にすることはできた。のだが、俺は去年と同程度の数の講義を選択した。

 俺が殊勝な心掛けを持つ人間だから、ということはなく留年が確定した日の夢を見て飛び起きて、ああ夢か、いや、夢だけど夢じゃなかった。と何度も経験していればあぐらをかく余裕はなかった。笑い事ではないのに笑うしかない。

 講義の初回は気も重かったが、死ぬ気で家を出て授業に出てみれば誰にも注目されなかった。拍子抜けするほどに世界はいつも通りに過ぎていて、こんなことなら春休みの長ったらしい期間を家に引きこもって陰鬱とした時間を過ごさなかったらよかった、と思わなくもない。

 初回を終えれば2回目からは心の抵抗も少なく、大学に通えている。周りの無関心さに助けられている面はかなりあるんだろう。俺が元から友達がいないに等しかったというのも、干渉がなく傷を癒す猶予になり得たのかもしれない。




 

 2限の授業が終わり、俺は廊下に出た。

 講義終わりの大学の廊下は一時的な混雑状態になる。いくつものドアから一斉に人が吐き出されるわけだから当然なのだが、血流にできた血栓のようにいくつかのグループが固まってその場から動かないことがある。

 通行の邪魔である迷惑なダマリを見れば4、5人のグループの真ん中に椰代がいた。

「椰代、教授カンカンなんだぜ」

 聞きたくもないのに、そのうちの1人の張りのいい声を耳が拾う。

「間に合わないものはしょうがないよ、俺も、未完成で出したくはないからね」

「お前、けっこう頑ななところあるよなぁ」

「いいんじゃない?そもそも、元の人が出さなかったのが悪いんじゃない」

「あのね、そこから話し出したらややこしいだろ」

 どいつもこいつも聞き覚えがある声だ。

「だってあいつは書きかけの小説を持ってるんじゃないの?それなら、椰代くんが今から書き始めるよりもそれを出しちゃえばいいじゃない。押し付けられたら誰だって嫌よ」

「俺はそんなこと言ってんじゃなくて、ああー、俺もそう思うよ。でもあいつはさ、もう無理だろ?もう書けねぇって。学校にも来ねえんだぜ?」

 歯を噛み締めて、さっさと通り過ぎようとすると間の悪さか椰代の感の鋭さゆえか。人混みの中の俺に椰代は手を挙げて向かってきた。

「関ヶ咲!」

 最悪だ。顔を見られたくないために頭を下げる。

 周りの生徒はバツが悪そうな顔をした。

「え?来てんじゃん」

「うわ、やば、雰囲気変わってない?」

「今の聞こえてたんじゃないの」

 そんな声まで耳は拾う。

 あいつらの前で俺の名前を呼べばこうなることなんて、こいつに分からないはずがない。

「…なんか、話よったんやないんか」

 会話の内容は聞こえていたが、俺は駆け寄ってきた椰代に恨みがましく聞いた。椰代は平然と「大した話じゃないよ」と言う。

「ちょうど離脱したかったところ。廊下で立話は3分が限界だ。昼ごはんならサークルに行かないか?」

 昼飯を食べる場所はどこでもいい。サークル室(仮)に行ってもよかった。椰代にあの場所を紹介されてから講義が終わればはほぼ毎日足繁く通っているが昼はまちまちだ。

 俺は気を切り替えて椰代について行った。もう終わったことを気にしたってしょうがない。

 歩きながら「小田くんの件やけどな」と、俺は切り出した。

「なに?」

「先週来たんなら俺に教えとけよ」

「その時は入部を考えてます、くらいで帰ったから確定じゃなかったんだよ。なに、びっくりしたのか?」

 いちいち揶揄うようなこと言う奴だ。

 俺はムカついたので言い返した。

「今も確定か怪しいやろ。小田くんは探偵サークルって言うよりも三雲さんに興味があるみたいやったけど、三雲さんがこのまま来んかったら入部取り消すんやないんか」

「そうかもね。引き止めるためにも、早めに三雲さんと会って話をしないとだ」

 椰代はすんなりと引き下がった。勢いが殺されて、つんのめるように心境がから回る。

「…なんや小田くんのこと、気に入ってるんやな」

 意外だと思って、ふと、そういえば、と思う。

 例のサークル創設者三雲さんもそうだ。椰代がサークルに必要な人数を揃えたい、というだけの動機なら、どこにいるかも分からない奴を見つけ出すよりも勧誘をかけた方が早い。それは、椰代が三雲という人物に執着しているということで、小田くんに対しても入って欲しいと思っているということだ。

 椰代は人当たりはいいが、来るもの拒まず去るもの追わずの体現者であるような印象を持っていた。だから、俺は意外だと思ったのだ。

「面白い子だろ?あんまりいないと思うな、ああいう子」

 そう言われても、ピンとこなかったため曖昧に返す。

「さぁな。あんま、話もしてないし」

「そりゃあ、関ヶ咲が話さないから彼の人となりが分からないんだろ。昨日もほとんど無言だったし」

(ぐっ!)

「留年してることは出会い頭に言っておくのが正解だったと思うよ。これからどんどん言いづらくなるぞ。同じ文学科ってことは同じゼミになる可能性も高い。どうせ後々バレるのに隠す必要性がないだろ」

 出来損ないを見るような目が痛い。

「…………分かっとるわ」

 C棟に着くと、探偵サークルの部屋の前に小田くんが1人立っていた。

 こくん、とお辞儀をしてきた小田くんは俺たちが来るまで突っ立っていたらしい。

「通りがかったので、2人がいるか見に来ただけです。勝手に入るのは気が引けて」

「気にしなくていいよ、常に開いてるんだから。昼ごはんまだなら一緒に食べる?」

 椰代が我が物顔で扉を開ける。中は昨日と同じ状態で、それぞれ昨日と同じ椅子に座った。俺は学内の途中で寄ったコンビニおにぎりを食べ、小田くんは家から持ってきたであろう弁当を、椰代は俺と同じタイミングで買っていたサンドイッチを食べた。

 ルーティンで布団を被った椰代に小田くんの無表情は多少は驚きに変化したものの、椰代は通常通り場を回していく。「このサークルについて、何か分からないことはあった?」と、もちろん、小田くんに対して問いかけた。

 小田くんは昨日、サークルに入るにあたって椰代と色々と話をしていた。

 活動内容について聞かれ、

『推理小説を読んで感想を言い合ったり、未解決事件を考察したりしてるかな』

『未解決事件って、実際の事件のですか?』

『うん。俺はネットをよく見ないから、小田くんには何かいい事件の題材があれば教えて欲しいかな』

『わかりました。考えておきます』

 という流れがあったはずだ。

 初めてまともに聞く活動内容に俺のほうがうなづいていたくらいだった。

「いいえ、大丈夫です。普通のミス研と変わらない、ということですよね」

 三雲さんに会えるなら活動内容はどうでもいいのか。小田くんは昨日からずっと潔い態度である。

「うん。人はまだ少ないけど、少ないなりにもできることはあると思うんだ。昨日帰ってから少し考えてみたんだけどさ、三雲さんには、偶然を待つよりこっちから会いに行こうか」

「どうやって」

 俺はおにぎりを腹に収め、おざなりに聞く。

 小田くんと椰代も昼飯を食べ終わり、机の上に広げていたゴミの片付けは済んでいる。椰代は片付け終わってからお化けルックになったわけだが、流石の椰代も、昼飯の最中に布団をかぶり汚れてしまう危険性は避けている。一度くらいはコーヒーをぶちまけてどう対処するのか見てみたい気もする。

「昨日知り合っただろ?」

 昨日、と聞いて、芸術学部での一連の出来事が頭をよぎる。

「仲さん経由で会うつもりか」

「そのほうが手っ取り早い」

「っ、おい、お前これを見越して」

「誰ですか?その方」

 椰代は疑問符を浮かべる小田くんの方に答えた。

「三雲さんの知り合いだよ。水曜日の実技演習でD棟にいるはずだから、もう少しで3限が始まるこの時間なら会えるはずだ」

 腕時計を確認する椰代に「…うまくいくとは思えんな」と、俺は頬杖をついて言う。

 椰代は返事をせず、カバンから水のペットボトルを取り出した。

 布団をかぶったまま部屋の入り口まで戻ると棚の上に置いてあるティファールの蓋を開けて水を注いでいく。もはや見慣れたコーヒーを作る動作だ。

「…行くんやないんか」

「?何言ってるんだ?」

 椰代は布団の端を握って、空のコップを手に俺を見た。

「仲さんには美味しいコーヒーを振る舞いたいから、冷める前に呼んできてくれ」

「な」



 

 なんで俺がとか、呼びつけるなんて失礼だろ、とか椰代に反発したが「先日の件で関ヶ咲の顔は見せてるし、仲さんは断りそうには見えないから大丈夫だと思うけど。関ヶ咲が嫌なら俺が行くしかないか」と言われ、俺は唇をかみしめてしぶしぶ立ち上がった。

(なんやねんあいつ…!)

 俺はどすどすと、足を踏み締めてD棟に向かっていた。

(小田くんと2人であそこに残されるよりかはマシやけどなぁ、言い方が腹立つねん…!)

 椰代の「美味しいコーヒーを振る舞いますよ、と上手くいってくれればいい」と宣う姿を思い出すとイライラしてくる。

 インスタントコーヒーのくせに、偉そうに。

 …考え方を変えよう。

 俺の役割は仲さんを呼ぶことだけだ。そう時間がかかることではない。断られても、そんな常識知らずを頼む椰代が悪いのであって、俺のせいではない。仲さんと話す機会を得ただけだと思えばいい。

 俺としても、あれから仲さんがどうなったのか気になってはいた。疑いは晴れていくらか彼の扱いはマシになったんだろうか。

 少し前に散り切った桜のゴミはあらかた地面から消えている。AB棟横のアスファルトを渡り、たどり着いたD棟の入り口には花壇がある。派手さはなくとも綺麗に咲いている花に、ジョウロで水をやる女性が1人。

 彼女の持つ明るい色合いが、色とりどりの花と合わさりぱっと辺りが華やいだように思えた。

「今日はお一人なんだね」

 香川さんは俺に気づいた。

「あ、はい。…綺麗な花壇ですね」

 俺はまず、花を褒めた。

 香川さんが世話をしている花壇にはびっしりとラベンダーが咲いている。散らかってしまった桜と違い、ピンと息づいていて雷雨の影響は軽微である。

 香川さんはしゃがんでいた体勢から立ち上がって、眉を下げる。

「教授が植えたはいいけど誰も手入れしないんだ。しょうがないから私がたまにやってるの。ラベンダーはあんまり水をやらなくてもいいみたいなんだけどさ」

「それは…なんというか、1人で大変ですね」

「そうなんだよ、大変。でも、勝手にやってることだから」

「はぁ、」

 香川さんは、にこ、と花が綻ぶように笑った。

 ううん、やっぱり可愛い人だ、話しているだけで気分が上がってしまう。 

「ここってね、日当たりがいいからたまに、教授が乾燥のために作品を置いていることがあるの。そのついでに目について植えたんだよ、きっと。無責任だなぁって私も最初は思ってたんだけど、芸術家は自分の興味のあることしかしないもの、なのかもね」

「はぁ、それはええと、芸術家の卵、ってやつでも?」

「それは人によるかな?花を愛でても作品に反映されることは少ないんじゃない?ただ綺麗なだけで、面白みはないから」

「え、絵の題材にするなら綺麗なだけでいい気がするけど、違うんですか」

「綺麗なものをただ描くんじゃなくて意味を付け加えるのが芸術家の仕事だよ、なんてね。里村教授に会いに来たんなら研究室にいるよ?知り合いなんでしょ?教授から聞いた」

「あー、そうですか。そう。…あの、仲さんは上にいる?」

「仲くん?うん、アトリエにいたと思うけど」

「どうも、ありがとう」

 俺はこれ以上の会話をギブアップした。

 美人と話すのは変に緊張して向かない。自分が浮ついた気分を持っていると自覚するのも、気持ちのいい感覚ではない。

「それじゃあ」

 頭を下げてその場を去ろうとすると「香川ー」と声がした。

 ゾロゾロと歩いてくるのは昨日のアトリエにいたメンツだ。俺は隠れるようにそそくさと入り口に寄った。先頭に立つ茶髪の生徒は梶、と言ったか。

 扉を開ける俺の背後では親しげな会話が始まった。

「ゴールデンウィークのことなんだけどさ、香川、当然行くだろ?」

「サークルの?あれ、行こうか迷ってるんだよね」

「ええ?香川来ねえの」

「だってあれ三泊四日でしょ?ながいよ、せめて一泊二日だよねぇ」

「香川がいないとおもんねえよ」

 あれは餃子サークルの話か?

