仲 透 1 邂逅

 1 4月22日




「仲、ちょっと手伝ってくないか」

 仲透の経験上、里村教授にそう言われて、ちょっとだったことは少ない。



 幹から剥がされた桜は無残にアスファルトにこびりつき、新入生を迎えた頃のかつての輝きを失って萎びている。

 大学の車道沿いに一列に並び植えられた桜。それに隣接する形で、芸術学部棟の横に立つ倉庫のあたりは桜の死骸はとくに多い。

 清掃員の清掃ポイントからも見放され茶色くなった花びらを躊躇いなく踏み、仲は倉庫の外に出て鍵を閉めた。

 3階建ての倉庫は大学の設立年から考えれば新しい。大学設立時にはまだなかった芸術学部の、明らかに突貫工事で設置された倉庫は卒業生の制作物の保存場所になっている。

 大学で制作される作品の大抵は生徒自身が家に持って帰るようになっているが、ここに保存してあるものは何かの賞を受賞したり、教師から残すように言われた珠玉の物たちだ。

 絵画は日の光に当たると色が落ちてしまうということで、土を切り崩したような高さの差がある道路沿いに倉庫は作られた。表には芸術学部のD棟が聳え立ち、裏には高い土壁が作る濃い影が創作物に快適な保存環境を作り出している。

 仲は自身の所属している芸術学部の担当教授である里村教授に倉庫を見るように頼まれていた。

 3月に去年の四年生が卒業し新たに作品を追加するというタイミングで倉庫内の整理が悪いことに気づいたということだった。中の作品の種類を把握してきてくれ、と簡素な言葉と共にぽん、と鍵を渡されたのが30分ほど前の話になる。

 ある程度のものの個数の把握をしたメモをポケットに入れて、仲は研究室のあるD棟に戻った。

「あれ?なにしてるの、仲くん」

 里村教授の研究室の前で、同じ学部の香川に声をかけられた。

 サラリと肩ほどに流れるクリーム色のセミロングは綺麗に流され、目尻に綺麗に彩られたアイラインが目を引く、分かりやすくカースト上位の美人だ。肩にキャンバスが入った大きめの袋をかけている。

「なんか汚れてるね」

 そう、芸術家気質の観察眼に見破られた。

 仲は「教授に倉庫見てくるように頼まれて」と言うと、可憐な目はくりりと大きくなる。

「えっ、さっきまで倉庫にいたの?」

「うん」

「うそ」

 大きくなった目をまた広げて、信じられないという顔になる。

「また教授に頼まれたんだ?えー、断ればいいのに!」

「特にやることもなかったし、断る理由もなかったから」

「ええー、仲くんさ、使われてるって、それ」

 香川はわずかに硬直した顔を弛緩させ、しょうがないなぁという風にため息をつく。

「結婚指輪を無くしてから気が立ってるよね。最近また唐辛子とか食べまくってるし、体に悪いからやめなって言ってるのになぁ。仲くんが仕事押し付けられたのも憂さ晴らしじゃない?」

「…」

「あれ?機嫌、悪そうじゃなかった?」

「…そう、かも」

「でしょ?里村教授、タバコ休憩に行くって言って出てったからまだ帰って来ないと思うよ?仲くんに仕事頼んでおいて、自分は休憩してるんだからひどいよねぇ。私だって用事があったのにさっさと行っちゃうんだもんー」

 香川は仲が喋らない分の空白を埋めるようによく喋る。自信のない合わせた言葉に同意される居心地の悪さを感じつつ、仲は短く返した。

「それなら、待とうかな」

 香川は短く笑った。

「そう。仲くんは人がいいね。アトリエ行くなら一緒に行こうよ」

 研究室から歩いて5mもない距離を一緒に行くも何もないと思ったが、断る理由もなかった仲は緩くうなづいた。

 2限終わり、昼休み。誰もいないアトリエの自分のスペースに香川は一直線に向かい肩にかけていた袋を床に置いた。

 仲は待機場所としてアトリエに来ただけで絵画実技のない日に絵を描く気は起きず、入り口の付近の、自身の絵画スペースの椅子に座って、手慰みに絵の具のチューブを触った。香川が袋から取り出した絵を、角度的に、仲は正面から見ることができた。

「昨日の雷、大きかったよねー夜中まで鳴ってなかった?」

 仲は香川の向こうの窓を見た。

 芸術学部のアトリエは自然光が入るようにA、B棟よりも窓が大きく設計されている。

 曇り一つない晴天だが、風に揺れる桜の木(2階から見えるのはちょうど花の部分になる)に花びらがほとんど残っていないのは雷雨のせいだ。昨日の記憶はおそらく大多数よりも仲にとって鮮明だった。

「3時くらいまで鳴ってたね」

 覇気のない声に、香川はしっかりと返答をする。

「そんな時間まで起きてたの?音すごかったから寝れてないとか?」

「あんまり、かな。寝付けなくて」

「うわぁ、それはきついね」

 香川はイーゼルの高さを調節すると背を逸らして全体を見ている。

 絵には靴と瓶が描かれている。構図を支えるように、端には銃弾のような丸いものが置かれた画。

 家にあるものを書いたのだろうか、それとも想像画?

 華やかな香川らしい明るい色で画面全体が塗られている。多くの色を使用しているのに物がごちゃついて見えないのは構図力によって見る人の視線を誘導しているからだ。

「…綺麗だね」

「んー、なんか、うまく描けないんだよ」

「… うまいと思うけど」

「なんか、こう、なんか違うくて」

「なんか?」

「そう、なんていうのかな、うーん…」

 ブツブツと呟きながら首を傾げる香川は学科の中でも1、2を争うくらいに絵がうまい。それはこうやって現状に満足せずより高みを目指すからなんだろうと、仲は一年の付き合いの中で結論づけていた。

 絵画実技のある日でなくてもこうして絵を描きにくる香川の勤勉さは、同学年の中でも際立っている。

 そもそも有名な大学ではない美術科にそこまで熱意のある生徒はいないと言う話にもなるが、香川には芸術家気質の一部の人間にいる、ある種の痛々しい必死さのようなものがない。上を目指しているのに人当たりがいい点に関しても他の生徒とはどこか違う。

 香川は相手からの評価を気にしていない、自分の中での絶対軸を持っているのではないか、と仲は考え始めている。だからこそ、普段は人の創作物に対して何かを言うなんて恐れ多いものとしていた仲が、香川に感想を漏らしてしまった。想定通り、香川は横から投げかけられた評価にかけらも揺るがなかった。

「自由なテーマが一番難しいんだよね、”好きな物”、なんて言われてもさ」

「それが、…好きなものなんだ」

「ううん。まだ分かんない。一応、描いてみてるだけ。案ずるより産むが易しってね。仲くんはもう固まってるの?」

「僕も…、まだ固まってないよ」

 仲の目の前の、イーゼルにかけられたままのキャンバスには木炭で桜が描かれている。

 好きなもの、という課題に対してたいした考えもなく綺麗だからと言う理由で窓から見える桜を描いた。しかし、先日の豪雨で花びらが完全に散ってしまいモチーフが消えたため、完全に行き詰まった形だ。

 中間講評時点では完成度は見られないために下書きの状態で提出したが、他の生徒は色が入っているものばかりだった。こんな調子で間に合うんだろうか。一課題につき2ヶ月は猶予があるために焦らなくてもいいと里村教授には言われたものの、どうにかしなければという焦りはある。

「何か別のものを探さないと、だ」

 仲は視線を戻した。

 そして、ぎくりとした。

 クリーム色の後頭部を抱えるように、1匹のネズミが頬擦りする光景を捉えた。

「えっ」

 仲は立ち上がった。意識せず声を出していた。出した瞬間に、自身の失態を思い知る。

 背を向けていた香川が振り返るのを止めることはできない。

「え?」

「あ」

 反射的に「ごめん」と口から漏れ出る。

「そんな。謝らなくてもいいけど、どうしたの急に」

「えっ、と」

 いいごもる仲に、香川は合わせた膝を向き合わせた。

 背筋を伸ばす姿は目の前の対象に集中する高尚な画家のようで、仲は自身が静物モチーフであるような奇妙な感覚になった。俯き固まる仲に、香川はピンと人差し指を立てる。ネズミがチロチロとその指に移り、淡いピンク色のマニュキアが遠くからでも確認できた。爪の先まで抜かりない華やかさに、仲は目を細める。

「もしかして、いつもの幻覚?」

「……」

 あたりに人がいないことを確認して、誤魔化すべきか悩む時間は短い。正直に頷くと、香川はへー!と声を出した。

 その声に、仲はなんとも言えない気分になる。

「どこにいるの?」

「…香川さんの手」

 仲が指差した手をじーと見る香川は、好奇心を隠さない声で「分かんないなぁ」と呟いた。

「ほんと不思議だよね、幻覚ってさ。私は見たことないからどんな感じなのかわからないんだけど」

 香川は手をブンブンと振った。ネズミは短い手で離れないようにしがみつき、止まった頃に安住の地を求め素早く首に上がって、細い肩に移動した。その必死な、ある種の滑稽な様相も香川に伝わることはない。 