 いや、餃子サークルは香川さんと望月さんのみと言う話だった。ということはつまり、香川さんは別のサークルも掛け持ちしてるのか。可愛さに胡座をかかず、アグレシッブな女性だ。モテ要素が多い。

(俺には関係ないな。さっさと終わらせるか) 

 表入り口は建物を前から見た時に右端に位置し、上へ続く階段が左右に取りつけられている。

 俺は先日のルートを辿り、左端の階段から二階に上がることにした。

 椰代への反発心もあったが、アトリエに行くことに対して気が乗らなかったのは例の捜査の昨日の今日ということもあった。椰代よりは印象の弱い俺だって顔は見せてしまっているわけで、訪れていい顔をされないのは確実だからだ。小田くんと2人で残されるくらいは、という消去法でしぶしぶ了承したにすぎない。

 最も会いたくない彼ら(特に梶)は入り口で話し込んでいる。声をかけるなら今のうちだ、という考えで、廊下を気持ち早足で上りきった。

 二階に着くと、がら、と正面の研究室の扉が開いた。ばったりと鉢合わせする形で出てきたのは里村教授だった。

「椰代が連れていた生徒か?」

 開口一番、里村教授は表情を崩さずに凛と言った。

「あ、は、はい」

 俺は背筋を伸ばして、遅ればせながらの自己紹介をした。

「関ヶ咲と言います。椰代とは同じ文学科で」

「探偵サークル、か?」

 教授は口元に冷笑を浮かべた。

 里村教授の顔の造形は親しみを持てるような特徴を無駄として削ぎ落としたような鋭さを持っている。香川さんとは違う、冷たい印象を与える美人だ。

「あ、はい、今日は椰代はいないんですが」

「椰代に会う予定はあるのか」

「え?まぁ、この後には」

「では椰代に言っておけ」

 いきなりの命令口調でそう言われて、俺は「え、はぁ」と口にする。

「お前の青春をどう過ごそうと勝手だがあまり掻き回すな、と。あいつは自分の設定したゴールを達成するのは上手いがそれが周囲に与える影響を考えていない、とそろそろ自覚するべきだな」

 里村教授の言葉の意味が分からず、よく理解できていないまま返事をする。

「…はい、後で言っておきます」

「頼んだぞ、察しのいいあいつなら言えば分かるだろう」

 教授は研究室の扉の鍵をかけると、階段をカツカツと音を鳴らして降りて行った。

(なんの話や、まじで)

 説明がなさすぎる。脈絡もないし、俺は困惑気味である。関わるのは二度目ながら変わった女性だ。芸術学部教授だからか、と考えるのはよくない偏見だろうか。

 ここに長居する気はない俺は、ひとまずアトリエに足を向けた。

 アトリエは実技演習が始まる前だから人が集まりきってはおらず、何人かの生徒がキャンバス前に座って準備をしていた。中に入らなくても、目当ての人物は入り口近くにいてくれて探す手間が省けた。

「仲さん、こんにちは」

 小声で呼びかけると、大きな体は振り返った。

 顔に笑みを貼り付けてフレンドリーを装って話しかけてみたが、彼も俺もお互いをよく知らない。縮こまる仲さんに、俺は警戒心を無くしてもらえるように笑顔を多めに見せた。

「どうもー、昨日は、どうも」

「あ、…はい。…今日は、その、椰代くんは一緒ではないんですね」

「ええ、まぁ。なぜだか」

 やっぱり椰代ではなく俺が来たというのはどう考えてもおかしいのだ。後で一言言ってやる。

「あいつは庶民のくせに王様みたいに振る舞うやつやからですね。俺は使いっ走りなんですよ。俺はあいつに、仲さんを呼んでこいって頼まれて来たんです」

「えっそう、なんですか。僕、その、何か…」

 仲さんの肩が怯えたように余計に縮こまった。

 俺はしまったと手を振る。

「あ、いや!すみません言い方が悪かったです。俺たちはただ仲さんと話がしたいだけで、小休憩、のような感じで、ちょっと俺たちとお茶しませんか?」

 言いながら、絶対来ないだろこれ、と思う。

 何が悲しくて男相手にこんな下手なナンパみたいな文言を言わなきゃならんのか。ナンパであったとしても誘い文句がひどすぎる。対人関係の経験値がゼロに近い俺が上手くお茶に誘う、など到底無理な話だ。さっさと断られてこの場から立ち去りたい。

「…どうですか?嫌なら全然、大丈夫なんですけど」

 断られ待ちでいると、仲さんはキョロキョロと目を動かして。

「そう、…ですね。行きます」

 小さくうなづかれた。 

「え」

「…どうしました?」

「あ、え、?行くんですか?」

「え、だって、呼んでるんですよね?」

 暗い表情のまま彼は立ちあがった。立った仲さんは俺よりもだいぶ大きい、羨ましいほどの高身長だった。体格もいいため威圧感がある。同時に猫背で、背骨が通っていないようなアンバランスな印象を受ける。

「あ、じゃあ、……行きましょうか」

 促すと、仲さんは黙って俺についてきた。

(あの誘いで来るって、誘っておいてなんやけどこの人押しに弱すぎんか)

 他人事ながら心配になってくる人だ。詐欺とかには気をつけてほしい。

 ところで、D棟の入り口は一つしかない。

 俺は彼を引き連れてコソコソと外に出てみたが、入り口にはやはり梶や香川さん達が集まっていて見られずに立ち去るのは不可能だった。「あ、会えたんだねー」と香川さんには手を振られ、梶達には不審げな眼差しを送られることになった。想定できた反応ではあったが、俺が驚いたのは彼らの目の剣呑さにだった。

 思い違いじゃなければ先日の騒ぎの時よりも一段と厳しくなっている。

 嫌な予感は、この時点でかなり現実味を持ちはじめていた。





 C棟の探偵サークルに招くと、仲さんはキョロキョロと落ち着きなく室内を見た。お茶に誘われてこんな物置に連れて行かれるとは、と言った戸惑いだろうか。気持ちは分かる。

 コーヒーが冷める前に、と言うことだったが椰代は俺たちが着いてから優雅にコーヒーを注ぎはじめた。俺の視線をどう思ったのか、布団を脱いでいた椰代は俺を一瞥して「関ヶ咲もいるか?」と聞かれたので「いらんわ」と言ってやって椅子に座る。

 出来上がったコーヒーを仲さんの前に置いて、椰代はその前に座って、口を開いた。

「俺たちのしたことは逆効果でしたか?」

 椰代は俺が何も言わずとも雰囲気で察したらしい。

 心なしか真剣な眼差しで仲さんを見ている。

「逆効果、って…」

「仲さんの芸術学部での立ち位置の変化です。たとえば、仲さんが教授に相談したから俺たちが呼ばれたと誤解されている、とか」

 察しがいい、とか言う次元なのだろうか、これは。

 仲さんは黙った。その沈黙が雄弁にそうだと言っているようなものだったが、仲さんは目を左右に動かして、覚悟を決めた。というよりも、俺たちから見られていることへの緊張から逃げるように話した。

「あ、あなたたちは悪くないです。その流れで勘違いされていても、教授が僕の相談で動いたってことは教授は僕を怪しんでないってことですから、もうみんなから泥棒の疑いはされてない。だと…思います」

 仲さんの言葉は、遠回しだが否定ではなかった。

「その、…ゆ、指輪の件だって、もともと教授はあまり、その、みんなから好かれてないんだと思います。あんまり、誰も犯人が誰かなんて真剣には考えてないんじゃないでしょうか、と。僕も、教授が俺の疑いを晴らそうとしてくれたこともうまく飲み込めないくらいで、そんなに話したこともないはずなんですけど」

 仲さんの必死に見える弁明になんとも言えない気分になってくる。

(これは、失敗なんか?)

 彼は泥棒扱いはされなくなっても、保身から調査を依頼して場を荒らした厄介ものだとは思われているということだ。

 俺は、仲さんの苦しい立場は指輪泥棒の犯人だと疑われているからだと思っていたが、疑いが晴れても仲さんの置かれた状況は変わっていない。むしろ、より純粋な嫌悪に変わっているように感じた。これでは本末転倒だ。

(さっき仲さんが俺と一緒にいるところをあの人らに見られたのも、疑いを増してしまったんやないか?)

 仲さんを見ていると気弱な彼が視線に押しつぶられるようにどんどん縮こまっていくようで、俺は目線を外す。

 小田くんは俺たちが来る前に持っていたコーヒーカップを手に、黙って話に耳を傾けている。

 椰代は机の上にあるコーヒーに手をつけない。

 す、と仲さんに頭を下げた。

「俺たちのやり方が乱暴すぎた結果です、すみませんでした」

(……)

 俺は微かに目を見開いた。

 椰代の謝罪なんて滅多にお目にかかれるものではない。

「え、いやっ、本当にあなた達の責任なんてありません」

「いえ、俺の推理が中途半端だったからです。外部から突然来て仲さんの疑いだけを晴らせば、いらない憶測を産んでしまうことは予想できます」

「いや、そんな、そんなのは」

「仲さんの名誉回復に、協力させてくれませんか?時間は取らせません。またあの場を用意して今度は長い時間で」

「い、いいです」

 仲さんは目線を下に、被さるように、遠慮がちに声を出す。

「大丈夫です、僕は納得してますから。これ以上は申し訳ないですから、もう……」

「でもそれじゃあ、仲さんは」

「僕はいいんです、僕が、疑われていることはいいんです。これ以上不快にさせたくないんです。…目立ちたくないんです」

 椰代は口を開いて、閉じた。

 俺にもこれ以上説得したところで、仲さんは首を縦には振らないと思えた。

 下を見る仲さんの目が、暗く、黒く、心を閉ざしていると感じたからだ。

「分かりました」と椰代は言う。

 俺はやりきれない気持ちになった。

(なんだかなぁ…)

 椰代の言う名誉回復の策が具体的にどうものか俺は知らない。しかし、仲さんの疑惑を晴らすのは、彼らに香川さんが捜査の依頼主であると言えばいいだけなのではないか?香川さんなら誤魔化さないだろう。

 仲さんが拒んだからそれはできなくなった。俺のお茶の誘いには乗っても、誰かに注目されるような変化は恐れているのか。

 誤解されて、主張が弱いからこそ疑惑の訂正もできず、暗に認めていると判断されるという悪循環を産んでいる。つくづく不幸な人だ、と俺は思い、思いのほかその表現がしっくりとハマった。彼は、纏っている雰囲気の幸が薄いために恵まれた体格でも頼りなく見えてしまうのだ。

「仲さんは強いですね」

「え?」

 椰代は涼しげな優しい笑みを浮かべた。

 まるで営業成績一位のビジネスマンのような、誠実さを演出した笑みだ。布団をかぶっていない椰代は男として見れる容姿をしているので絵になってしまう。

「俺なら、理不尽にかけられた罪を甘んじて受け入れることはできません。仲さんは耐えられるんですね」

「っ、そ、そんな。違うよ俺が、…弱すぎるだけだ」

「弱い、とは思えませんが」

「……」

 仲さんは黙った。椰代は微笑みから困ったように眉を下げた。

「俺は、自分自身のやったことでも苦しくなりますよ。俺たちが仲さんにしてしまったことのお詫びには足りないでしょうが、冷めないうちにコーヒーをいただいてくれませんか?」

「あ、はい、…いただきます」

 仲さんは急かされる形でインスタントコーヒーを飲む。

「…おいしい、です」

「口にあったならよかった。そういえば。同学年なんですよね、俺たち」

 仲さんがコーヒーを半分ほど飲んだあたりで、椰代はにこやかな表情で話を切り替えた。

「あ、はい。…2年生ですよね?」

「はい、なんだか敬語は変な気がしますね。やめましょうか?」

「え、はい…、あ、うん。そうだね」

 椰代は依然、透明な笑みを浮かべている。

「仲さんとは今後も親しくしたいと思ってたんだ。せっかく知り合って、無関係ってのも寂しいからさ」

 その笑みは、俺が見るから胡散臭いと感じるだけなんだろうか。

「そうだ。三雲さんがどこにいるのか仲さんは知ってるいたりするかな?三雲さんもこのサークルの一員なんだけど、ここに来なくなっちゃってさ。探してるんだけど見つからないから困ってるんだよね。俺たちは三雲さんと同じ学部じゃないから接点がなくて、あ、それは仲さんもなのかな」

 俺は、椰代が本題に入った、と思った。

 めづらしく反省しているのかと思えば、したたかなやつだ。

 椰代のこういうところを俺は信用できない。表面上は人当たりのいい人間でも腹に一物があるような、周囲を騙して自身の都合のいいように状況を操作しているような、嫌なやつだと出会った頃から思っている。

「えっと、そうだね、ごめん。俺もどこにいるかは知らないよ。おととい会ったけど…、それだって偶然で」

「会ったってどこで?」

「大学を出た近くのカフェで話して、…あ、その前に講義で会ったんだ」

「へぇ、なんの講義かな」

「デザイン論、だよ」

「俺はとってないな。里村教授の講義だよね、A棟でやってるのを前に見たことがある。三雲さんとはその講義で知り合ったの?」

「あ、いや。…ううん。一回、三雲くんに芸術学部の案内をしたことがあって、それから同じ講義を受けてるって知ったんだ」

「すみません。それはいつの話か聞いてもいいですか?」

 ずっと黙っていた小田くんが会話に入った。

 人見知りっぽい仲さんは急な質問に固まって、右上を見た。

 余談だが、何かを思い出す時に人は右上を見るものらしいとネットで見たことがある。右脳と左脳の機能の差が関係しているようで逆に左上を見て話す内容は嘘であるというのだが、注釈で”個人差がある“と書かれていた程度の情報なので眉唾物だ。

 第三者である俺は3人の話を聞いているだけで何をするわけでも無いので、そう言ったことをふと考えた。

「最近の話、だよ。あの事件のあった日の次の日だから…、えっと、」

「三日前だね」

 椰代が答える。そして「教えてくれてありがとう」と仲さんをまっすぐ見てお礼を言った。

「三雲さんを探す手がかりを得られたよ。この探偵サークルはその名の通り謎を解くサークルだから、何か解いて欲しい謎があったら依頼して来てほしいな。その時はもちろん、コーヒーを出させてもらうよ」

 仲さんは飲み終わったカップを置いた。

 声はなくうなづき、顔を俯かせ、完全に停止した。

「仲さん?」

「っすみません、そろそろ、帰るよ。…失礼します」

 椰代の問いかけに、仲さんはぎこちなく頭を下げる。

 その顔色は血の気が引いたように悪く、具合が悪そうだ。ペコペコとこっちが申し訳なくなるくらいのお辞儀をして、仲さんはサークル室を後にした。

「あと5分か」

 腕時計を見てそう言う椰代に、俺は心底呆れた。

「お前、非常識やぞ。授業の前にわざわざこんな用事で呼びつけるなんて、俺が仲さんやったらかなり嫌になるわ」

「なんだ、関ヶ咲も実技演習の時間を覚えてたんだな。その割には俺の指示に従ったけど」

「……」

「チャイムまでまだ時間はあるんだから余裕で間に合うだろ。実技演習は出欠を取らないから必ずしも参加義務があるわけじゃないらしいし、本当に嫌なら断ってるよ」

「ああそうかよ。残念やったな」

「なにが?」

 俺は腕を組んだ。

「仲さんをサークルに勧誘するつもりやったんやろ?例の依頼が上手くいってればどうにか入れられたんかもしれんけど、俺らと連んでるとあそこで何言われるか分からんから、今後も無理やろうな」

「妄想逞しいな。関ヶ咲にはよっぽど俺が手段を選ばないように見えるみたいだ」

 椰代は肩をすくめて「まあ、関ヶ咲が失礼なのは今に始まったことじゃないか」と言う。

「三雲さん探しは地道に行こう。2人はデザイン論はとってる?」

「いいや」

「取ってませんね」

「そう、調べればいいだけか。ごめんね小田くん。デザイン論は月曜日の講義だからゴールデンウィークを挟むことになるんだ。ゴールデンウィーク明けまでに三雲さんが見つかると期待しない方が良さそうだ」

「俺はいつだってかまいませんよ」

「分かった。これで三雲さんと会えることは確定のようなものだ、でも、妙な話だよな」

「?何がですか?」

 椰代は畳んでいた布団を広げて、また被った。

 白い布団に一度包まれて、カーテンが開くように顔が出てくる。

「小田くんが三雲さんに会ったのはいつ?」

「俺が三雲さんと会ったのは2週間前ですね。その時に芸術学部は案内できませんでしたから仲さんに頼んだんでしょうね」

「仲さんが三雲さんが会ったのは三日前、なんでそんなに期間が開いたんだろう。三雲さんって行動が早いイメージなんだけどな」

「え?ああ…そうですね、芸術学部に詳しい人を見つけられなかったんでしょうか?」

「…この間言ってた話をしとるんか?大学の案内とかいう」

 小田くんの三雲さんとの出会い話と話が繋がり、俺も2人に遅れて理解した。

「おいおい、なんの話をしていると思ってたんだ」

 椰代に馬鹿にするようにそう言われ、俺はまた、いら、とする。

「確認しただけや、俺が知らんことばっかりやからな」

「そう。関ヶ咲は三雲さんとあったことがないんだもんね。関ヶ咲も、そろそろ三雲さんに会いたくなってきたかな」

「あー、そうやなっ。話聞いてても三雲さんってのがどんな人か全然つかめんし気にはなってきたな。どんな人なんやろうなぁー、一体」

 適当に返して、机に頬杖をつく。

 俺は途中から会話から気を離していた。

 さっきから起こる全ての出来事が俺には無関係だと思えて仕方なかった。

 いまいち2人の熱量というか、流れに乗れない俺がいる。

 指輪の窃盗事件も三雲さん失踪も。指輪の事件の顛末は気にはなるが、三雲さんの失踪なんかは本人がただ探偵サークルというサークルが恥ずかしくなり来なくなったとしか思えない。

 そんなことより、俺がここに通っているのは未解決事件考察サイトのためで、三雲さんとやらはその助けにはならない。

「三雲さんは、椰代さんに似てるかもしれませんね」

 小田くんに、椰代は優しげな声で返す。

「ええ?そうかなぁ?」

「俺にはそう思えますよ。どこ、と言い切るのは難しいですが、雰囲気が」

「…ふーん」




 これは勘違いではないと思うのだが、どうも人並み以上にコミュニケーション能力の高い椰代が俺に対してだけやたらに当たりが強い。

 最近の俺は、椰代の不遜さに対して嫌気がさしてきていた。加えて俺への扱いの雑さ。思うところがないわけなく、探偵サークルに行きたくないと言う気持ちも段々と生まれてきている。

(そうも言ってられんのは、分かっとるんやけどなぁ)

 認めたくはないが不甲斐ないほど、俺の運営する未解決事件考察ブログは椰代の能力に依存している。俺の記事に椰代の協力は不可欠。結局は自分のために、行かないといけない。

 気が進まないのは事実であるので、俺は授業が終わったあとにすぐには行かず適当に時間を潰すことにした。といっても、友達のいない俺にすることはなく。学内のフリースペースでスマホでインターネットサーフィンをしたくらいで20分くらいで飽きて、ゆっくりとC棟に辿りついた。

 がら、とサークルの扉を開けると中には小田くんが1人いた。

 …この子の存在も、俺の行きたくなさを助長させている。

「今日は椰代さんとご一緒じゃなかったんですね」

「…ああ」

 似たようなセリフを香川さんと仲さんにも言われたか、と俺はげんなりした。

 俺は椰代とニコイチなわけではない。入学式の日に話しかけられて以来の付き合いにはなるが、学内での関わりはないに等しい。間違っても休みの日にどこかへ遊びに行くような友人関係はない。俺に一切行く理由がない以上誘われても困るので、椰代から誘われないことは俺にとっては有り難かったりする。あいつも願い下げだと言うはずだ。

(わざわざ訂正するほどのことでもないか、それよりも)

「椰代さんは遅れて来るんですか?」

「俺もあいつがどこにいるかは知らんわ」

 椰代のいない今がチャンスなのではないか、と椅子に座り、俺は思った。

 6月になればゼミがはじまる、留年がバレるのは時間の問題。バレる前に自分から告げたいと思うのは誰だってそのはずだ。

 上手く作れているかも分からない笑みを向けてみる。

「小田くんはずっとここにいたんか?」

「いいえ、5限の講義室が近いので早く着いたと言うだけですよ」

「ああ、そう。…なんや、これ?」

 さぁ告げようとする前に、椅子三脚に対して一台の机には置かれた冊子が気になった。

 小田くんが一番上の一冊を取る。

 A4用紙の、5枚綴りくらいの薄い冊子だ。他に2冊ある。

「椰代さんに題材にできる未解決事件があれば教えて欲しいと言われていたので、調べてまとめてきたんです」

「え、…へー、作ってきたんや」

 俺は身を乗り出した。興味がないわけがなかった。なぜなら、その事件をブログで取り上げるのは俺なのだ。

「揃ってからお見せするつもりでしたが、見ますか?」

 小田くんから冊子を渡され、手に取った。

 表紙には飾り気のないフォントで”檜山くん自殺事件”と書かれている。

「檜山くん自殺事件、聞いたことない事件やな」

「この辺りで起きた自殺事件です。事件名は俺が分かりやすいようにそう書いただけで、世間で通っている事件名はよくある、地名の名前がついています」

 話を聞きながら、ぺら、と冊子をめくってみる。

 1枚目には事件概要がまとめられている。

 当時小学六年生であった檜山少年が自宅で飛び降り自殺をした、とある。記載している正式事件名にはこの大学の割と近くの町名がついていた。日付を確認して今から8年前におきたものだと計算する。2、3枚目には新聞やネットニュースの切り抜きが貼ってあった。几帳面に、切り抜きは掲載日順に並べてあった。

「飛び降り自殺…、この近くでこんなんがあったんか」

「俺は地元が隣町なのでニュースを見ていましたが、どうなんでしょう、全国放送をされたかどうかは分かりませんが、ネットで検索したらいくつかヒットしたのである程度の知名度はあると思います。当時は同年代ということで、先生や親が騒いでいましたよ」

「ああそう、すごいな」

 俺は一連に目を通すと、2枚目に戻った。

 すごいのは新聞の切り抜きだ。

 昨今のネット社会。8年前とはいえネットに記事は残っているんだろうし図書館に行けば当時の新聞はあるんだろうが、それらをまとめ上げた労力には素直に感心した。こんなサークルで使う力ではないということは置いておいて。

「ようまとめとる。小田くんは、近場やからこの事件を選んだんか?」

「近場だから、というか。俺自身がそこまで現実に起こった事件について詳しいわけではないので知っている事件にしたほうがいいかと思ったんです。事件が起きた場所も調べたんですが山奥にあるかなりの田舎で、つい最近まで村だったんですよ。閉鎖的なコミュニティで起きた事件ということでもいい題材だと思いました」

「あるあるやけど、推理小説なら横溝正史ものみたいな」

「近場の事件だとブログに載せるのはまずいんですかね、どうでしょうか?」

 ブログ主の特定に熱意を燃やすような厄介なファンがつくブログではないだろうが。

 俺は冊子を閉じて机に置いた。

「それよりこれ、未解決ではないやろ」

 ひとしきり読めば、檜山くん自殺事件は新聞に載った初日の記事で“自殺“と断定されていた。不審な点がある、とか。不審な第三者の存在、とか、別の可能性を掻き立てる文言は見当たらない。幼い男児のセンセーショナルな自殺事件として各報道機関は取り上げているようだった。

 運営する未解決事件考察サイトで、解決済みの事件を掘り返すのは主旨にあってない。

 小田くんは無表情なまま瞬きをした。さして落胆する様子もない。

「やっぱり、未解決と銘打たれたものでないと題材にはできませんか」

「いや、とにかく一旦、あいつに見せてみてからやな。最終的に決めるのは椰代やから」

「関ヶ咲さんのブログなのに、椰代さんの許可がいるんですか?」

 間髪入れない小田くんの言葉は想定外だった。

 勘付かれないくらいの表情の変化で抑える、というのも俺は、俺のブログのために未解決事件考察を椰代に依頼しているのだと彼に話したことはない。

「椰代から聞いたんか」

「はい、未解決事件考察の公開場所として、ブログの管理をしているのは関ヶ咲さんなんですよね」

 俺がいない時に色々と話しているようだ。

「…まぁ。そうなんやけど、椰代の案を纏めるのが俺の仕事みたいなもんで、重要なのは考察の中身やから。あいつの気が乗る事件やないと記事にはならんってことや」

「お二人の関係って、ホームズの探偵潭を小説に書いてまとめるワトソン、のようなものなんですか?」

 小田くんは意外にもグイグイと来る。

 人に興味がないように見えて、小田くんは人好きなのかもしれない。これまた厄介だと俺は思った。

「お二人は同い年なんですよね?」

「あ、ああ、それがなんや」

「いえ、同い年にしてはなんだか…、」

 小田くんは口元に手を当てた。近くで見ると童顔が際立つ。大きな黒い目に見られていると、水槽にただよう深海魚と向い合っているみたいだ。

 じわりと背筋に冷たい汗が滲む感覚がしてくる。

(もう、椰代が言ってるんか、これ?)