 仲はこんな風に突然現れる幻覚を目で追ってしまい、周りから不審に思われることが多い。高校時代にはそのせいクラスメイトに距離を置かれていた。

 いつだったか、香川にそのことをなぜなのか問われ、ぽろっと幻覚のことを告げてしまった。

「見てみたいなぁ。可愛いネズミさんなのかな?」

 香川は手でお椀を作る。しかし、ネズミは肩に立っていて、香川のほのかに丸い頬をすりすりと頬擦りしていた。

 指ならまだしも、ネズミを直視しづらくなって仲は俯く。

 恥ずかしいような、罪悪感じみた、変な感情だ。

「リアルだよ…見えたっていいことなんてない。変な目で見られる」

「んー、それはちょっと嫌かも知んないけどね?でもほら、アニメの魔法少女の使い魔って大抵周りの人には見えないじゃない?」

「あんなにファンシーじゃないよ。それに、ただ見えるだけじゃない」

「そうなの?」

「そうだよ、全然、いいものじゃな」

 仲が顔を上げたと同時に「香川、いる?」と中低音が割り込んできた。

 びくついた仲は振り返った。

 アトリエの入り口、すぐ近くに、同じく芸術学部の2年である女生徒、有坂が頭を出していた。

「あれ?有坂、絵描きにきたの?」

 有坂は特徴的な吊り目型の大きな目を細めた。「まさか。いてくれて良かった、いつも熱心ね」と半ば呆れたようなセリフを吐く声は比較的に低い。

 無地の服に黒いパンツというシンプルな服装から伺えるように性格はサバサバしていながら勝気でもある。

「教授がね、今日は講義が終わったらそのまま帰るんだって。香川に伝えてって言われたのよ。今日も例のサークルあるんでしょ?」

「教授、ここにはもう来ないって?」

「そうなんじゃない?わたしに言いつけたくらいだし」

「わざわざここまで伝えに来てくれたの?」

「さっきたまたま教授とすれ違ってさ、ラインでも良かったんだけど、どうせなら話せたらなっておもってね」

「うわありがとー、ご飯もう食べた?まだなら一緒に食べようよ」

「残念、もう食べた。それこそちょっと前にラインで言ってくれたら…」

 有坂は、話の途中で仲と不意に目が合うと表情を引き攣らせた。

「じゃあ、そういうことだから。よろしく」

「あっ、うん。ほんとにありがとね」

「いいって」

 香川は去る有坂を追った。仲はその場に立ち尽くした。完全に2人の姿が見えなくなって1分もしないうちに香川は戻ってきた。

「明後日は実技あるから、用ならその時に言った方がいいかもね。教授、気まぐれだからどこにいるかわかんないよ」

「……そう、みたいだね…っ」

 喉に張り付いた声を出す仲を香川は下から伺う。平均的な身長の香川がそれなりの長身を持つ仲の顔を覗き込むのは容易だ。一歩後退する仲に、こそりと小さな声で囁いた。

「さっきの話は聞かれてないみたい。大丈夫だよ」

「…」

「急だったからびっくりしたね」

 香川はそのまま仲の横を通り過ぎて椅子に戻る。

 仲は緊張が解けないまま立ち尽くした。

 先ほどから自身の声がかなり小さいことは理解していた、香川の後押しもあり幻覚がバレたとは仲も思わない。

 仲が気にしているのは有坂の反応だった。目が合った途端に顔色を変えた態度に、その理由に、幻覚のことがなくても心当たりがあった。

 先週の金曜日。4/19に油画の中間発表があった。

 翌日の土曜日に餃子サークルの飲み会にて里村教授の指輪が喪失したことを香川が聞き、盗難の事実が発覚した。仲が見張りがいないタイミングで結婚指輪が入った鞄のある研究室の前を通ったため、明確な言葉にはしないものの有力な容疑者となっている。

 仲は自分自身が罪を犯していないことを自分自身であるからこそ知っている。それと同じ程度に、周囲から向けられる懐疑的な目に納得していた。

「あんな反応は、当然だ。僕は変だから」

 ボソリと呟いた言葉に香川が反応した。

 ネズミはいつのまにか椅子に座った香川の膝に移動していた。

「え?六峰くんはおかしくなんかないよ?」

 

 チュウ

 

 香川の声と同タイミングでネズミが鳴く。

 思わず、仲の眉間に皺がよる。ネズミの姿だけでなく、壊れた蛇口のひねる音のようなか細い幻聴もノイズだ、仲はネズミを視界にいれないよう俯いた。

「…ちゃんと言っときたいんだけどさ。わたしは、仲くんの見える幻覚を茶化したりしてるわけじゃないからね、仲くんがそんな風に言われるのが嫌って言うなら、控えようと思ってるけど」

「そんなことないよ」

「そう?そうだったらいいけど…」

「何か言われるのは慣れてる」

「…えっと、さ。…あ、仲くんはさ、学校の通りのケーキ屋って行ったことある?」

「…なにそれ」

「知らない?先月オープンして、行ったことないならおすすめだよ。イートインスペースがあって、喫茶店みたいになっててさ。ケーキも美味しいんだけど、ケーキよりクッキーの方がわたしは美味しくて」

 仲は「そう」と一応の返答はしたものの話の流れがよく分からなかった。

 有坂がやってきたことによる緊張は幾分か消えていた。余裕ができた脳のメモリによって仲がアトリエにいる意味もないと気づく。里村教授は戻ってこない、ポケットの中の鍵をどうするかなどは、教授がそのような行動を選択したなら仲が悩む余地は残っていないように思えた。

「僕、教授が帰ってこないなら行くよ」

「えっ、あ、うん」

 仲が俯いていた顔を上げると、香川と目があった。

 困った顔が取り繕うように笑顔を作って見せた。

「またね」




 

 D棟を出ると、仲は校舎の外周沿いにある湖のキワに伸びた時計柱を見た。次の講義まで、まだ時間がある。とはいえ何もすることのない仲はベンチに座ることにした。大学内の壁により反響する人の声よりも、外の方がまだ快適と言う判断だ。

 日差しは厳しく、広場を太陽がさんさんと照らしてはいるが、幸いにもベンチは木の影に当たっている。昼時の広場の人の行き来は多い。遠くの芝生では3人組の女性が座って昼飯を広げている。聞こえてくるそのうちの一人の声がどことなく香川に似ている。

 香川とこの大学で会うまで、仲は精神科医と両親を除き幻覚について誰にも話したことはなかった。そんなことを話すまでに人との関係を構築できたことがない、という方が正しいかもしれない。誰に対しても仲は心を通わせることはできなかった。

 固く絞められた蛇口が壊れたみたいに、ストッパーが緩んだみたいに、香川の前では言葉が漏れ出てくる。なぜ彼女だけなのか、仲は不思議だった。

『僕は香川さんのことが好きなんだろうか』

「…?!」

 とんでもない言葉に、仲は声のする方を向いた。

 ベンチの端に座る仲の隣。頬を手でむにむにとしながら幸せそうな顔で寝そべるネズミがいた。

 仲は頭が痛くなるようだった。

「…急にめったなこと言うなよ」

 周りに聞こえないくらいの小声で文句を言っても、ネズミは知らんぷりだ。

『僕は香川さんのことが好きなんだろうか』

 仲は息を吐いた。

「…はぁ」

 仲の行動に幻覚が反応を表したことはない。手で払っても足で踏んでも、ネズミはただそこにいて唐突に現れたかと思えばいつのまにか消えている。一方的なジャミングのようなものだ。

 何度も経験してると言っても心地のいいものではない。リアルのネズミと同じく急に出てくれば驚きもする。

 薬を飲めば一時的に消えるが、罹っている精神科医に副作用を抑えるためと薬を飲む時間は朝昼夜食の後と定められている。仲はいっそ大量に飲んで一切見えないようにしたかったが、決まりを破る勇気もなかった。仲は頻繁に不安に襲われる。いつまで続くのか、もはや、見えていなかった期間の方が短い。

「……いつまで」

 頭が考えたくないことを考え始める時、仲の胸の奥に靄がかかる。次第に、視界が周辺から狭まっていく。頭が締め付けられるような感覚。圧縮されるように現実が薄まって、切り離されていく感覚。現実の重さから心が離れる感覚。

 全てが遠くなる、

 仲は、この感覚は嫌いではなかった。

 

「なんなの、あんた!」

 

「っ!」

 大学内の平和を切り裂く声に、仲の体が跳ねた。

 脳内をはじくほどの衝撃を与えた音は甲高い女性のものだ。

 仲が顔を上げれば、穏やかな広場の真ん中で2人の男女が言い争っていた。5メートルもない近さで繰り広げられる口喧嘩は、まさにたった今ヒートアップしたようだった。

 男が背を向けて、相手方の茶髪の女の顔が仲からはよく見えた。般若のように怒りを全身で表し詰め寄っている。

「失礼すぎない?私のこと、馬鹿にしてんの?」

「していない、何怒ってるんだ?大丈夫か?」

「っ、はぁ?怒るに決まってんでしょ?!あんた、会ったばっかの他人に自分が何を言ったのかわかってんの?!」

 髪の毛が逆立っているのではないかと言うほど怒りを感じさせる女に対して、男の態度はあっさりとしたものだった。軽薄そうに宥めるような手振りが余計感情を煽るのか、女の声が鋭さを増していく。

「ああ、わかった。”ヒス”ってやつだな、初めて見た」

「なっ!!」

 火に油を注いでいく男に比べたら、よほど周りの方が焦っている。止めようと動く人は1人もいない。誰もが関わらない方が賢いと判断して足早に去っていく。

 ようやく、仲は自身の判断の遅さに気づいた。

 仲の座るベンチと彼らの距離は割と近い。女の大きな声はびしびしと仲の耳に入ってきて、気を逃せば、運が悪ければ仲にも飛び火するのではないかと不安に思うほどの勢いである。

「人を馬鹿にすんのも、大概にしなさいよ…!」

 仲が立ち上がって歩き出すより先に、女が手に持っているバックを振り上げた。

 ばし!