 椰代がすでに小田くんに俺に関してのあらゆる情報を仕込ませていてもなんら不思議はない。

 俺が留年をした事実を後輩に隠そうとする滑稽な先輩であることを、あいつはあの達者な口でなんと醜悪に表現してみせるだろうか。悪い想像は次々と浮かんでくるのに、いい想像は上手くできた試しがない。

「主導権が椰代さんに傾いている気がしていたんですが、なるほど。ブログに協力してもらう手前、関ヶ咲さんは強く出れないということですか」

 小田くんはひとつうなづいて自己完結をした。

 俺は肯定も否定もせず小田くんが机の上の冊子を開くのを見ていた。「これ、俺には不自然な事件に思えるんですけどね。警察はすぐに自殺だと断定しちゃったみたいで」と呟く内容は耳を素通りする。呟きが終われば、紙をめくる音。

(これ、バレてないんか)

 室内は静かになった。

 高まった緊張が次第に弛緩していく。

「…あー」

 仕切り直しとばかりに、俺は沈黙を破った。

「コーヒーつくるけど、ついでに飲むか?」

 小田くんを置いて自販機に水を買いに出る。がこんと落ちたペットボトルを掴むと、ひんやりと冷たく肌の熱を奪っていく。指先の痺れが取れていくようでありがたかった。

 俺には逃げ癖がついている。

 頭では賢い選択ではないと分かっているのに、何か目の前に不都合な障害物が聳え立つと逃げの一手だ。

 昔はそうではなかった、と自分では思う。

 俺が自分に課していたハードルは大抵の他人よりも、きっと高かった。学年で一位の成績は当たり前、小説は上手く書けて当たり前。

 なぜこうなったのか、不思議に思う時がある。

 車のエンストみたいに一度ぶっ壊れて修理もできていないから常に息切れをしているのか、なんて考えた夜もあった。

(ださい言い訳やな、こんなの)

 不思議といえば、椰代に探偵サークルに誘われたことも俺がここにいることも、よくよく考えれば不自然だ。

(なんで、あいつは俺を誘ったんやろうな)

「関ヶ咲、俺の分もいいかな?」

 扉を開けようとするタイミングで声をかけられた。

「…ああ」




 

 椰代はやはり布団をかぶってから、冊子に目を通した。

 俺は三人分のコーヒーを注いだ。

 水をティファールで沸かして、ドリップコーヒーにお湯を注ぐと頭がスッとするようないい匂いがする。コーヒーは味というよりも、この感覚が好きで飲んでいる節がある。

「当時小学六年生であった檜山少年が自宅で飛び降り自殺をした。両親による通報で、地元警察官が自宅の庭にうつ伏せに倒れた遺体を発見。状況から自宅3階の窓から飛び降りた模様。窓のサッシには少年の指紋のみが摂取されたため、事件性はなしと断定。死因は家の蛇口に頭を打ちつけたことによる脳挫傷」

 冊子を音読する椰代の前にコーヒーを置く。小田くんには手渡した。一台の机は冊子とコップで満員状態になっている。俺もコップを片手に椅子に座った。

「現場になった家は林に囲まれて近隣の家から見えずらい場所にあった。現場検証の際に裏の林で遊んでいた同学年の少年を保護。遺体を見たと思われる少年は一時錯乱状態で取り調べも困難なほどだったが、警察は事件に関係はないと判断。前日から夕方にかけて少年の両親は旅行に出掛けており、当日の流れは不明。遺書は見つからなかった」

 椰代は事件概要を読み終えると、冊子を開いたまま机に置いた。

「こんな資料まで作ってくれてありがとう。小田くんはなんでこの事件を選んだの?自殺で処理されてるなら謎は残されていないように思えるけど、なにか変わった噂でもあるのかな?」

「そういった噂はありませんでした。ですが俺は、彼が自殺だとすると不自然だと思うんです」

 俺は広げている冊子の下の一冊を手に取った。事件概要を読み直し、小田くんの言う不自然さを感じ取ろうとしてみる。

 不自然というか、たしかに違和感を感じる記述はある。

「この、裏の林にいたっていう少年のことか?」

 俺は聞いてみた。小田くんはコーヒーを一口飲むと、控えめに首を振った。

「その子にも違和感はあるんですが、俺が感じた不自然さはもっと根本的な部分です」

「根本的、っていうのは?」

「これが自殺だとすると、3階からの飛び降りは打ちどころが悪ければ死ぬと言うくらいなので、脳挫傷がなければ死ねたか怪しい。よほどアンラッキーか…、自殺を目的としているならラッキーと見るべきですか」

(す、ストレートに不謹慎やな)と、俺は引いた。

「お二人は自殺の分類はご存知ですか?」

 小田くんは気にもせず話を進める、俺と椰白を交互に見るので、俺は答えた。

「え、いや…、自殺方法で分けるってことか?」

「方法ではなく、推理小説における系統分け、ハウダニットなどと同じように自殺も系統分けができるんです」

 知らない、俺は椰代を見た。

「知らないな」

 椰代も知らないようだ。

 椰代は偉そうでいて結構知らないことがある。例えば最近流行りの曲のイントロは知らないし、有名若手女優の名前を出しても「誰それ?」と返された。反面、いつ使うんだその知識と思うような雑学を知っていたりして、知識の偏りが顕著だ。とはいえ、小田くんの言う自殺の分類も俺からすればかなりディープな知識だった。

「自己本位的自殺、集団本位的自殺、アノミー的自殺、宿命的自殺。この分類は個人と社会の状態によって変わります。単一の分類よりも、いづれの自殺も複合的な自殺であることが多い、ですが、たとえこれがどのタイプだとしても俺は同じだと思っています。どの自殺であったとしても、自殺というのは目的と手段が同一化している。苦痛を取り除くために自殺するのは、今後苦痛を感じないためという目的を含んでいると俺は考えています」

 つらつらと知らない知識を披露されると、なんとか論とかの小難しい講義を受けている気になる。俺は多分、小田くんから見れば片眉を上げ口半開きの間抜けヅラだったろう。

「?何が言いたいんや?」

「なんとなく分かるよ」

 椰代がコップを手にして言う。

 何度か息をかけ、コーヒーを冷ますと口に含んだ。

「小田くんの言うように自殺が目的化されたものであるなら確実性を選ばないのは不自然ってことか」

「はい、蛇口にあたらなければ死ねたとは思えないんです。自殺する場所としてそんなところを選びますかね」

「…じゃあなんや、これが他殺っていうんか?」

 自殺に見せかけて小学生を殺すなど、大統領とかなら理解できなくもないが、陰謀論じみている。

「いえ、俺は他殺であっても確実性を意識しないのは不自然だと思います」

「他殺においての確実性っていうのはよく知られる話だね」

「それは、聞いたことはあるけどな」

 ごく一般的な知識だとは思わないが、推理小説を読んでいれば犯人のプロファイリングなどで見たとこのある記述だ。

 遺体が過剰に傷つけられている場合、よく異常犯罪であると思われがちだが、比較的合理的な思考のもとに行われていることがあると言う。それは、本当に死んだのか分からないから確実に殺すために過剰に傷を負わせてしまう、と言うものだ。殺害に慣れていない初犯には多く、連続殺人の場合は大抵最初の方が残忍である(殺害ではなく、殺害行為を目的とする場合は世間一般で言う異常殺人になる)同様に、自殺が死を目的とするなら確実性を意識するだろう、ということが2人は言いたいのか、と理解はできた。

 だが自殺を、他傷と同様に扱うのはどうなのだ、と思う。

 生きている以上、生に対する執着はあるだろう。どんなに覚悟を決めていても躊躇い傷のない自死は稀だと言う。自殺か他殺かを判断する検死の際にも、躊躇い傷の有無は重要だ。

 不都合な他者を確実に消し去りたいと言う自己愛的行為と、自己を消し去る破滅的な行為は全く同一視してはいけないだろう。

「じゃあ、自殺でもなく他殺でもないなら事故しかないけどな。窓から体を落とすって、身を乗り出さんとそうはならんやろ。檜山くんはなんのために窓から身を乗り出したっていうんや」

「そこがこの事件の謎なんです」

 小田くんはそう、締めのように言った。

「…」

「いいね、なぜ檜山くんは飛び降りてしまったのか、か」

 小田くんと椰代は顔を見合わせる。

 妙に話があっている。

 俺は蚊帳の外に追いやられたみたいだ。

 手の中のコップから伝わる熱がぬるくなって、俺はコーヒーを口に含んだ。口内に広がる苦味に顔を顰める。

 香りは他に変えられないくらいには好きだが、俺はコーヒーを美味しいと感じたことはない。カフェにいけばカフェオレを頼むのは消極的選択からだ。清涼飲料水の甘ったるさよりはましで、俺は金を払ってお茶や水を飲まない。

「死ぬ以外になんの目的があんねん、それ。俺は普通に自殺やと思うけどな。死のうとして飛び降りて…運悪く死んでしまったんやろ。小5なんて思春期始まりたての時期やし、どのくらいの高さじゃないと死ねない、とか知識として知ってるのは大人でも少ないやないか」

「彼は頭のいい子だったという子ですよ。3階の高さでは死ねない可能性が高いってことくらい、分かりませんかね?」

「頭いいってどっかに書いてあったんか?」

「ちゃんとよく見なよ。新聞の切り抜きにコンクールで賞を取ったって書いてあるだろ」

「……ああ、そうかよ」

 椰代のぞんざいな言い方に俺は腹の底がむかっとした。

 気づかれないくらいの息を吐いて冊子を開く。

 新聞の切り抜きは2ページ目から、開いて、すぐさまに細々な文字達の中に該当の記述を見つけることはできなかった。

「小学生の部でもサイエンス賞を取るって結構すごいですよ」

 小田くんに、俺は感情を乗せずに「優秀やったんやな」と言った。冊子を机と垂直にして持つ。どこに書いてあるのか聞く気は起きない。

 紙の中で大きなウェイトを占めるゴシップ誌らしき切り抜きには近所の人のインタビューが載っており、なんとなしに目を滑らせる。

 『挨拶をちゃんと返してくれて、一度落としてしまった買い物袋からものが道を転がっちゃった時に拾うの手伝ってくれたよ。最近やってきた家だったから近所からは浮いてたけど、子供は明るい子だったわ』

 檜山家は都会から田舎に引っ越してきた。多感な時期にど田舎という閉鎖社会への転校、檜山少年の複雑な心境は察するに余りあるが、どうやら表面上では優秀で、暗い少年ではなかったらしい。対して親の評判は良くなかったようだ。

 専業主婦の母親は精神疾患を患っていたこと、父親は画家でほとんど家から出てこなかったなど、どこまで本当かわからないことが書いてある。

 見出しには”悲劇、少年の自殺の影に何があったのか!”。

 露悪的な下品さだ。

 子供の自殺というのは誰にとっても大抵はセンセーショナルだ。若さゆえの悲劇性に、大人がよってたかって羽虫のように群がっている。

 こんな雑誌を買うような連中も、この特集を組む編集者も下卑た好奇心を止められない俗物だ。

 嫌悪感から、俺は冊子を畳んだ。

「現場の3階建てが確実な死を意識できるくらいに高いのかもしれん。それすらも俺たちは知らないんや、想像には限界があるやろ。そもそも自殺事件なんて考えること自体が、不謹慎やろ」

「いまさら何を言ってるんだよ」

 椰代は俺を見ずにコーヒーを飲む。

「関ヶ咲のブログ自体が不謹慎だろ。ゴシップ誌と何が違うって言うんだ」

 瞬間的に、俺は頭が真っ白になった。

 次の瞬間、俺は席を立っていた。

 弾みで椅子に体が当たり机を弾く音がする。「勝手にしろ」と、自分の出した声が他人の声に聞こえるくらい無意識に口から出た。

「もう帰るわ、これ、もらっていいんか」

「あ、はい。どうぞ」

 小田くんの了承を得て冊子を鞄に入れた。残ったコーヒーを飲み干し、空のコップを持って扉を掴む。扉を開けて、廊下に出ても俺は振り返らなかった。背後から平坦な椰代の声が聞こえた。

「小田くん、これでいいと思うよ」

 普段なら使用したコップはD棟一階にあるトイレ横の手洗い場でゆすいでからサークル室に置いて帰るが、俺は頭に血が昇ってサークル室に戻ることは考えられなかった。

 コップはカバンに入れて、家に持ち帰ってから洗った。



 

 2 4月26日



 

『更新ありがとうございます(o^^o)この事件初めて聞きました』

 

『これ、もう自殺で片付いてる。事件に関する情報が少ないのもそのせい。ここらは開拓されていない元村だから、今でも風習が残っていたりして不気味。近くまで寄ったことあるけど、人の警戒心が強くて話も聞けなかった』

 

『お前が話しかけたからじゃねえの 可愛い女が話しかけたらニコニコするだろ』

 『風習ってなに』

 

 『葬儀の時の野辺送りをまだやってる。村のそこかしこにも大量に地蔵が置かれてたり、何を祀ってるのかは知らない』

 

 『宗教村?』


  『小説の読みすぎ、普通の村だよ』

 

『事件とは関係ないだろ 俺は自殺だと思う、それが事故 そもそも出窓のサッシに被害者の指紋しかついてなかったんなら疑いようがないだろ』


 

 『この事件知ってる いま市に合併されてるけど昔は村だった』

 

『だから、おまえら全部的外れだって、犯人は入院してる どこにいるのか誰か突き止めろ』

 

 『お前がやれよ』

 

『fxで丸儲け!私は一月に50万円稼ぎました!詳しく知りたい方は』

 

 かち


『アイドルがAV出演!クリックしたら』


 かち

 

『アイドルがAV出演!クリックしたら』


 ちっ!

 

 俺は周囲に聞こえないくらいの舌打ちをした。アイスのカフェオレに沈んだストローを口に咥え、ずここ、吸い込む。いつ飲んでもコーヒーはさして美味しくはない。それが機嫌が悪い時ならば尚更。

「キリがないわ、くそ!」

 俺はテーブルに頬杖をついてひとりごちた。

 午後4時ごろの大学の食堂に人は少なかった。昼頃には万全の体勢であったろう食堂のおばちゃん達も帰った頃合いかと思われる。広い空間にはパソコンと向き合う俺と、離れたところにテーブルを囲んだ5人グループだけがいる。

 俺は昨夜のうちに小田くんからもらった資料を元に事件概要をまとめた。何かをしていないと腹の虫が治らず発散するように画面に打ち込み、校正もせずにアップしたのが深夜2時。俺のブログは1つの事件につき3部構成で、事件概要、検証、考察まとめ、と各週で更新するようになっている。倒れるように寝て起きれば早速コメントがついていた。当然と言ったようにスパムも。

 一通り新たなスパムを消した後にページを更新して、コメントをスクロールする。コメントの食いつきは案外悪くないようだ。

(どの程度が本当のことなのか怪しいもんやな、地蔵だとか野辺送りだとか。こういう奴ってどこから情報仕入れてるんや)

「ゴールデンウィーク、どっか遊びにいかねぇ?」

「俺、バイトあるからパス」

「実家近いから帰れって親に言われてんだよな」

「お前ら、つまんねぇー!」

 離れたテーブルから賑やかな、いや、騒がしい声が聞こえてくる。

 人の声がある環境の方が集中して作業できる人もいるらしいが俺はできない。インプットとアウトプットで違うのか、読書なら不思議と気にならないが作業となると体感1時間も持たないタチだ。

(ゴールデンウィークか)

 パソコンから手を離し、集中が切れた俺の脳は流されるように黄金の期間について考え始めた。

 もう5月になるのか。

 地獄の春休みを抜けて一月がこんなに早く過ぎ去れば、6月もあっという間なんだろう。6月になればゼミが始まる。

 輪をかけて、憂鬱だ。

 ずごご、と、惜しくもないのに空になったカフェオレを飲み続ける。

 俺は食堂の柱にかかった丸時計を確認した。時計は俺がここに来てから半刻も進んでいない。俺にはなんの才能もないが、時間を潰す才能が一番なさそうだ。前までの俺は時間が勿体無いとばかりの読書家だったが、今の俺はあまり本を読みたいとは思えなくなった。趣味がなくなると、時間は過ぎるのが遅い。

(……サークル、どうすっかなぁ) 

 集中が持たないのに食堂で作業をする理由は言うまでもない。あのサークル室に行きづらいからに他ならない。



 

 どこに行くでもなく何をするでもなく、休み期間を無為に過ごした俺が春休みに唯一やったことと言えば冴えない黒髪を自宅の風呂場で茶髪に染めたくらいだった。暇が高じてやったことだったが大学生活における茶髪はアドバンテージが高く、そいつの人となりが実際にはどうであれ初対面の奴らに風体で舐められることなくなった。これは、本気でそう感じた。学内の喫煙スペースに1人で行ってもこの髪色だと周りに認められるような雰囲気があった。見た目が人に与える印象というのは人が考えているよりも強烈なのだ。

 悩んだってサークルに寄ることは決まっている。俺は行く前にタバコを吸うことにした。

 ガラス張りの喫煙スペースはC棟と校門前に2つある。学食からはC棟が近かった。教師も使う喫煙所はそれなりに広く、自販機、ベンチ、椅子のないテーブルが設置してある。

 俺は人のいないベンチに座ってタバコに火をつけた。

 肺に煙を吸い込み、ガラスばりで筒抜けの外を見る。

 大学の横にある貯水池の沿いには木々は少なく、太陽の光に当てられて眩しく煌めく水面がよく見える。

 この光景を大自然と評すかど田舎と評すかは人によって分かれそうだ。俺は後者だ。食料品を買うためには山を降りないと行けないという立地には不便さしか感じない。生活を維持するためにも必要な労力分の癒しが自然にあるとは俺には思えないが、動きのない風景を目に入れているとごちゃついていた頭の中が整理されていく気がした。

(コメント、承認制にしてみるかな)

 その方が無限に湧くスパムの削除効率はよさそうだ。届いたコメントを消していくよりも確実だし、コメント欄を掲示板代わりにしているような人達の目にスパムが入ってくることにもならない。

 ブログの管理人って、思っていたよりも結構大変だ。これがうれしい悲鳴というやつなんだろうか。

「関ヶ咲か」

「っえ、」

 唐突に名前を呼ばれ前を向くと、里村教授が白衣のポケットに手を入れて正面に立っていた。大きなカバンを肩にかけており、下から見上げると冷たい美貌に見下される形になる。

 不意を突かれたものの、俺はすぐに状況の合点がいった。先日の指輪窃盗事件で知った情報は貧相な俺の脳にも新しい記憶として残っている。

(そういや、里村教授はC棟の喫煙所を使っていつも15分くらいで帰ってくる、とかって言ってたか)

「隣いいか」

「あ、、はい。どうぞ」

 スペースは充分でも心理的に俺は横にずれた。

 里村教授はスラリと長い足を組み、皺のない黒いズボンが座ったことでたゆたんだ白衣の白から覗く。

 俺はつい、無意識に、教授の指を盗み見る。

 カバンからタバコを取り出し、火をつける左手の薬指に指輪はない。

「何を見ていたんだ」

「え、っいやなにも」

 俺は指から目を逸らした。教授は「なんだ、ぼーとしてたのか」と言い、咥えてライターをカバンにしまうと、タバコを指の間に挟んで灰を吐く。質問の真意は、俺が指を見ていたことに対して、ではないらしいと気づく。

「……貯水池を、ちょっと。教授もよくここで吸うんですか?」

 答えを知っていたが、俺は間を持たせるために尋ねた。

「まぁな。芸術学部に喫煙所はないからな」

 それも知っている。白々しくならないように、俺は答えてみる。

「そうなんですか。へぇ。なんでないんですかね」

「作品に匂いがつけば問題だからだ、一度でもつけばなかなか消えない」

「ああ、…へぇ」

 答えが出されて止まった会話を俺は無理にでも続ける選択をした。点けたばかりのタバコを吸い切るまで無言もしんどい。ここで慌ててタバコを消して逃げてもどうしても心象が悪いし、なによりタバコが勿体無い。学生にとってのタバコは高級嗜好品だ。

「あー、…でも、ここで吸っても服について、どっちにしろ絵にも匂いついちゃうんじゃないですか?」

「タバコを吸った後は服の消臭をしている」

「毎回ですか?」

「そうだ」

「たいへ、手間ですね」

「仕事だからな。学生から親に連絡が入って、クレームにでもなれば面倒だ」

 なるほど15分かかるわけだ、と俺は内心で思った。

 校舎の端と端に位置するC棟からD棟までは普通に歩いて3分はかかる。往復プラス消臭の時間も合わされば里村教授はわりかし急ぎでタバコを吸っていそうだ。

「クレームとか、来るんですかね。タバコでも」

「タバコ嫌いの人間は思っているよりも多いぞ。正義を振り翳すように喫煙家を糾弾するんだがな、むしろ、余分に税金を払っているのだからタバコ愛好家を優遇するべきではないか?まったく、世間というものはどうも肯定よりも否定的な意見の方が声が通る」

 前例があるのか、教授は眉間に皺を寄せる。

「…はぁ。色々となんか、あるんでしょうかね。喫煙する人より受動喫煙の方がヤバいっていいますし」

「あれもよく分からない理屈だな。同じタバコの煙で何が違うというのか誰も説明できないんじゃないか?」

 俺に言われてもどうしようもない恨み節の後に、里村教授は眉を吊り上げて長めに煙を吐き出した。失礼ながら、結婚のイメージから遠い人だなと思っていたが話してみると人間味のある人だ。

 不満げな顔を崩さず「探偵サークルの一員だったな」と、教授はそのままの調子で聞いてきた。

「あ、はい」

「あのサークルは一体なんなんだ」

 なんなんだ、と言われても読んで字の如くだ。説明も恥ずかしい。

「サークルの許可も出されていないのに無断でポスターを貼っていたと、職員の間で問題に上がっているようだぞ」

 俺はむせた。

「ごほっえ、っそうなんですか!?」

「ああ、特に文学科の河原教授がけしからんと反応していたな」

 脳裏に仏頂面が浮かび顔が歪む。

「お前も文学科なら、河原教授とは面識があるだろう?たしか、二年の担当教授だろう」

「ええ、…はい。何かになりますかね、処分とか」

「は、そこまでのことではない。ポスターを剥がして口頭注意で終わる」

「ならいいんですけど…」

「お前は、椰代と一緒にいるにしては気が小さいな」

「いえ、はは…」

 気が強いとか言う話かこれ。

「もっと堂々としていたらいい。サークルじゃない奴らが集まって無断でポスターを貼るって、ちょうどいい面白さじゃないか。私は好きだ。河原教授は常識というものに縛られすぎている気もするな」

 それは感性がだいぶズレている。

 芸術家ってのは変わり者が多いというが、あながち間違いでもないんだろうと思わされる。この場合、まともなのは河原教授のほうだ。

 俺たちは同時にタバコを咥えた。必然的な無言の時間が出来る。

 先に吸い終わった俺はタバコを灰皿に押し付けて、立ちあがろうとすると教授が話しかけてきた。 

「そういえば、椰代に私が言っていたことを伝えたか?」

「あ、」

 言われて、俺はすっかり里村教授に言われていたことを忘れていたと気づいた。

 自分が他者に与える影響について考えるべき、だったか。

「すみません、今日、これから寄るので伝えておきます」

「ああ」

「それじゃ……あの。指輪は見つかりましたか?」

 去る前に、俺は思い切って聞いてみた。

 指輪をつけていなくてもカバンに入れている可能性は高いと考えていた。それは、はかないほどの希望的観測だった。

 里村教授はため息のように口から煙を吐いた。

「いいや」

 C棟からD棟に向かう道中にはA、B棟の側面に設置された掲示板が目に入る。

 ズラリと並ぶチラシ群の全てに目を通さなくとも変化はすぐに分かった。記憶の中では端に貼ってあったはずの下手くそなポスターがどこにもない。見つからないわけがない堂々とした掲示だったので、このまま見つからないなんて考えてはいなかったが、呆気ない。その呆気なさには「なにがしたかったんだ、結局」という呆れにも似た気持ちが混在している。

(何が探偵サークルや、なんも解決してないやないか)


 


 

 煮え切らない思いでサークルの扉を開けると、2人は変わらずそこにいた。

 小田くんは無表情で会釈をしてくれる。椰代は、山籠り姿で文庫本に目を落としていた。机にはすでにコーヒーが二つ置かれ湯気を立てていた。

「お二人はゴールデンウィークは実家に帰られるんですか?」

 俺は小田くんがいて良かったと思えた。椰代と2人っきりならどうなっていたか、あまり考えたくはない。

 椰代は涼しい顔で本をぺら、とめくる。

 布団をかぶっていると顔が見づらくて、今は助かった。

「帰らないかな」

「…俺も帰らん、小田くんは?」

「迷ってます。帰ってもやることないですから」

「ここにいて、なんかやることあるんか?」

「ここなら実験ができます。ゴールデンウィークはそれをする期間にちょうどいいんじゃないかと思って」

「実験?」

 言い終わる前に引っ掛かりを覚えて聞き返す。

「檜山くん事件の検証です。想像だけだと掴めないので実際に行ってみてもいいかなと思ってます。現場の最寄り駅まで電車だと20分くらいなんですよ。駅からはそれなりに歩かないといけないようですけどね」

 電車で20分なら車でも同じくらいか、と考える。

(行けなくもないんか)

 俺はスマホで事件概要に書いてあった町名を検索した。

 時間は想定と同程度、行く気があれば行ける距離である。事件現場に行けるかも、なんて考えもしなかったが、近場だとこういう利点があるのか。

「椰代さんはこの事件、他殺か自殺、どちらだと思いますか」

 小田くんもスマホを持って、椰代に質問を投げかけた。

 椰代はパラパラと本をめくったかと思うと、本を閉じた。

 す、と上がった顔は普段通りの微笑みをたたえていた。

「まだ分からないけど、小田くんが言ってた自殺なら確実性を選ばないのはおかしいってのは、俺はちょっと疑問だな」

「…」

「それはなぜですか?」

「現場はど田舎だ、高い建物なんて見当たらないだろ?」

 小田くんは「ちょっと待ってください」と言い机の上でスマホを扱い始めた。地図情報アプリが表示されたスマホ画面を、俺は覗き込まずとも反対側から見ることができた。

 山と家が点在したど田舎。画面いっぱいに緑色だ。

「なるほど、消去法ってことですか。他に高い建物は近くにある小学校くらいですが、2階建てですね」

「計画的なものだったらね。それでも当日に親がいないなら家で首吊りでも、電車は走ってるから飛び込みでも良かったわけだから、なぜ自宅での飛び降りを選んだのか分からない」

「ますます不思議ですね。統計的には飛び降りより首吊りを選ぶ人の方が多いと聞いたことがありますし」

「そうなの?なんでだろう、首吊りの方が苦しそうなのに」

 俺は繰り広げられる物騒な会話に口を挟んだ。

「飛び降りも轢死も他所に迷惑がかかるけど、首吊りは自宅で完結できるからやろ。首吊りは用意するものもロープとか布とかですむし、途中で気絶するから苦しみが比較的少ないとか、心的、外的なハードルが低いんやろうな」

 素人意見を言ってみると、小田くんは深くうなづいた。

「死へのハードルという考えですか。理解できます。獣医師の自殺率が著しく高いのも、仕事の関係で死に至れる薬物を扱えることが一因であると読んだことがあります」

「それは、知らんけどな。首吊りは成功率が半々らしいぞ。自殺に確実性を選ばないのはおかしいっていう話は首吊りにも言えることや。ネットじゃ、首吊りは成功率が高いからオススメ、とか書かれとるけどな。失敗した人間は倍近くおる」