 女の金切り声とは打って変わった重々しい音。

「うわっ」

 男が女に思い切りどつかれる光景に、仲は声をあげ、慌てて口を右手で塞ぐ。

 さすがの飄々とした男も大きなエナメルバックのフルスイングには耐えられず、うめき声をあげ、一、二メートル後退する。

 静まる周囲。大学内にいる人間全員が息を呑んだのではないかと仲は思った。

 女はやっと気が済んだのか、茶色の長髪をくる!と振り乱し、肩を上げて現場を離れていく。

 取り残されたのはうずくまった男1人。腹を押さえているのだろう。

「なにあれ、こわ」

「やばすぎ」

「何言ったら、バックでフルスイングされんの?」 

 周囲半径50m以内の人は蜘蛛を散らすようにいなくなり広場の中心だけがポッカリと空いている。

 きらきらとした金髪がサラリと風で揺れ、背中を向けていた彼が体を傾ける。

 立ち上がった流れで、振り返った。

「っ!」

 視線がかち合い、仲はパチン!と音が鳴ったのではないかと思った。

 迷いない歩みで近寄ってくる男に仲は焦ったが、目があった瞬間に石にでもされたのかと言うほど体はびくりとも動かず、キョロキョロ目を動かすことしかできない。

 順調に足を進め、仲の目の前で鬱陶しげに髪をかき上げる仕草をする。

「今のみたか?ひどいものだ」

 近くで見ると、意外と整った顔をしたその男は、目立つ金髪を手櫛で整えている。その居住まいはさっき女に鞄で殴られた男とは思えない。手を髪の毛から離したその男は、まるで長年の友人かのような気軽さで仲の隣にどかり、と座った。腕を大きく広げ、ベンチの背もたれを掴む。さっきまでそこに座っていたネズミは彼に踏み潰される形になった。隣はちょうど日の光の当たる位置で、上を見上げ眩しそうに目を細める男の姿は改めて、さっき女に鞄で殴られた男には思えない。

 いつのまにか男と仲の距離が20mから50cmになってしまった。

 仲はこの男と面識はない。男が話しかけてきて、隣に座ってくる状況が仲はうまく掴めなかった。話しかけられているということは返事をしなければならないのか、どうか、それすらも少し逡巡し。

「……いたそう、でしたね」

 思ったそのままの一言を放った。

「ああ、かなり痛い、こんなに痛いのは生まれて初めてだ、あの女は狙いどころがうまい、明日になればあざになるだろうな!」

 大袈裟に腹を抑えて痛そうなリアクションをした男は、女が去った方向に威嚇するような動きをすると、仲を見た。

「当ててやろう」

 ずい、と真に迫ったような顔で金髪の男は寄ってくる。

 男の瞳は予想外にとても澄んで見えた。

 強烈な視線と、急激な接近に、何か男の目につくような行動を自分はとってしまったのだろうか、と体が固まる心地がする。

「俺のこと危ないやつだと思っているだろう」

「…」

「顔に出やすいってよく言われないか?」

 仲は気後れするように周りを見た。周囲からの目がいくらか2人に集まっている。仲はより萎縮するように体を丸めて、細々とした声で返答する。

「すみません。顔、はよく分からないけど、すぐ声に出てしまうことは、あります…かね」

「謝らないくもいい。構えなくとも、俺は至って普通の大学生だ。さっきのは、そうだな。男が女に声をかける理由なんてものは大体相場が決まってるだろう?ナンパだ」

 男は右手をやれやれと振った。

「でも、あれはとてつもなく気が強かった。俺はもっとおとなしくて黙って後ろついてくるようなカ弱い女が好きみたいだ。この痛みもその勉強料だと思えば…いや、にしても痛すぎるな。何だあの重さは。辞書でも入っているのか」

 なぜ、見ず知らずの男に声をかけられ仲良さそうに話かけられているのか、仲の頭には驚きの次に困惑が支配した。

 未だ動けない仲に対して、びし、とその長い指を向けられる。

「そんなわけでだ。君に声をかけたのはこの大学の案内を頼みたいからだ」

「…案内?」

 男の言葉は突拍子もないように仲には聞こえた。

「案内って、なにを、ですか?」

「きみ、暇だろ?見るからに暇そうだったんで声をかけた。俺はこの大学に中途編入してきたんだ、だからよく作りわかってなくて教えてくれるイイやつを探していた」

 男は仲をまっすぐ見つめて言葉を紡いでいく。人と目を合わせることが大の苦手である仲は、メデューサに睨まれたように男から目を離すことができなくなった。堂々とした態度に、男の雰囲気に、仲はおそらく飲まれかけていた。

「三雲。よろしく」

「え、と」

 目の前に突如現れた強大な引力。平穏の中の非日常。

 仲は自身の腕につけた時計に目を逸らし、講義までの時間がまだ充分にあることを確認した。

「は、い」

 ようするに、断れるだけの理由はなかったのだ。





 三雲と言う男は溌剌とした、初対面がああでなければ好青年とされるような人物だった。

 仲は180はある長身で運動は嗜まいものの生まれつきガタイが良いが、仲より少し低いくらいの身の三雲は仲よりも大きく見えた。

 毛の先まで綺麗に染まった金髪、整った爽やかな顔つき、溌剌とした喋り口が、三雲のオーラを形作っている、と仲は考えた。仲は自身の体が人と比較して目立つことに気後れして、意識的に猫背にする癖が小学生の頃から染み付いていた。2人が隣に並んで歩く様はくっきりと明暗が分かれているように見えるだろう、と仲は客観視したが、三雲という人物は仲に対してフラットで、話す分には楽しいとさえ思えた。

 人の話をたくさん聞いてきたわけでもない仲が経験の浅さからそう感じただけなのかもしれないが、ハキハキと言葉を話す姿は自信に満ちてみえ、三雲がいうことは価値があるように思えてくるのだ。

 誰もいない芸術学部の棟を拙くも案内し終えたところで、三雲はここらで休憩しようと言い出した。足が疲れたらしい。仲は三雲をD棟に近い中庭のテーブルに案内した。

 ぷしゅ、とジュースの缶を開ける小気味のいい音が鳴る。

 案内をしてくれたお礼だということで奢ってもらったそれを仲は三雲にならって飲む。

 歩き回って、慣れない案内をしたものだから疲れていたらしい。清涼飲料水の刺激が喉を心地よく通る。

 三雲はことりと缶を置いて、また調子良く話し始めた。

 スラスラと紡がれていく三雲の言葉を要約すると、どうやら先ほどの女性へのナンパが上手くいったら彼女に案内をお願いする予定だったらしいと分かった。どうせなら女の子がいいよな?と同意を求められて、仲は苦笑するしかなかった。

「しかしあれはない、ないだろ」

 彼女の撃退方法については、三雲は頬に手をついて納得のいっていない様子だ。

「声かけたら勝手に解釈して「彼氏がいるので困ります」って言ってきたんだ。俺はまあ、彼氏がいるのかとは思ったが、大学の案内をしてほしいのが1番の目的な訳だから「いやいや、そんなの関係ない、彼氏がいてもいい」って言ったら怒り出した」

「…なるほど」

 自分を彼氏がいるのに他の男と二股するような人間に見られていると思えば、あの怒りももっともだ、と仲は女性に同情が芽生えてきた。

「殴るほどのことか。でも、ちょうどよかったのかも知れないな。仲くんは芸術学部なんだろ?」

「え?」

 仲は驚きの声を上げた。三雲は仲の腕を指刺した。目線を指の先に向けると、仲の服の袖には範囲は小さくもべっとりと赤色がついていた。

「こんなのバカでもわかる」

「あ、ああ」

 服に頓着がないのも考えものだ。絵の具を扱った時の汚れがついていたのか、仲はテーブルの下に袖を隠した。

「あと、俺たちは同い年だろ、敬語はやめてくれ、やりづらい」

「…うん、そうだね。芸術学部の油絵専攻だよ」

「絵を描いて大学に入るっていうのはすごいな、絵が上手いんだな」

「あ、いや、そんな。たいして。べつにここ、有名大学ってわけでもないから」

 三雲の言葉に仲は訂正をした。

 芸術関係に疎い親戚などからよく言われることだが、絵を書けること自体は画塾などに通えばたいてい形にはなる、と仲は思っている。例えば東京芸大に入っているとかであればすごいことなのだが、この大学の芸術学科の倍率は高くない。分不相応な賞賛は仲には後ろめたかった。