「へぇ、そうなんですか?」

 小田くんは口に手を当てて「成功率か」と誰に聞かせるようでもなく呟く。考え事をするときに口に手を当てるのが小田くんの癖らしい。

「成功率を重視するなら轢死だと思いますが、ハードルが低いとは思えませんね。首吊りは成功率が低い。彼なりの消去法の末の飛び降りということなんでしょうか、死ねる公算があったとか、ううん」

 しばらく唸った後に、小田くんは思い出したようにコーヒーを煽った。

「3階からの飛び降りの成功率は間違いなく50パーセントもないでしょうから、消去法であっても飛び降りを選択する妥当性はありませんね。やっぱり、この自殺は不自然だと思います」

 自殺なんて大抵は衝動的なもので妥当性とかないと思うが、そのつもりなく、俺は小田くんの自殺の否定を補強したかたちになったようだ。

 小田くんがホッと一息つくようにコップを机に置くと、中は空になっていた。 

「見聞が浅いと真に迫れませんね。すみません、今から席を外して、図書館で自殺関連の本があるか見にいってもいいでしょうか?」

「うん、いってらっしゃい」

 椰代が送り出すと、小田くんはカバンを置いて出て行った。

 無情にも扉は閉まった。

「……」

「……」

 小田くんがいなくなり、途端に場に訪れたのは静寂だった。

 椰代は読書を再開する。

 俺は本もコーヒーも何もないから、冊子を開いた。

 夜に隅々まで見たので特に読みたい箇所もない冊子を開きつつ、俺はちら、と横目で椰代を見た。俺と椰代だけがここにいる時に無言は珍しくもなかったが、俺の心情には昨日のことが尾を引いている。

 俺のブログが不謹慎だと、言われなくても分かっている。小説とは違って、現実に起きる事件には加害者と被害者が存在する。人の不幸を食い物にしているんだと、それを他でもない椰代が他人事のように言うことに俺は腹を立てた。

「小田くんがゴールデンウィーク中に現場に行くって言ったら、椰代も行くんか」

 冊子に見ているフリをして、文字は目を滑っている。「行かないかな」と返されて「そうやろうな、お前はそういう奴や」と鬱憤を晴らすように言ってやるつもりだった。

 椰代は本に目を落としたまま「ああ」と言った。

「そういえば、まだ言ってなかったな。この事件なんだけど、俺は今回パスするよ。2人で調べてくれ」

「は、」と、思わず声に出た。

 信じがたい目で椰代を見る。

「はあ?パスって、待てよ」

 俺は椰代に詰め寄った。

「何言ってんねん、お前がこれでいいって言ったんやないか」

「なんだ、聞いてたのか」

「聞こえてきたんや」

「ああそう。俺は”題材としてどう思いますか?”って聞かれたからいいんじゃないって答えただけだよ。ゴールデンウィークは別にすることがあるんだ」

 椰代は涼しい顔で本をパラとめくる。

「別のことって、なにするんや」

「芸術棟で短期実技講習があるんだよね」

「な、そんなん…、椰代が芸術棟で何すんねん」

「蝋人形作り、講義の規模よりも希望者が少ないって里村教授が言うんだよ。先日の仲さんの件とチャラにするってことで受けると返事してしまったんだ。関ヶ咲も取る?単位はちゃんと出るみたいだよ」

 俺を見ずに、ぱら、とまためくる。

「でらんわ。お前,何考えとんねん」

「どうせゴールデンウィークが開けないとデザイン論は開かれないし、しばらくは来ないよ」

 ぱら、ぱら。

 小説を読み進めながら、椰代は話し半分に返答している。いや、俺への関心は半分どころではないのかもしれないと、平坦な声からそう感じる。

「その事件は関ヶ咲が考えて記事にしてみたら?気にしなくても、ブログの記事なんてたまにハズレがあるものだ」

(こいつ)

 俺はいい加減、限界だった。

 なんでここまで言われなくちゃいけないのか、納得できなかった。

 感情を押し殺したように低い声が出る。 

「……お前がこの探偵サークルを作ろうと思うのは、三雲さんに乗せられたから、ってことやったな」

 椰代はやっと本から目を離して、俺を見た。

「そう言ったつもりだったけど、何?」

「お前が乗せられるなんて、三雲って人はよっぽど口がうまいんやな」

「何が言いたいわけ?言いたいことがあるなら早く言えよ」

 椰代は挑発するように言う。

 勘違いじゃない。

 椰代は俺の感情を逆撫でする言葉を意図して吐いている。

「その三雲さんって人は本当にいるんか」

「そんなところから疑っていたわけか?小田くんの話を聞いただろ」

「ああ、いるみたいやな!言い方を間違えた。その人が探偵サークルの案をお前に持ち込んだ、でもお前が純粋に探偵サークルなんてのを作りたいかどうかは、俺には疑問や」

「純粋な気持ちで作りたくないなら俺はなんのためにそんなことするんだ」

「自分のためやろうな」

 こいつほどボランティア精神という言葉が似合わない人間もいないと俺は思っている。

 椰代がサークルを作る理由もそのサークルに俺を呼んだ理由も、全て理解できる理由はある。目的のために合理的で、周囲に与える影響を考えていない性格の悪い理由。俺は考えていたことを口にした。

「お前には忙しい理由ができる。サークル発足のために忙しい、メンバー集めのために忙しい。問題のあるサークルってのも大きいかもな。問題児は河原教授は嫌がるから、教授を撒くことができる。とかな」

 椰代がここにいることが、俺のそばにいることが河原教授の期待を裏切ることになる。

「何を言うかと思えば。ここまで来ると疑り深いと言うよりも人間不信だな」

 薄く笑うと、パタンと音を立て本を閉じた。 

「俺が信じてないのはお前だけや」

「それは、名誉な話だね」

 ニヒルな笑みを浮かべて、椰代はそう言った。見ようによっては怒っているようにも見えた。俺は椰代の怒っている場面を見たことがないから、これがそうだと断定することは難しかった。

「確かに、俺は河原教授にうんざりしてる、いい歳した大人が権威にしがみつく姿は苦手なんだ。いい加減、興味をなくしてほしいんだよな。少し経てば就活がはじまるから、って、執筆をして文学賞に応募しろってうるさいんだ。締め切りが1週間後の賞にだよ?」

「断ったんやろ」

「当たり前だろ」

 椰代は語気を強めた。

 文庫本を机に置いた、意思の強い瞳と目が合う。

「そろそろ鈍い関ヶ咲にも伝わってるだろうが、関ヶ咲のことだから気づかないフリをしているのかも知らないが、俺も関ヶ咲には思うところがあるんだよ。俺が河原教授に頼りにされているのはな、関ヶ咲が教授の期待に応えられなかったからだよ」

「……」

「そのツケがこっちに回って来ているわけだ、嫌にもなるさ」

「…お前は、自分のせいやとは微塵も思わんのか」

 俺は思考を挟まず、脊髄反射的にそう口にしていた。

 刺されたから刺し返す。正当防衛であるかのように,椰代の言葉を受け流して、反論した。

「里村教授が言ってたぞ、お前は、お前がやることの影響を考えるべきやってな。お前がブログを始めようって言ったんやないか。他人事みたいに扱われても困んねん。仲さんのことだってな、香川さんが依頼主だってあの人らに言えばいいだけやないか。依頼が終わったから、その後のことはどうでも良いだけなんやろ。お前は扱いが雑や、人も、ものも」

 息を吸った、唾を飲み込んでも口が渇いている。

 明らかに言い過ぎだ。自分のことを棚に上げて、自分にそれを言う資格がないことを知っているのに、色々なことが駆け巡って、頭に血を上らせる。

 俺は性懲りも無く口を開く。

「…大学で、あんま話しかけんでくれ」

「分かったよ」

 冷たい声に俺は、はっとした。

 椰代の顔からは笑みと表現できるものは消えていた。小田くんとの違う無の表情に気づき、俺は急速に喉が張り付いたように感じた。

 俺は何も言えず、唾を飲み込んで椰代の言葉を待つしかできなかった。

「念押しするまでもなかったな」

「…何がや」

 椰代の言葉の裏には隠しようもない怒りがあった。

「俺に話しかけられるのは迷惑なんだろ?今回の記事の協力は控えさせてもらうよ」




 3 4月27日

 


 

 今年のゴールデンウィークは土日、月曜の昭和の日に、3日平日を挟んで、振替休日まで4日休日が続く。途中に挟まる空気の読めない平日を休みにすれば最大で10連休となるゴールデンウィークを、大学は4/27から5/6を休講とした。

 生徒も教師も誰もが歓喜したであろう英断は、休みの日におでかけの予定を立てられる奴らにとってはまさに黄金の期間なのだろうが、俺はほぼ死んでいた。姉からは(東京にいる)「留年したんだからお母さん達には頻繁に顔見せといたほうがいいんじゃないしら」との刺刺しいメッセージが送られてきたが、親からは何も言われていないので既読無視している。では無駄に長い休みをどう有効活用するかという話になってくるが、俺に予定なんてあるわけから、俺は一人暮らしの家で1人悶々と過ごた。

 ベットに寝転んで興味のないニュースを流し見して、下世話な掲示板の書き込みを追って、ブログを見返してコメントを承認制にしてみたり、夜になれば言いようのない焦燥感に苛まれ「つか、俺の方がいつも無茶苦茶言われてんだろ!」と口から飛び出た叫び声は虚しく天井に吸収された。

 

 


 4 4月29日




 やることがなくても、生産的な何かをしていなくても、この世界には暇つぶしが溢れていて、それらに身を任せていれば1日は終わる。大したことはしていないのに月曜日はやって来た。

 何もせずとも時間が経つという事実が、春休みのようで俺には予想以上にきつく、月曜日も祝日であるが俺は大学に向かっていた。

 2人がいるかどうかは確認していない。椰代はいなくても実験をしたいと言っていた小田くんはいるんじゃないかと思ったし、いなくてもいいと思った。

 小田くんがいなかったら適当に昼飯でも外で食べようという気分で俺は大学に着いた。バスで下まで降りないと飯屋はないが家にいるよりは気がまぎれる。腹がちょうど牛飯の味を求め始めた昼頃に、俺は探偵サークルの扉をノックをせずに開けた。

 ドアは開いていて、室内に電気はついていた。

 左から部屋を見回し、右の視界の端に、まっさらな白い顔の人間が立っていた。

「うわ!?!」

 心臓が跳ねた。化け物がいる、と思った。

 しかし、それは当たり前に異形の存在なんかじゃなかった。

「うるさいよ、関ヶ咲。人が来たらどうするんだ」

 椰代が人形のすぐ横に立っておりこちらを振り返る。俺は多少、ぎくりとした。目が合うとすぐに布団をかぶっていない身軽な椰代は歩き出し、俺を横切った。

「なん、なんやこれ」

「ジェーンドゥだよ」と言う椰代に怒り、のようなものは感じない。普通だ。

 そのまま遠くから人形を観察するように後方で立ち止まった。

「等身大の人形だ、結構、出来がいいね」

「……ジェーンドゥって、なんやっけ、それ」

 俺も人形を見る。ちゃんと手足、首、胴に間接がある。背丈は俺より少し小さいくらいのフォルムで、胸がある女性体。素材は布で中にギチギチにワタでも詰められているのか体の厚みがしっかりある。

 小田くんが人形の顔の横からひょこり、と出てきた。小田くんが人形の脇の部分を両手で抱えていたから、人形が立っているように見えたらしい。

「ジェーンドゥとは、英語で名無しという意味合いで身元不明死体などにつけられます。事件の実験のための人形なので俺がそう名付けました」

「…いいネーミングセンスやな」

 聞いたことがあると思えば、ジェーンドゥの解剖か。

「これからこれの耐久性の実験も兼ねて外で検証しようと思うんです」

「検証って、具体的に何するんや」

「自殺事件と同様に、3階から落としてみるんです」

「へ、へぇ…」

「お二人もどうですか?」

 小田くんは片腕を持ち人形を背負う。俺と椰代を見て、どちらかといえば問いかけの比重は椰代に傾いている気がしたが、椰代は「2人で行って来なよ」と言った。

「悪いけど、俺は別に用事かあるんだ。関ヶ咲なら小田くんの実験の役に立つと思うよ。小田くんの言うことを聞いてくれる素直ないい奴だから、遠慮せず、遠慮なく使ってやってくれ」

 そう言い、表面上はにこやかにサークル室を出て行った。

(…やっぱ、怒っとるな、あれ)

「別の用事ってなんでしょう?」

 小田くんは首を傾げる。人形の凹凸のないまっさらな顔が肩にあると変に滑稽だ。腹に沸々と湧き上がる怒りが少しだけ紛れ、俺は「さぁ」とそっけなく言った。

「なんかの短期講習を取るんやと。やるんならはやく行こうや」

「あ、はい」

 小田くんは「よっと」と言い、人形を背負い直した。

 

 

 

 