「卒業したら画家になるのか?」

「いや…。なる人はなる、んじゃないかな」

「仲くんは目指してないのか」

「俺なんて、まさか」

 大学を卒業して画家になる人間はかなりレベルが高い。画家で大成する、なんていうのは仲には雲の上の大それた話で、おそらく大多数にとっても同じく絵空事である。

 香川が画家を目指している、と大多数の輪の中で言っていたのを仲は聞いたことがあった。仲は、香川なら成し遂げてしまいそうな気がしていた。同じアトリエにいても遠くの世界を見据えているような、キャンバスに対し他の人とは違う向き合い方をしているような何かが、香川には情熱があった。

「じゃあなんでそこに入ったんだ?」

 三雲の質問は純粋が故の、痛い質問だった。

「それは」

 香川に比べ仲の美術科への進学は後ろ向きな逃避の結果だった。

「…っみ、三雲くんはどこの学部なの?」

「俺?俺は経済学部だ」

 三雲は話を逸らされてくれた。

「そ、そう。頭、いいんだね…」

「別に経済学部=頭いいってわけでもないだろう」

「はは…」

 似合わず微笑み、誤魔化すようにジュースを飲もうとした。

『やばい!』

「っ」

 声がして、ジュースを吹き出しそうになりつつ、すんでで飲み込む。目線を下に落とすと、缶を持つ仲の手元でネズミが何やら慌てていた。

 ネズミは唐突に現れる。薬を飲まなければ。

 仲はなるべく表情に出さないようにネズミを指先で突いた。

『やばい!やばい!やばい!』

 指をすり抜けたネズミは駆け回りはじめた。ぐるぐるぐるぐると馬鹿みたいに円を描き、しまいには仲の指に抱きついた。

 幻覚なので感触はないがネズミは現実的には不衛生な生き物だ。眉間に皺がよる。ネズミがすがりつく手の時計の針が目に入り、仲はぴしりと固まった。

「やばい!」

 今度の声は仲の声だった。

 時計の針はちょうど4限の講義の始まる時間を指している。

 呼応するように、始業のチャイムが学内に響き渡った。

「時間か」

「ごめん!俺もう、行かなきゃ!全部回れなくてごめん!」

 三雲は走り出す仲の目の端で手を振った。

 講義の出席は学生証を講義室の入り口のカードリーダーに通して把握している。通すタイミングが講義後なので割と遅刻をする生徒は多いのだが、よりにもよって次の講義は里村教授の授業だ。

 ダッシュで講義室にたどり着くと、仲は正面入り口ではなく後ろの扉から入った。何度か講義中に遅刻した生徒がこの扉から入ってきているのを見て、遅刻した際のやり方を知っていたのだ。扉を開けるときは慎重に、体を入れ込むと、扉近くの生徒の数人に目を向けられ、閉める時に音が立った。

 教壇に立つ里村教授に仲はギロ、と睨まれた。

 教壇の上にある時計の針は5分キッカリを指していた。




 

 講義終わりに、毎週出されるレポートを里村教授に提出すると、冷たい目を向けられた。

「出席扱いにはしてやる。鍵は」

 教授の広げた手を見て、仲は慌ててポケットの中の倉庫の鍵と在庫状況をメモ紙切れを渡した。仲は芸術単位の日を待たずとも教授と座学で会える、ということが頭から抜けていた。能動的にぼーと生きようとしているわけでもないのに、抜けたところが多いのは仲の悪癖だと自認している。ペコペコと頭を下げ、逃げるように講義室を出た。トイレに入って洗面所で服の袖の赤色を洗い終えると、仲は広場の時計を確認してから昼ごはんを食べることにした。コンビニで買ったサンドイッチを無為に食し、人に見えないように薬を飲む。

 ネズミは薬を飲む前に消えていた。

 五限以降の講義を取っていない仲は大学の入り口にあるバス停に立っていた。

 田舎の大学のバス停は本数が少ない。待ち時間の間に歩いていれば余裕でスーパーについているくらいには待っているのだが、徒歩と一週間分の食糧という荷物の二つの苦が重なればバス一択だった。

 仲は地元を出て大学に通い始めてからずいぶんと待つことに慣れた。静寂には元々慣れ親しんでいたから、適応が早かっただけかも知れない。待つことは仲にとって初めから苦痛ではなかった。

 小さな頃から、仲の生活と言えばなにもない。授業を受けるか絵を描くかを繰り返す日々に、休日に予定があったことはない。大学では話す人といっても香川が話しかけてくれるか、里村教授からの雑用依頼しかない。1日に一言も発さない日というのもめづらしくない。

 今日はいつもよりも、格段に人と話した。

 三雲は不思議な人だった。

 言動もそうだが、芸術学部には教授をはじめ変わった人は多いが、そういった変さとは違った。喋り下手でコミュ障な仲が、三雲との会話は途切れることがなかった。それは、仲には初めてのことだった。経済学部と芸術学部の接点はあまりない。もう、会うことはないだろうか。

「すみません」

「っ」

 考えていると、横に立つ青年が仲に話しかけてきた。

「は、はい」

 仲は青年を見た。三雲のような目を惹く華やかな美形ではなく、黒髪の、目を閉じれば忘れてしまうくらいの爽やかでも特徴のない端正な顔立ちをした男は「すみません、突然話しかけて」と再び謝った。

「芸術学部の方ですよね?」

「…、えっ」

 仲は慌てて腕を確認した。

 赤色は服の繊維にいくらか滲んでいるものの、意識しないと分からないほどには消えている。

 また、三雲と同様のいい当てをされて面食らっていると「先ほど芸術学部の棟から出てきたのを見ていたので、そうじゃないかなと思っていたんです」と青年は説明した。説明を聞くとなんてことはない、推理とも呼べないものだったが、仲は訝しんだ。

「あ、ああ…、はい、…そう、ですけど」

 仲の大学関係での交友関係はほぼない。芸術学部の、知り合いとも呼べない、すれ違ったことのある生徒の中にも青年の顔はなかった。

「失礼ですが、名前を伺ってもいいですか?」

「え、…仲、です」

「ああ、やっぱり。俺は椰代と言います。芸術学部の里村教授とは知り合いなんです」

「あ、は、はぁ」

 にこ、と椰代と名乗る青年は人好きのする笑みを浮かべてみせた。

「里村教授からちょっとした頼まれごとを個人的に受けてまして、芸術学部の生徒とお話をしたいと思っていたんです」

 仲はドキリ、とした。

「あの。…な、なにをですか?」

「里村教授がなにか事件に巻き込まれてる、と聞いたんですが、それについて何か知っていますか?」

 周りにたくさんの人がいるのに、独居房で詰問をされているような圧迫感が迫ってくる。初対面でも椰代の視線は厳しくない。仲の緊張の要因は視線だけではなかった。里村教授がこの人を通して自身に疑いをかけているのではないか、という疑念が仲の頭を占めていた。緊張が体を固くして、声が掠れた。

「指輪が、」

 一言発しただけで息が無くなり、息を吸い込む。

「無くなった、…ようですけど」

「やっぱり、盗まれたんですかね」

「………すみません、僕もよく、知らなくて」

 事件現場に居合わせた当事者ではあるけれど身に覚えがないのだと、仲は弁明しようとして、視線がふ、と外れるのが肌で分かった。 

「ああ、気にしないでください、ダメ元で聞いてみただけですので。それじゃあ」

 椰代は拍子抜けするほどあっさりと立ち去っていった。

 仲は耳を抑えて後ろ姿を見つづけた。遠くの空は灰色が青色を覆い隠そうとしている。

 解けていく緊張に合わせて、現実にいる感覚が戻ってくる。

 バスはそれから10分後にやってきた。待ち時間に比例して長くなった列を全て収容し、発車した。


 

 

 2  4月23日




 大学生活の中で1限の単位というものは重い。朝起きるしんどさも相まって、1限目の生物学を取ったのは失敗だっただろうか、と仲は思い始めていた。難しくてついていけていない、せめて出席率だけでもアピールしておかなければと、それだけの気持ちで講義室に向かっている。着席して、振り出しそうで降らない曇天を眺めていると「仲くん!」と名前を呼ばれた。

「え、」

 仲は、ついに彼女の幻聴まで聞こえてきたのではないかと思った。

 香川は実態を持って立っていた。ふりふりと笑顔で手を振ってくる。

 涼しげな青色の服を見に纏い、二つ結びで三つ編みを結んだクリーム色の髪。

 目立つ、と仲はまず思った。彼女の華やかさは人の目を惹く。仲が手を振り返すことはできるわけがない、と躊躇った。彼女がやれば可愛らしい仕草も、俺がすれば不審者だ、と。

 香川は軽やかな足取りで仲に近寄ってくる。

「仲くんもこの授業取ってたんだね」

「う、うん 香川さんも…」

 すっ、と隣に座られて、仲は思わず身をひいてしまう。

「いままで仲くんいたの気づかなかったよー、あ、ごめ、今日はこっち座る!」

 香川は走ってきた先の友達数人の女子に声をかけた。

 友達はこちらを見てすこし笑った、と仲は感じた。侮蔑のような嫌な感じはしない。揶揄うような笑い声は、仲と香川の関係を勘違いしているのではないかと思うと、体を丸め、心臓がバクバクと音を上げる。

 香川はこの見た目でみんなに優しいために大層モテる。香川の隣にいる、見るからに隠キャの不釣り合いさに笑われているのではないか、仲が負担に感じているのはそういった懸念からだった。

 教授が講義室に入ってきて喧騒は途端に静かになる。ノートを広げて、隣を気にしないようにする仲に、香川は気にせず話しかけてきた。

「ねえ仲くん、私いいこと思いついたんだ」

 声を顰めているが、弾むように高くてこそばゆい。

「仲くん、仲くんの見えるネズミくんの絵、私にちょうだい?」

「え?、っと。なんのために…」

「欲しいの。だめ?」

 仲は、彼女の要望などに対して拒否をすることはないのではないかと思った。

「でも、今はいないから」

 

 チュウ

 

 鳴き声のした方を見るとネズミが机の上にいた。

「いないの?」

「いや、…描くよ」

 仲はルーズリーフを一枚取り出した。幻覚を見ながら手探りでネズミを描いていく。ネズミは普段よりも動かなかったためすぐに描き終わった紙を見て、香川は息がかかりそうなほど近くでふんふんと頷いた。

「思ったよりリアルなネズミだねー。もっとデフォルメされてるのかと思ってた。たしかに、ちょっと怖いね」

 香川は困ったように笑う。

「…うん」

 仲は不思議な感覚になった。離人感の全てが遠くなる感覚とは違い、心がざわついた。担当の精神科医以外に誰かと、自分の見える幻覚について話したことなんてなかった。絵まで描いて。

「でもずっと笑ってる。目が一線に引かれて、こんな顔多分、本物のネズミはしないよね。かわいい」

 香川はボールペンで、仲の紙のネズミの絵に洋服を着せはじめた。

 仲は自分の見えるネズミは男だと思ってたが香川は構わずネズミに女物の水着の線を書いていく。しかも割と際どい水着で、仕上げとばかりに谷間の線を入れた。

「僕、こいつオスだと思ってた」

 ボソリと言うと、香川はシャーペンを止めた。

「そうなの?なんで?仲くん、ネズミのオスメスの区別つく人なの?」

「つかないけど…」

 ネズミはたまに、香川に惚れてるような仕草をすることがあった。ほおづりをしたり、よく近くにいて、よくニコニコと顔を歪めている。こんな変なことを面と向かって言えるわけないので、なんとなくだけど、と仲は濁す。

 ネズミはアピールするようにせくしーなポーズをする。

 愛しの彼女が近くにいて、ネズミはいつもよりはしゃいでいるように見える。ノリノリだ、やっぱこいつオスだ。

「メスかもしれないよ。ふふ、オスだったら、ビキニ着せたから怒ってるかな?」

 ネズミは彼女の気をひこうするように、シャーペンを持つ手にまとわりついた。すりすりと、細い手に頬擦りをする。

 香川に、ネズミは香川のことが好きみたいだ、といっても嫌がらないだろう。絶対に言わない、と仲が思っていても、いつかポロッと口から出てしまうかもしれない。香川の前では仲は言葉が出てくる。多分、警戒が緩まるんだろうと考える。なぜ警戒が緩まるのか、とまで考えると、よく分からないでいつも着地する。

 明るくて友達がたくさんいるのになぜ仲に話しかけてくるのか、理解ができなかった。住む世界が違うから理解の外にあるのだという思考放棄状態になりつつある。 

 ぽつぽつ。

 窓を叩く音に意識がいく。

 雨が降り始めたのだ。空の曇天は昨日から引き継がれている。

 仲は雨が嫌いだ。晴れも曇りも好きではないけれど、雨ほど嫌いではない。気圧の変化か、仲にとっての雨の降る日は偏頭痛がひどい日になる。

 香川に気取られないように頭を片手で抑える。

 ずきずきと目の奥が絞られる。

 耳障りな雨の音が教授の声に重なり、頭を刺激する。

 最近、以前にもまして頭痛がひどくなっている。

「今はどんな格好してるの?」

 他の雑音より、近くにいる分少し大きいのに、香川の声は痛くない。

 ネズミは香川の手にすがるように蹲っている。

「蹲ってる」

「そう」

 香川がシャーペンで紙の白地に線を引いていく。

 線はうずくまるネズミの輪郭を描く、迷いのない線に、うまいと思う。仕上げに、苦しそうな顔を書き足した。

「苦しいのかな」

「…どうかな」

 これは幻覚なんだから、こいつが苦しいわけではないだろう、苦しいのはー…。

 香川が手を引っ込めると、ネズミは支えを失って机の上に転がった。ざまあみろと、仲は一瞬だけ、痛む頭がスッと冴えた気になった。

 授業中は頭痛に耐えながらノートを写した。チャイムが鳴り、毎回の授業終わりに提出が課せられているレポートを書き終えると、香川は立ち上がった。まだ書き途中の仲の横にあるルーズリーフを手にした。

「これ、もらっていい?」

「え、…うん、いいけど…」

「やった、ありがと」

 香川が喜ぶ理由が、仲にはよく分からなかった。

 こんなものが欲しいというのは変わってる。

 香川は変わっていると、アトリエで香川を囲む数人が話していたことがある。「香川ちょっと好み変だからさー」「えー、かっこいいと思うけどなー」という会話を仲は聞いたことがあった。趣味嗜好という点でどこか周りとズレているらしい。その時はピンと来なかったが、今なら分かった。

 香川が仲に他の人と変わらず親しげに接してくるのは、ネズミの幻覚に対しての興味から来るものなのかもしれない。

 仲の見る幻覚に興味があるから仲に近づくのだとしたら、香川と言う個人への理解が、少しだけできた気がした。

「また描いたらちょうだいね。仲くんは今日はアトリエいく?」

 仲は力無く首を振った。火曜日は3から5限の実技実習はない。

「行かない、かな」

「なんだか、具合悪そうじゃない?」

 頭を抑えた手に、滲んだ汗が張り付く。

 窓の外の雨足は強まっていく。

「ちょっと、雨が」

「雨?あ、偏頭痛とか?」

「…うん」

「本降りになってきたね。桜、もう残らないだろうな」

 窓を見やる動きで、髪の毛が揺れた。割れた髪の隙間から白い首筋が顕になる。香川は窓の外をしばらく見て「あ」と言うと、淡いリップのついた唇が弧を描いた。

「仲くん、なんで雨が降り続けても海が溢れないか分かる?」

「…なんで?」

「海の水が水蒸気になって雲になって、雨が降るんだって、降った雨はまた海に帰って水蒸気になって…って無限ループしてるらしいの」

「へぇ…」

「これって永久機関じゃない?どうにかしてこの仕組み使ってエネルギー問題解決しないかな?え、天才?」

「…できるかもしれないね」

 香川は夢想家だ。そういうところも、仲にはよく分からない。

 

 


 

 香川は先に講義室を出た。2限の授業があるらしい。2限をとっていない仲は昼まで待てずに薬を飲んだ。自販機で水を買って、人のいない構内の隅ですませると、仲は1限を終えたばかりなのにくたくたな状態で、A棟内のベンチに座った。講義が始まるまでは忙しなく移動する人間の群れはチャイムが鳴ると静かになる。ぼーと、何をするでもなく痛みがぼやけていくのに気を取られていると、廊下を歩いてきた里村教授に捕まった。「この後は暇なのか」と教授は憮然とした態度で仲に問いかけた。

「昨日の遅刻を免除してやったこと、覚えているな」

「…はい」

 遅刻の件を持ち出されると何も言えない。後ろ手に拘束をされているくらいの気分で、仲はペットボトルをカバンに入れると立ち上がった。

「遅刻二回で一回分の欠席扱いになる。遅刻というのはそのくらい重いものだ それを何もなくチャラにするような優しい人間なんていないだろう」

「そう、ですね」

「社会は対価で出来ている。対価さえ支払えば、罰さえ受ければ人は人として生きる資格を得ることはできる。無償の施しほど気持ち悪いものはないと考えるべきだ。教育というものは甘やかすことではなく、社会のルールを教えてやるものだ。昨今の教育がなっていないのは、大人が忙しさを理由にそれを教えてやらないからで」