「ゴールデンウィークって言ってもそれなりに人はいるんですね、短期講習、俺は取りたいものがなかったので受けなかったんですが」

 廊下に出ると、行き交う数人の生徒にじろじろと見られた。

 それもそのはずだ。平気に世間話をする小田くんの肩には今にも柔道の背負い投げをされそうに人形がぶら下がっている。後ろから見ると、小田くんが真っ白な人形に覆い被さられているみたいだ。どの角度から見てもギョッとしそうだ。

「提案なんやけど、もっと目立たない移動方法を考えんか?」

「申し訳ないですが、俺の身長ではこう持たないと買ったばかりの人形の足が汚れてしまうかもしれません」

「…そうかぁ、買いたてやもんなぁ」

「いえ個人的な愛着があるというわけではなく、落とした時の汚れと判別できないというのは避けたいんです。体重が人間くらいあるんですよね、これ。オーダー通りではあるんですが持ち運びには苦労します。台車とか借りれたらいいんですけど、どこに行けば借りられるんでしょうか」

「…さぁな」

 俺は説得を諦めた。 

(薄々思ってたけど変やな、この子)

 俺は、小田くんに対して警戒は必要ないと分かってきた。

 彼は一定のラインを踏み超えてこない。常に無表情で機嫌を伺う必要も感じないからか関わっていても不快さがない、なんか、凪みたいなやつだ。

 普通の平均的な生徒と接するよりも変人と接していた方が劣等感を刺激されない分、俺には楽だったりする。俺はあまり人と関わらないが、芸術学部と同じように文学科にも空想に生きて現実から乖離する人間はいる。小田くんもその部類の人間なんだろうか。

(自殺は目的と手段が同一化している、か。変なこと考える奴もいるもんやな。死にたいから自殺するってだけやろ。小田くん風に言うなら、逃げる🟰目的、自殺🟰手段と考えることもできる、死が目的で手段である、ってのは、頭で考えた自殺っぽいな)

 この事件で良かったのかと、思わない気持ちもない。頼みの綱だった椰代がああで、事件になにか不審な噂があるわけでもない。記事が前回と比べガクンと質を落とすという失敗は目に見えていると言ってもいいが、ブログはすでに更新してしまった。

 小田くんがあんな冊子まで作ってくれたのに、今から断るのも気が引ける。

 俺は小田くんの背後から手を伸ばした。

「俺が持つわ」

 人形の胴を掴み、するりと小田くんの手から人形の腕を外す。想像よりも人形は硬かった。材質はゴムに近い,だろうか。それなりの重みを感じるそれを折りたたむように脇にもつ。

「このほうがまだ目立たんやろ」

 人形はぐてーと項垂れるようにも見えるが、ぱっと見、人型だとは思わないだろう。

 隣に並ぶと、小田くんは大きい目をパチクリして頭を下げた。

「すみません、ありがとうございます」

「いや、…手伝ってもらってるのは俺のほうなんや。てか、マジで重いな、どんな素材使ってるんやこれ」

「素材は分かりませんが、体重は37kg、小学6年生の平均体重ですね」

 そのセリフは変態っぽい。小学生の平均体重て、わざわざ調べたんだろうか。

 


 

 

 小田くんが持っていって欲しいと頼んだ場所は図書館だった。大学構内の離小島にある図書館は3階建てになっており、小田くんが言うには、檜山くん殺人事件の現場である家と同じくらいの高さだろうと言うことだった。

 我が大学敷地の片側面には貯水池がある。その横の絶好のロケーションを図書館は確保している。図書館の周りにはテラス席がいくつか設置され、借りた本をそこで読んだり、昼食をわざわざそこで食べたりと生徒からの評判は割といいようだ。

 C棟からすぐ近くの図書館に着くと、小田くんは正面ではなく横に回った。3階建ての建物を見上げゴールデンウィークに似つかわしくない物騒な言葉を口にする。

「死因は、後頭部を蛇口に打ち付けたことによる脳挫傷。檜山くんは地面にうつ伏せに倒れていたということですから…」

 小田くんは俺に人形の脚を持たせ、両脇を持って、上体を後ろに傾けて上から下に何度か動かす。

「こう、檜山くんは落ちたんでしょう。空中で家側に頭が来るように傾き、頭を打った反動で地面に倒れたのだと推測できます。実際の蛇口の位置は分からないですが 、まぁ、試したら分かるでしょう」

「マジで落とすんか」

「はい」

「今更やけど…これって、何かやる意味があるんか?」

「飛び降りなんてやったことがありませんから、発見時の体勢が不自然なのかどうか理解したいんです」

 一切迷いのない返事だ。

 何が彼をここまでさせるのだろう。

「…俺、下に居たほうがいいか?」

「あ、そうですね。周りから変に見られても困りますし、下でなにか、重大な実験中の感じを出してもらっててもいいですか?」

 なんやそれ、とは突っ込まなかった。もしかしたらツッコミどころだったのかもしれないが、俺はスルーした。

 無表情で変なことを言われても笑いどころかよく分からなかったし、小田くんの性格は理解できてきたと言ってもそもそも。俺は後輩という概念が苦手だ。

 俺は年下と仲良くなれたことはない。普通に接そうと努力をしても、言い返しがそっけないと、人伝に後輩から怖がられてると聞かされたことがある。あれは地味にショックだった。

(つか、実験中の感じってなんや)

 小田くんは上に上がって、3階の窓から顔を出す。

 俺は腕を組んでみた。

「先輩、ぽいですー。その調子でお願いしますー」

 顎に手を当ててみる。

「あ、関西の人はノリがいいってほんとなんですねーー」

「…」

 じわじわ恥ずかしくなって来た。小田くんはしゃがんだのか窓から隠れ、人形の重さに手こずっているのか1分ほど顔を出さなかった。俺はその間1人で図書館前に仁王立ちする謎の人間になり、広場を通り過ぎる数人の学生からの視線をびしびしと感じる。俺は自意識過剰なところがあるが、今の自分が変な人物であると言うのは他人からも共通認識だろう。やっぱ来なきゃ良かった。俺の口からは「早く落とせ…」と、か細く出た。

「行きますよー」

 呟きが伝わったかのように、窓から小田くんの平坦な声が降ってきた。

 見上げると人形の白い顔が窓枠から出てきて、俺はどきりとした。

 体を丸めて繊細に手を窓の淵についている様子が、まるで、生きているように見えたのだ。

 そして、上から影が落ちてきた。

 下にいる俺の真上に、落下してきた。

「あっ」

「あぶね!」

 俺は落ちてきた人形をすかさず回避した。

 避けてしまった。

 いや、行動としては正しかった。3階の高さからだとしても約40kgの物体が自由落下をして来たのだ。まともに当たればただじゃ済まない。しかし、完全に避けはせずとも俺の体のどこかにあたっていれば、運動エネルギーは分散された分まだましな結果になったのかもしれない。

 人形は想定していたように壁に頭をつけなかった。長座位の体勢で地面に叩きつけられると、そのエネルギー分上に跳ね上がった。

 その光景の悲現実感は、人間を模した人形が空を飛んでいるようで幻想的でさえあった。見たことはないが、飛魚というのはこんな風に生き生きとして見えるのだろうか。1秒1秒がスローモーションのように目に焼き付きーーーー

 

 バシャン!!

 

 水泳の飛び込みのごとく、綺麗に池に着水した。

「や、やった」

 飛沫が上がる、人形の白い体が表面に浮き上がる。

 完全にこれは、やってしまった。血の気が引いていく。

「おおお落ち着け、冷静にやな、何か、棒取ってこんと」

 柵に駆け寄った俺があわあわしているうちに小田くんは降りて戻ってきた。

「すみません、まさかこんなに反発するとは、取れますかね」

「いや、俺も受け止められんかったし。こんなに跳ね返るとは思わんくて、、と、とりあえず小田くんも棒かなんか、持ってきてくれ」

 俺はその辺の木々の近くで棒を拾って、人形の浮き出た表面を抑える。幸い、人形は柵に体をつけ手を伸ばせば棒が届くくらいの位置にある。

 大学横の貯水池はそれなりの横幅をしており、流れて仕舞えば回収ができなくなる。ここで手を離してしまい、うまく向こう岸に人形がたどり着くなんて想像はできない。最悪、個人では回収不可能になったそれを不法投棄として大学に呼び出しを喰らう可能性もある。

 着水時の水音が注目を浴びてしまっている、背中に感じる生徒の視線から目撃者もバッチリだ。

「関ヶ咲先輩は知らなくて当たり前でしょう。俺が買ったものなのに、この結果を想定できなかったことに原因はあります。あらかじめ、材質を聞いておくべきでしたね」

 小田くんも冷静に木の枝を取ってきて、2人で人形を突つき、こちら側に寄せていく。ギリギリだがなんとかなりそうだ。完全に人形をこちらに寄せ切れば手は届きそうである。

 必死に棒で水をかきまぜたり、逃げないように手繰り寄せていると、「なにやってんの、あれ」という白けた声が聞こえてくる。

 …なにやってんだろうなぁ、これ。

 俺は段々と、自虐的な気分になってきた。休みの日に何をやってんだろうか、他の大学生はバーベキューやら遊園地やらで遊んでいるだろうに。

 去年までは大学に入ってから遊んでばかりの連中を焦りとかないのか、と蔑んでいたが、今になれば将来の不安を忘れるためにはっちゃけているのではないかと考えるようになった。

 いつかきっと何かになる、そんな風に思い込めなきゃ保証のない何かを頑張り続けることなんかできない。他の奴らがどうなのか知らないが、少なくとも俺はずっとそう考えて小説を書いてきた。ブログだって、俺はそうやってやっていくつもりだった。

(あいつにとっては暇つぶし、なんやろうが)

 人形が手に届くくらいの近さになったところで、小田くんに人形が遠ざからないように押さえてもらい、柵に腹をつけて手を伸ばす。

「おっ、も、っ」

 なんとか掴み、持ち上げると引っ張られるほど、かなり重い。水分を吸ってより重くなっている。

 やってらんねぇ、と放り出したい気分を押し込んで、両手で引き上げようと手を伸ばした。

「何をやっている!」

 突然の大声に俺は驚いて、掴んでいた人形の手を離してしまった。小田くんが服を掴んでくれたおかげで俺が贔屓目にも綺麗とは呼べない水の中に落ちるという難は逃れた。かなり、危なかった。

 ばしゃん、とまた人形が落ちて、小田くんが素早く棒で遠ざかろうとするそれを押さえる。

「大丈夫ですか?」

「あ、ああ。悪い…」

 俺は声がした方を振り返った。声の主の想像はついていた。

 肩を切らして向かってきているのは、最悪なことに、文学科の河原教授だった。

(…嘘やろ、よりによって)

 悪い想像はできてもいい想像はできた試しがない。俺の想像力の無さからくるものかもしれないがこうやって、現実というのは大抵が悪い方に重なって、想像よりもより最悪な場面を呼んでくる。

 急激なストレスにさらされる。俺の去年のゼミの担当教授は眉間に寄せた皺を、俺を見ると若干下げた。

「いったいここで何を、…関ヶ咲か…?」

 茶髪でも俺だって分かるもんなんだな,この人。

 俺の顔なんか見ていないと思ってた。

「大学に来ないと思えば、俺に一言もなしに、ここで何をやっている」

「…別に、なんだっていいでしょ」

 吐き出すようにそう言うと、河原教授は心底不愉快という風に顔を歪める。

「なんだその態度は。どれだけの人間に迷惑をかけたと思っている。お前には責任感というものが」

「ありませんよ、そんなの。俺にはもう書けませんから、書きたくもありませんし」

 俺は被せるように返答した。

 俺の態度が怒りを煽ることを承知で、顔を背けたまま口にする。

「姉が小説家だからって俺に才能があるわけじゃないってことです。…期待を裏切ったのなら、悪かったとは思ってますよ」

「悪かったと思っているなら謝罪が先だろう。お前のせいで他に推薦する人間を見つけるのも苦労しているんだぞ」

 河原教授がダメになった俺の代わりに椰代に打診をしたのは知っている。

 俺はヒートアップしていく河原教授の言葉を他人事のように聞いている。

 不思議と、苛立ちはなかった。

 どころか俺は河原教授の怒気を孕んだ言葉に、発散できずに溜まっていた感情が消化されていく、安堵に似た気持ちすら抱き始めていた。

(…言ってくれた方が楽や)

 責められている方が健全だと思うくらい、俺は自分が最低であると言う自覚がある。この大学にいる誰よりも最低の人間だと。

 俺の現実の対処が幼稚であると怒っている、河原教授の怒りは正しい。

 数冊の本を出し、文学の界隈においてそれなりの地位にある河原教授の息がかかった文学賞の応募に、俺は数ヶ月にわたる不登校という形で脱落した。

 大学に行けなくなったのは、”関ヶ咲はダメになった”というレッテルが貼られることを何よりも恐れたからだ。河原教授にも同学年の奴らにも、俺を知っている人間に会いたくなかった。

 俺は自分ができる人間だと思っていた。人よりも優れて、それが当たり前にできる人間だと思い込んでいた。

 勝手に1人で背負い込んで、期待に押しつぶされて、スランプで書けなくなって、そんな状態の自分が到底認められなくて俺は現実から目を背けた。

「スランプだかなんだか知らないがな、お前でなくても小説を書ける人間はいくらでもいるんだ。俺はお前にチャンスをやった、そのチャンスをものにできないのなら、他の才能のある人間にそのチャンスを譲ろうとするべきだろう。それをお前は、締め切りが近くなるまで俺に相談もせず、途中で放りだした。そして大学に顔を出したかと思えば、やることは迷惑行為か。どれだけがっかりさせれば気が済む」

「………」

 俺は逃げている、逃げ続けるつもりだった。

 自分自身の弱さとか、才能のなさから逃げるつもりだった。

 見えないふりをして誤魔化して生きていくつもりだった。

 そうしないと、俺はーーー。

「ご存知ないんですか?」

 ピリついた空気に、急に平坦な涼しい声が間に入った。

 俺は顔を上げた。小田くんは相変わらずの無表情で、人形を棒で押さえながら、振り返る体勢で河原教授を見ている。教授はまだ文句を言い足りなさそうに、顔を顰めて小田くんに目を移す。

(小田くん?)