「…あの、何をすれば」

 だんだん話が逸れてきたので、放っておくと延々と喋りそうなところに口を出す。

「次回のレジュメ閉じだ」

 カツカツと廊下を進む教授の後ろについていき、示された部屋に入る。

 美術学科の先生たちの共有研究室は、D棟にある個人の研究室よりも広い。雨が降っている中D棟に向かえば濡れてしまうため、A棟の共同研究室での作業というのはよかった。

 部屋の中央にある大きな円のテーブルには教授の言っていたレジュメの束が広げられていた。見ただけで他の教授の授業分も混ざっているのが分かる。

 パチン、と音がした。

 仲が座った、真正面の位置に人がいた。室内だと言うのに黒いキャップをかぶっている。深い鍔に隠れた顔がよく見えない男はホッチキスでレジュメを綴じる。動きは早い。手元の紙がなくなり、身を乗り出して中心の束を手に取った。黒いキャップの淵から覗く金色に仲は見覚えがあった。

「えっ」

 思わず声を上げた。

 彼は三雲だった。

 下を向いているものの、動きに合わせてチラと見えた切れ長の目に確信する。三雲は仲に気づいていないように、パチンパチンと補充した紙で軽作業をこなしていく。

「あ、あの、」

 仲は里村教授を見た。パソコンの乗った壁際の机に座り、教授は足組みをして、ああ、と言った。

「遅刻常習犯だ」

 紹介はそれで終わりだった。

「やり方は教えてもらえ、おわったら自由に出ていい」

「は、はぃ」

「…」

「…」

 里村教授は少しパソコンを扱うと、作業をするもう1人の先生に声をかけて出て行った。

 仲は三雲をおずおずと、じっくりと見た。

 三雲の目深に被った帽子の隙間からかろうじて目が合い、ふ、と逸らされた。教授に頼まれたのはレジュメを閉じたり封筒に両面テープを貼ったりと言った単純作業だと、ぼそぼそと短い説明を受ける。声を聞いて、仲はよりはっきりと彼が三雲なのだと分かった。信じられないことに、彼があの三雲なのだと。

 陰キャ、みたいだ。と仲は思った。

 三雲はなんだか、不貞腐れているように見えた。隠しきれない暗さで周囲の重力を重くしているというべきか、例えるなら、この世界のすべてが自分にとって不都合であるかのような。昨日の堂々とした佇まいを微塵も感じさせない。深く被られたキャップに封じられた、光るキラキラとした金髪が昨日よりも萎びて見えた。

 表情と行動だけでこうも人の印象は変わるのか。てっきり三雲の方から親しげに話しかけられるものだと思っていたので、仲は拍子抜けしていた。ひょっとして天気が関係していたりしているのか、と外的要素を考え始めたくらいだ。

 しとやかな雨音が部屋に響いている。偏頭痛持ちとかでものすごく調子が悪いのであればこの変化にも納得がいく。

 仲には、頭痛の苦しみは人一倍理解できるつもりだった。

 恵まれた顔、体格、性格を備えているのに、神は世界のバランス調整のために彼に負荷(マイナス要素)を与えている。そう考えて、世界もあながち平等なのかもしれない、というやや飛躍した思考にまでなった。

「……」

「……」

 残った先生のキーボードを叩く音と、時計の針の音、ホッチキスを止める音だけが共同研究室に響く。

 会話が起こらない。弾まないどころの話ではない、弾むものすら生まれていない。もしかして、会話相手の体調が悪いなら、自分が話題を提供してあげなければならないのだろうか。仲は、自分で気づいてなんだが目から鱗だった。

「……………ち、遅刻常習犯って、…遅刻、よくするの?」

 勇気を出した一言だった。

 仲にとって人に話しかけることは蛮勇を振るうという表記で表したとしても過剰ではない。

「…」

 沈黙。

 心が折れかけた。

「…あの教授がやってる講義を取っているんだ。だから目つけられてて」

「っ。へ、へえ そうなんだ、僕も取ってるよ、デザイン論だよねっ」

「…そう」

 パチン、とホッチキスを綴じる音が、会話終了の合図のように鳴った。

「……」

 仲は、ようやく思い違いをしていたと思い至った。

 三雲となら話が続くと思っていたが、彼が喋らなければ会話は続かない。思えば、昨日の会話は全て三雲が主導していた。いざ自分が舵を握るとなるとすぐに沈没してしまう泥舟だと、気づきたくなかった。情けなさが身を襲う。

「……その、教授最近嫌なことがあったから、ちょっと不機嫌なんだ」

 もう一度勇気を出す。今度は返答に期待も持てなかった。

「とばっちりか。最悪だ、きっと人を選んでる」

 会話は帰ってきたが、陰気なオーラに包まれた重々しいセリフを吐き出された。

 どうしてしまったんだ、と。傷つく心よりもだんだん彼の身に何が起こったのか心配になってくる。手当たり次第に声をかけるうちに、とんでもない女に引っかかって金でも巻き上げられたのか。見る影もない三雲に、仲の頭は疑問で埋め尽くされた。

 二人で行った作業は10分ほどで終わった。

 無言でこの場を立ち去ろうとした彼を、仲はほとんど反射的に引き留めていた。

「ちょ、ちょっとまってっ」

「…なに」

「その、こ、このあと時間ある?話、だけでも」

 彼のナンパ癖が移ってしまったみたいだ、と仲は思った。






 三雲は仲同様、自分の意見を持たない流されるタイプらしく、大人しく傘を刺して雨の中をついてきてくれた。ただし、ひたすらに無言だった。

 仲は話をするにはどこに行こうかと思い、香川が教えてくれたケーキ屋が頭に浮かんだ。大学の横に、たしかにその店はあった。角砂糖を煮詰めたような可愛らしい店内に入った瞬間何かを食らったが、入った以上出るわけにはいかなかった。

 店内は情報通りイートインスペースがあり、喫茶店のようになっていた。席に案内され、水を持ってきたフリフリのエプロン姿の女性にきょどりながら注文を済ませる。「俺は何も…」という三雲に「僕が奢るから、コーヒーだけでも飲んでよ」とナンパでも実際に繰り広げられていそうな文言を仲は言ってしまった。

 どっと疲れ、お冷で乾いた喉を潤す。

 三雲は固く閉じていた口を開いた。

「おれになんか用…?」

 当然の言葉だった。

「…、その。なんというか」

 誘ったはいいものの、何を話すのか全く決めておらず、話さなければいけない事柄もない。

 柄にもなく反射的に声をかけてしまったのは、ただ彼と話をしたいと仲は思ったのだ。

 陽キャは陽キャと必ず仲良くなる訳ではないだろうが、コミュ障もコミュ障と必ず仲良くなれるわけではない。

 同じ種族でも争い合う人間がいるように個人間での合う合わないは人間の数存在しているが、仲は彼との話は上手く行った気がしていた。憧れの存在が自分のいるそこまで落ちてきてしまったような、失望にも似た感情。疑問。

 彼は昨日まで陽キャだったはず。

 なぜか、今日は陰キャなのだ。

 三雲は間違っても人に流される流されるタイプには見えなかった。鞄でフルスイングされても立っていた芯の強い、かっこいい(?)男だった。

 彼の身には一夜で性格が激変する何かが起きたのだ。と言うことは、陰キャから陽キャに変身することも人間には可能だと言うことにはならないだろうか?

 仲は少しばかし、混乱していた。

「えと、よ、よく僕、あの教授に雑用任せられててさ、三雲くんも僕と同じなのかな、とおもって」

「…」

 三雲は怪訝そうな顔をする。元が整っているから、その迫力は段違いだ。

「お待たせしましたー」

 店員さんが注文したらものを持ってきてくれなければ、仲は逃げ出していたかもしれない。

 目の前に、パフェとコーヒー二つが並んだ。

「ご注文の商品は以上でおそろいでしょうかー?」

「…え」

 こんなの頼んだだろうか、という表情に出てたのか、挙動が不審だったのか、店員さんに眉を吊り上げられてしまう。情けなく、訂正する勇気もない仲はとりあえずといった風にパフェとコーヒーを自分の前に持ってきて、コーヒーを三雲の前に置いた。

「どうぞ…」

「………」

 三雲の無感情な、興味の対象として認識してない瞳に晒される。

 仲の持ち合わせる貧相な常識に照らし合わせるなら知り合いに向けるものではなく、急激に不安になり確認をした。

「…えと、、三雲くん、だよね?」

「おれは一峰だよ」

 宣言されて、流石に参ってしまった。

 仲は人の顔をまともに見れないたちだ、こんなふうに人の顔をまじまじと見たことはなかった。だから、昨日の今日で見間違えたのだろうか。

 仲が、今の三雲を見ていられるのは、彼が常に目線を下に向けてくれているからだった。仲は人と会話をしなければいけない時には金縛りに合ったように声がうまく出なくなる。

 精神科の先生から視線恐怖症と診断された性質は、目を合わさなければ、合わされなければ、仲は声を発せられる。

 しっかりと観察しても三雲だと思わざるを得ない。目鼻立ちの整った顔、澄んだ瞳、伏せられたまつ毛が長く、金髪が似合う男性。田舎の大学に何人もはいないだろう。

「…なんていうか、うまく言えないけど、…昨日見た君と、今日の君が違う気がするん、だけど。…ごめん、変なこと言ってるのは、分かってるんだけど、」

 ドッペルゲンガーをみた時のような、双子の片割れと話している時のような、的確に違和感を表す言葉を探し出せない。もたもたと言葉を紡ごうとするが、言葉にならずに頭から消えていく。最初は怪訝そうな顔をしていた彼も鈍臭い仲に合わせ、思考を巡らせるように下を向いた。

「ああ…おれ、夢遊病なんだ」

「む、?」

 日常で使わない言葉の意味を、仲は瞬時に理解できなかった。

「たまにあるんだ、君みたいに知らない人から親しげに話しかけられること」

 瞳が向けられる。澄んだ瞳は金色の前髪の隙間で揺れ、すぐに横に逸らされた。

「……」

「……」

「…っあ、よ、よく、あるんだ…?その。夢遊病が」

 仲の質問に、溜息をつかれ、身をすくめる。

「ご、ごめ」

「よくあるよ」

 真上に位置するランプの光で、キャップの鍔の影が濃く作られている。

「普通に生活してても気づいたら、眠っちゃって、起きたら、別のところにいたり、勝手に行動してたりする。起きたら頭が金髪になっていたり、おれはこんな色、目立つから嫌なのに。黒に染めても、また気づいたら金髪になってる。何回かそうしてたら、髪の毛がギシギシになって、美容院に注意されたから放っておいてるんだ」

 声が紡がれるにつれ、澄んだ綺麗な目が輝きを失っていく。

 闇に溶け込む目は綺麗な川が徐々に泥で濁っていくようだった。

「最近だって、部屋に買った覚えのないものが増えて、雑誌で、足の踏み場も無くなってきて、片付けをしないといけないんだ。昨日なんか逆に、俺が読んでた小説に挟んでた栞が外れてて、どこまで読んだかわかんなくなって」

 ランプに照らされた金色はこんなにも明るいのに、こんなにも暗く「なんで俺が」とブツブツ呟いている。

「三雲くん、あの」

「一峰」

「あ、ごめん、一峰くん」

 謝罪を口にしながら、仲は彼の言葉を頭の中で噛み砕いていた。

 三雲くんではなく、一峰くん、と言う彼の言葉を信じるなら、昨日会った彼は寝ている時の彼ということである。「三雲くん」の姿は夢遊病で行動している時の彼で、「一峰くん」にその記憶がないということだ。

 仲にも夢遊病というものは”寝ている最中に体が動くこと”くらいの浅い知識は持っているが、夢遊病とはあんなにはっきり行動するものなのか?昨日の溌剌と話す姿には微睡なんて一切感じなかった。にわかには信じられない。気づいたら金髪になっているって、不思議を通り越して恐怖体験だ。

「…夢遊病には、俺は困ってるんだ。眠ってる時の俺と、君はどんな話をしていたの」

 一峰は仲を見た。

「…どんな話って、頼まれて、大学の案内をしたんだよ」

「それだけ?他には?」

「……う、うん、他には何も、時間も短かったから」

 一峰は、興味を失ったように視線を目の前に鎮座するコーヒーに移した。

 仲も目の前のパフェを見た。

 窓から指す光でアイスが溶け、上に乗ったイチゴが落ちかけている。

「……、あ、と、とにかく。…食べようか。えっと、一峰くんも飲んでよ」

 仲はスプーンを手に取った。

 彼も、机の下に隠れていた左手を出した。

 仲がいちごパフェにフォークを刺そうとした、その時だった。

 だん!

「!?」

 突然の打撃音は、テーブルに手をついた音だった。

 テーブルに顔を伏せ、顔面への刺激を抑えるために額の下に手がある、のだろう。仲は目を逸らしていたので何があったのかは分からない。狼狽える仲の前で、のそりと起き上がる。頭を振った後に鬱陶しげに帽子を脱ぐ。

 隠すものがなくなり頭の揺れに合わせサラサラと揺れる金色が、窓から入る光にあたって眩しく目を焼く。

「…あ?」

 彼は自身の手前に置かれた、反動で少量の雫が周りに飛び散ったコーヒーを今しがた気づいたかのように見た。

 右手で取っ手を掴み、ためらないなく飲み干す。

「苦!」

 次の瞬間には顔を大袈裟に顰めて、コーヒーを置いた。

「なんだこれ、美味くないな、ここは食事を提供する場所じゃないのか」

「………一峰く」

 彼は人差し指でパフェを指した。

「俺は三雲だ。とりあえず、そのいちごパフェをくれないか、口が苦い」




 

「髪の毛は金髪の方が似合うだろう」

 自身を三雲と呼称した男は、口元を紙ティッシュで拭い終えるとそう切り出した。カラン、と空いたパフェグラスにスプーンを放り込む。

「特に俺の顔は、明るい方がいい。黒髪よりも金髪の方が垢抜けてる感じがする。美容院の人がそう言ってくれたんだ。プロが言うなら間違いない。だろ?」

「…うん、似合うね」

 確かに似合うが、そこについては仲には割とどうでもよかったりする。

 三雲は「突然、倒れたんだよ」と仲が説明しても「そうだろうな、そうとしか考えられない」とケロッとしたものだった。店員さんが机に手をついた轟音に飛んできたのもすげなくあしらい、常連かのように堂々とした態度でカフェの空間に溶け込んでいる。

 それは仲の思う”三雲くん”像そのものだった。仲には、三雲はうちから出てくる陽のオーラに包まれているように見えた。

「色々と、聞きたいことがあるんだけど…」 

 豹変とも表現できる雰囲気の一転に、仲はある可能性を考えざるを得なかった。

 性格が切り替わる、嘘のような現象を説明する言葉。夢遊病より的確な病名を仲は知っている。

 二重人格だ。

「俺は聞かれたいことはない」

 三雲はパフェの口直しにお冷を飲み、空になったグラスを置いた。

「え」

「どうせ、プライベートなことを聞こうとしてるんだろう」

「…」

「そうはいくか、俺が君に?出会って数日の仲くんに話すことじゃない」

「……」

 三雲が言うことはもっともだと仲は思った。

 押し黙り、下を向くと視界が痛みと共にブレた。

「っだ」

「そんなに分かりやすく傷付かれるとこっちも悲しくなるだろ。陰気だな」

 仲が顔を上げると、狐の形の指が目の前にあった。

「まったく、仕方ないやつだな。こっちが加害者みたいだ。そういうの、わざとやっているのならタチが悪いぞ」

「え、っと、ごめん」

 出会って2日目でデコピンという初めての衝撃に固まっていると三雲は横を向いた。仲も向く。カフェの窓の外、雨はいつの間にか止んだようで通行人は傘をさしていない。

「ここは窓際だろ?」と、三雲は見たままのことを問いかけてきた。

「え、…うん、」

「そして、仲くんの手にはスプーンが握られてた。パフェ食うスプーンはカーブしていて、窓から差し込んだ光が反射しやすいと思わないか?」

 外の空は、途切れた雲の雲間からちょうど光が差し込んでいる。日差しは強い。テーブルの上は光が当たり、艶やかな表面は白ばんでいる。

「厳密に実験したわけじゃないんだが、俺の体は気絶しやすいんだ、体質的に。神経が人よりも敏感で、光が目に急に入ったり強い刺激を受けると気絶するんだな」

 種明かしをするマジシャンのような口調で、三雲はそう説明をする。

「医者が言ってることも間違いと言うほどじゃない。俺は一峰が気絶してる間に動いている。あいつにしてみれば夢遊病と変わらないだろう」

 聞こうとしたのは自分だが、サラッと凄いことを打ち明けられてないか、と仲は思った。

「…そう、だったんだ」

 二重人格とは、精神病の一種であるという知識を仲は持っている。解離性同一性障害、だったか。仲は中学の時分から長いこと精神科に通ってはいるが、人見知りなために他の精神病患者と接したことはなく調べようと思ったこともなかった。知識がないぶんは想像をするしかない。

「三雲くんは二重人格の自覚があって、一峰くんは夢遊病だと思っている、ってこと。かな…」

「ふん」

 三雲は大きな動作で腕を組んだ。

「どうだ、カッコいいだろう、ミステリアスで!」

 先ほどの暗い人物と同一人物と思えない自信満々な表情に、仲は曖昧にうなづいた。

「……一峰くん、三雲くんと正反対、なんだね」

「正反対?顔は全く同じだと思うが」

「性格っていうか」

「ああ、同じ環境で育った双子だって性格がちがうことはあるんだろう?それとおんなじじゃないか?双子の場合は行動遺伝学、って言うらしいが、人間の性格形成の要素は遺伝だけじゃないってことだな。まあ遺伝以外の要素が俺らの場合だと環境とかで説明はできないんだが、なにせ同じ体だ、人間の神秘だとでも思ってくれ」

「…なるほど」

 一峰にあげたコーヒーは(パフェも)三雲の胃の中に綺麗に収まってしまった。

 体は同じものであるのでいい、ということになるんだろうが変な感じだ。仲は、三雲のペラペラと澱みなく話す様に狐に包まれた感覚がしていた。非現実感というべきか、目の前に二重人格がいるという実感があまりない。生きている感覚が薄いのは中にとって常でも、これはまた違う気がした。