「なにがだ」

「これは迷惑行為ではなくて、サークルの活動です」

 小田くんは、そう断言した。

「…」

「これは迷惑行為ではなく、サークルの活動の一環としての実験ということです。自殺の実験に図書館から人形を落としてみたら池に落ちてしまいまして、故意ではなく事故ですから」

「なんだって?なんだ、そのサークルは」

「サークルというのは探偵サークルのことで、俺と関ヶ咲さんと、椰代さんも入ってますよ。最近できたらしいのでまだ4人しかメンバーがいないそうですが」

 河原教授は椰代の名を聞き、目を見開いた。

「探偵サークルは、まだサークルの許可が出ていないと聞いたが」

「?もう設立されていると思いますが」 

「そうなのか」と、小田くんの説明の途中で視線を俺に移す。

「え、と」

 俺は目が泳いだ。

(……いや、できてない、まだ!)

 探偵サークルは申請すらされていないはずだ。名前すら(仮)状態で、正式には俺たちはサークルではなくただの集まりということになる。

 小田くんがまさかここで探偵サークルをぶっ込んでくるとは思わなかったため、俺は反応が遅れた。

 コミュニケーション不足の弊害がこんなところで出てきた。

 小田くんは探偵サークルがすでに設立していると思っていたのか。嘘やろ。学校の一室の無断使用しとる正式サークルだと思ってたんか。椰代、説明してなかったんか。

 いや、探偵サークルは設立してませんよ。ただの集まりがここで傍迷惑な実験していたんです。と正直に言えばどうなるのか、間違いなく、河原教授の不興は買う。別にこいつ相手なら買ったって良かったが、訂正をするとなると小田くんが場を誤魔化すための嘘をついたと言うことになる、のだろうか??

「ええと、ですね…」

「探偵サークル、というのは無断で掲示板にポスターを貼っていた、と問題になっていた、あのサークルのことであっているな」

 追撃を受け、事実であることには否定もできず、俺はうなづく。

「はい、そう、ですね」

「…それは、何をするサークルなんだ」

「…」

 答えるのが難しい、俺ははっきり言って頭の回転が速いほうじゃない。教授は痺れを切らして小田くんを見た。小田くんは手元を見て、人形が棒から離れていないことを確認すると、平静に答えた。

「未解決事件の考察をしたり,推理をしたりするらしいですよ」

「なに、それは何になるんだ」

「え??小説とかではないので…なにかの賞とかは取れないんじゃないでしょうか。好奇心を満たすだけというか。関ヶ咲さんのブログで発表はするみたいですから、承認要求とかは満たされそうですよね。どうですか?」

 あけすけな言い回しをして、小田くんは俺を見た。

 俺は、困った。

「…はい、…承認欲求、まぁ。はい」

 河原教授の顔は、呆然としてるようにも、怒りを溜めているようにも見える筆舌に尽くしがたい表情に変化した。大の大人の失望に染まった目を真っ向から受けると来るものがある。

「付き合いきれん」と言い、河原教授は去って行った。

 鞄を持っていたから、図書館横を通り過ぎた先にある駐車場に向かっていたところだったんだろう。

 心なしか、背中が小さく見えた。

 小田くんは空いた片手でちょいちょいと、手招きをした。

「関ヶ咲さん、今のうちにとりましょう。流されてしまいます」

「…あ、うん」




 後輩の前で教授に説教をされた俺とそれを見ていた小田くんは気まずい気分で(無表情を見るに、おそらく気まずいのは俺だけだ)人形を引き上げ、貯水池沿いのフェンスに干した。

 普段使わない関節やら筋肉が悲鳴を上げている。マグロ漁ってこんな感じなんだろうか。俺はどっと疲れてフェンスを背にしゃがんだ。昼をとうにすぎ、昼食を食べていない体はエネルギーの枯渇を訴えている。

「さっき、図書館のカード切る人がジロジロ見てきてましたね」

 小田くんもしゃがんで、濡れた人形を触って、疲れを感じない声で言う。

「もう図書館を使うのはやめた方がよさそうです。ちょうどいい高さが近場にあればいいんですが」

「えっまだやるんか」

「さっきのは失敗ですから。次は跳ね返りを考慮して場所を選びましょう」

 やる気あるなぁ。

 ここまで来ると俺は感心した。卒業して会社に入れば有望な人材になりそうだ。

 何もすることなく手持ち無沙汰な俺は聞いた。

「小田くん、探偵サークルに入ってるって人に言うの、恥ずかしくないんか?」

「恥ずかしいんですか?」

「俺はな」

「俺は、シンプルで分かりやすいと思いますよ。変にこだわった名前の方が口にするのに抵抗がある気がします」

「まぁ、…そうか?」

「サークルの実験のためだと言った方が、あの場では通りましたよ。随分、怒ってるみたいでしたからね。誤解が解けたようでよかったです」

(新たに生まれただろ)

 何か言葉を続けようと思ったが、エネルギー不足の脳では特に思い浮かばずにやめる。

(あんなふうに言ってくれたから、本当は設立してないんやけどな、とか言いづらいわ)

 池の苔がへばりついて、元の純白から薄い緑色となった人形を前にする小田くんの横顔を見ていると、謎の哀愁が湧いてきた。

 サークルはまだ設立もしておらず、三雲さんもいないし、わざわざ買った人形がこうなって、結構、小田くんってかわいそうなのではないか。なんて思った。

「あー、…あのな」

「はい?」

 同じ高さになった顔がこちらを向く。

 俺は頭をかいた。

「小田くんがやる気出して色々やってくれるのは、まじでありがたいんやけど、無理せんでいいからな。こんな人形まで買って、なんか、無理やりやらせてるみたいで」

「そんなことはありませんよ。俺も個人的な興味があるからしていることです」

「そうなら、いいけどな」

「以前、三雲さんに聞かれたんですよ。この事件のこと」

 俺は一瞬だけ考えた。

「三雲さんが、檜山くん自殺事件を?」

「はい」

 すとん、と腑に落ちた感覚がする。

「そうなんや、だから」

 小田くんが自分の関わることなった何事も真剣に取り組むタイプの真面目人間かと考えていたが、違ったようだ。

 小田くんは最初から一貫して三雲さんを追いかけていた。

「三雲さんになんて聞かれたんや?」

「大学の案内をしている時にこの事件を知っているか、と言われました。なぜかは教えてくれませんでしたが、椰代さんはこの事件を調べているみたいで」

 小田くんは膝を丸めて、先端の手のひらで絞るように人形を水切りしている。

「未解決事件専門ということなのに解決済みの事件を持ち出したのは三雲さんに興味を持ってもらえるかもという下心も多少あったんです。ですから、かなり自分本位な行動ですから、先輩が気にすることではありませんよ。この事件を調査して三雲さんが来てくれる期待は実際、あんまりできませんが」

「…そうやな」

 俺が探偵サークルに出入りするようになってから1か月は経つ。その間三雲さんと言う人は一度も見たことがない。

 このまま来ないのではないかと考えるのは小田くんとて同じだったのだ。

 ますます、かわいそうになってくる。

「ほんま、勝手な話やな」

 ボソリと呟くと小田くんに俺の声は聞こえたようで「なにがですか?」と返ってくる。

「勝手にあっちから「やろう」って声かけてきて、期待はずれやったらポイや。そんな扱いされれば、誰だって嫌にもなるやろ」

「先輩は、三雲さんにあったことがあるんですか?」

「…いや、ないけどな。小田くん、三雲さんが椰代に似てるって言いよったやろ」

「言いましたね」

「俺にもそう言う経験があるから思い出して、ムカムカしただけや。たしかに、三雲さんのことをよう知らんのにあーだこーだ言うのは筋違いやけどな、、あー、腹立たんのか?小田くんは」

「腹立つというと、どういうところにですか?」

「自分が人より出来がいいからって、なにしてもいいって勘違いしてるんやないか?罪と罰のラスコーリニコフやないんや、んなことあるか」

「本人がどう思ってるかなんて俺には分かりませんが」

「そりゃ、そうやけど、だからそういう扱いをされて嫌じゃないんかって話で」

 いまいち噛み合わない会話の中、小田くんは「はぁ」と言い、口元に指を当てた。

「嫌ではないですね。三雲さんなら…、俺も、あんまり人に対してこんなに興味を持つことはなかったので不思議ではあります」

 小田くんは数秒黙って、口元に当てていた手で人形をにぎった。

 ぎゅう、と雑巾みたいに腕を絞り、出てきた水が地面のアスファルトを濡らしいていく。腹部分で折り畳まれたため柵の裏側にある足にも手を伸ばす。絞れそうな手足を順に絞っていく。中の素材が硬く、水の吸水はそこまでしていない。

「そうですね、ただ近くで見ていたいだけなんじゃないですかね。光に羽虫が寄ってくるみたいに、三雲さんにはなんだかそう言う、オーラがあるんです」

「……」

 どんな例えやねん、と思いながら、俺の頭には椰代が浮かんでいた。

 たしかに、三雲さんという人と椰代は似ているのかもしれない。

 あいつの周りには必ずと言っていいほど人がいて、しかし特定の誰かと特別親しくはない。一度知り合えば全員が知り合い以上に椰代を位置付けるが、決して友達以上にはならない。

 人を惹きつけて、人を突き放す。そう言う残酷なところが椰代にもある。

「そんなふうに思えるのは、めづらしいと思うけどな。普通は避けるもんやろ。劣等感を刺激されて嫌でも自分の小ささを実感する、っていうか……」

 待ちの視線を頬に感じ、俺は雑に切り上げた。

「とにかく俺は許せんのや。羽虫なら、羽虫なりに、思うところがあってもいいやろ」

 後半の声は小さくなり小田くんには聞こえなかったんだろう。

「そうですか」と小田くんは短く言い、人形に向き直る。

 また、水音がする。絞られる人形はその度に揺れる。

 光に集まる羽虫。

 俺はその比喩が自分に向けられたものだと思った。

 別に小田くんが遠回しに示唆していると感じたわけじゃない。俺にはそう思う心当たりがあるだけだ。

 自身が椰代と言う才能に群がった羽虫である自覚がありながら、そんな自分を見ないフリをして、俺は生きていた。

 俺は気づいていた。椰代の態度の理由も、椰代が何に対して煩わしさを感じているのかも。いや、鈍かったのかもしれない。椰代に当たり前に、他の人間と同じく物事の許容量があるということに俺は気づかなかった。

 ため息すら出ない。

 どうしようもない、ほんと。

 なんで俺はこうも、何にもできない人間に成り果ててしまったんだ。

「もしかしてですけど。関ヶ咲さんは俺のために怒ってくれてるんですか?大丈夫ですよ?昔から人の言動を気にしないタチなのでたいして傷付いてはいません」

「…」

 ずっこけたくなった。

「なんでもいいわ、もう…」

 しゃがんだ体勢も段々とキツくなり、立ち上がって、フェンスに背を預ける。

「人形が乾いたら明日またやろうや。当分乾きそうにないやろ、それ」

 ともあれ椰代が協力してくれないのなら、自力で檜山くん自殺事件を考察して、世間に出せる形でまとめないといけなくなった。ゴールデンウィーク期間はその作業に取り掛かる時間になる。幸いなことに、小田くんは協力に乗り気で1人ではない。

「そうですね、今日はこれ、どうしましょうか。ここにずっと干しておくわけにはいかないですよね」

「サークルまで運ぼうや、小田くんは頭の方持ってくれるか?」 

 俺が探偵サークルに足を運ぶ理由はなくならない。

 少なくとも当分は辞めるつもりはない。

 引っかかってることもある。

 小田くんが”探偵サークルは設立している”と河原教授に言ったことだ。

 一年生である小田くんは2年担当教授である河原教授とは関係は深くならないだろうが、講義で会うことはあるだろう。教授の厄介さはあの椰代ですら手を焼くほどだ。このまま探偵サークルを空中でふわふわさせたままだとまずい気がする。

 嘘を取り消す方法がある。

 嘘を本当にすればいい。

 探偵サークルの設立も三雲さんも、俺にはどうだってよかったが後輩の名誉回復のためなら頑張ってやるべきだと思えた。

 同学年でもまがいなりにも、腐っても先輩としては。

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探偵の暇つぶし 2 6500mのリバティ @derara12124

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