「お水をおつぎいたしましょうか?」

 若い女性の店員がピッチャーを手に近づいてきた。

 三雲は即座に笑顔を浮かべた。

「お願いします!」

 にこにこ、と微笑む三雲が美丈夫であると気づいた店員は、水を注ぐと頬を染めてそそくさと去っていった。注文を受けた店員と同じ人だったはずだが、さっきはあんな対応ではなかった。

「いい店だな、ウェイトレスの制服が可愛いのがいい。仲くんは何で俺をここに誘ったんだ?」

 三雲は、注がれたばかりのグラスを片手に質問した。

「え?それは、、お店はなんとなくだよ。八雲くんと話せるならどこでも…」

「ふむ」

 見透かすような目に、仲は目を逸らす。

 遅れて、緊張感が体を縛る。下を向いて吐き出すように声を出した。

「…気になったんだ。昨日と違いすぎるから、わざとやってるんだと思って」

「そんなわけないだろう」

 仲は頭を下げた。

「あっ、ごめん、あの、俺が連れてきたんだからここの代金は俺が払うよ」

「いいのか、俺としては助かるが、仲くんは何も食べてないだろう」

「もともと俺が誘ったんだし、…俺が、気絶させちゃったみたいだし」

「そうだな。では遠慮しない。コーヒーはまずかったが、パフェはなかなか美味かった」

 に、と三雲は笑い「しかし」と眉を釣り上げた。

 コロコロと子供みたいに表情が変化する。

「こうしてタダで美味しいものにありつけたのはラッキーだった。が、その教授、腹が立つな」

「…里村教授?」

 三雲がパフェを平らげる合間に仲がここにくるまでの経緯を説明した。里村教授にさせられた作業の説明の際にも不快さが顔に出ていたが、三雲は眉間にくっきりと皺を寄せる。

「話を聞けばさせられたのはただの労働だ。もっともらしい理由づけをしても、タダ働きをさせていいことにはならないだろ。しかも労働内容がクソつまらん、やりがい搾取にもなりきれない」

「…そうかな」

「教授っていうそいつがどれだけ偉いのだか知らないがな。そう思わないか?」

「結構、すごい人なんだよ」

 大学の美術学科の教授が作家と兼任していることはよくある。

 里村教授は人形という分野においてそれなりに知名度のある作家だ。偏屈で、気の難しい女性であることは間違い無いのだが、実力に裏打ちされた地位に教授は座っている。

「…俺はよくあることだし、慣れたかな」

 仲はグラスを両手で握りながら三雲を観察した。

 二重人格が演技だとは思えない。

 内心はどうでも、一峰は実際には作業に黙々と取り組んでいた。作業をしたのは三雲ではないのに、三雲は納得できないと言わんばかりの態度である。

 あの場で表に出ているのが三雲だったらどうしていたのか、こんなものはしないと腕を組み面と向かって反論していても、仲の想像の中では違和感がない。

 もし、彼が二重人格であるなら一峰の言う夢遊病という判断は間違いということになる。

 素人の仲から見ても二重人格の可能性を考察できるのに、彼の罹っている医者がヤブ医者である可能性も否定できない、と仲は思った。

「…三雲くんは、大変そうだね。…あのさ、僕の先生、紹介しようか?」

「ん?」

「僕も精神科の医者に診てもらってるんだ。三雲くんのそれ、解離性同一性障害、って奴だと思う。きちんとしたところにかかれば治るかもしれない」

 仲は、善意で言ったつもりだった。

「必要ない」

 硬い声に切り付けられ、仲は顔を上げた。

 三雲は机に肘をつき、頬に手を当てて店内を見ていた。

「あ、いや、嫌なら別に…」

 テーブルに静寂が訪れる。

 正確には、三雲が話さなくなってしまったことで訪れた沈黙。

 三雲はおもむろに手を合わせた。未練などないと言うように立ち上がる。

「ご馳走様、俺はやることがあるから帰る。じゃあな」

「あ…うん」

 去っていく後ろ姿に、声をかけることはできない。

 仲は軽い放心状態に陥った。

 デリケートな話題に触れてしまった、と少し考えれば分かる、出会って二日程度の人間に触れられたくない領域に、無神経に首を突っ込んだのだと言う自覚が遅れて来る。

 もう彼と関わり合いになることもないかもしれないと、予想以上の落胆をしている自分に気づく。どこかで、三雲と仲良くなれるかもしれないと自惚れていたのだ、と仲は自嘲する。

「…」

 机の端に置かれたレシートを取る。

 仲も店を出ることにした。

 下を向いて歩いていたので、仲は前の様子に気づかなかった。出口に向かっていた三雲はUターンして戻って来ていた。

 仲は虚をつかれた形になった。

「待て仲くん」

 歩みを緩めることなく、進行方向に仲という遮蔽物があるのに変わらない速度で、三雲は仲の服のフードを後ろ手で掴んだ。気管が圧迫されて、デモの鎮圧隊みたいに、乱暴に連れ戻された形で仲は椅子に座らされた。

「けっけほっぐぇほ」

「仲くんは芸術学部って言っていたな、その里村教授がどこにいるかって分かるか?」

 まともに呼吸できない仲の様は軽く事件だろうに、向かいに座った三雲は気にせずに話しつづける。

「えあ、けほ、う、うん」

「冷静になったら腹が立ってきた、仲くん。普段からそいつにこき使われてるんだろう。正直に言え」

「あ、いつも、よく頼まれてて…」

「学生の善意に漬け込んでタダ働きさせるとはとんだ不届きものだ」

「えと、…どうしたの?」

 三雲はぐっとお冷を煽った。残っていた水をごくごくと飲み干して喉仏がビールのCMのように動くのを仲はただ見ていることしかできない。

 ドン!と空いたグラスが勢いよく机を叩いた。

「成敗してやる!」





 酸素が供給された頭で状況を把握して、それから止めるには彼のスピードは早すぎた。

「あ、あの、用事はいいの、かな」

「いい、急ぎでもない」

 あっという間に学校へ舞い戻り、三雲と仲はD棟の入り口近くの花壇を横切った。喫茶店で話していた体感時間は長くは感じなかったが、朝に雨が降ったはずの花の表面は乾いていた。それほどまでに凝縮された時間だったようだ。

 三雲はD棟の扉を開けた。教授は研究室にいるのでは、と伝えると、では向かうならそこしかないなと言うことになった。こうも芸術棟を堂々と闊歩する三雲が教授に会って何をするのか、仲は怖くて聞けていない。いざとなれば止めなければともたつく足で必死に着いていく。

「里村教授はどんな格好のやつなんだ?」

「え?…知らないの?」

「ああ」

 仲は、うなづく三雲にいまいちピンと来ないまま答える。

「長めのポニーテールでよく白衣を着ているかな。鋭い感じの、美人だと思う」

「ああ、女なのか」

「えっそれも知らなかったの?」

「仕方ないだろ、会ったことがないんだ」

 三雲に芸術棟の中を案内したのは仲であるため、三雲が迷いなく階段を上り、研究室を目指すのに仲は驚かなかった。三雲がノックをせずに研究室の扉を開けようとして、なんのつっかえもなく開いたのには驚いた。

「不用心だな」と三雲は言った。指輪がなくなったって言うのにまた閉めてないのか、と仲は同意した。

 研究室には誰もいなかったが電気はついていた。

 1人の制作者のアトリエにするにはちょうどいい広さの部屋には人間大の蝋人形が窓際に数体天井から吊るされている。1年の時と同じく、2年になり移動した研究室も教授のアトリエと化した不気味な室内に三雲は入って行った。

「…だ、誰もいないのに入るの」

 仲は入り口から呼びかけた。

 里村教授の研究室には物が多い、壁際に備えられた段数の多い棚には色々な物が置かれている。講評の際に並べられるほどには中央にはスペースが開いている。水道はない。部屋を見渡した三雲は入り口横の棚に目を止めた。

「仲くん、それはなんだ?」

 仲はどれを指しているのか分からなかったが「その、青色の」と言われれば分かった。棚の中段には青色の粉が入った小皿があった。

「…え、絵の具だよ」

「絵の具?仲くん。俺を馬鹿にしているのか」

 三雲にじと、と見られる。

「これは粉だ。粉は絵の具じゃない」

「ば、馬鹿にしてないよ。水に溶かして色にするんだよ。ラピスラズリは高いから、こんなに量があったら相当な金額すると思うよ…」

 青色のアクアマリン、鉱石の一種だ。フェルメールの色として有名なその色は部屋の中で輝いている。仲は鉱石から色を抽出する授業を受けたことがあった。

「流石によく知ってるな。そんなものがあるのか。その赤色はなんだ?」

 三雲はあっさり納得すると背の高さに指をスライドさせた。

 棚には一般的なラベルの七味があった。

 手に取りやすい位置にそれは何本も置かれている、サプリメントのように、健康保険食品のように、精神安定剤のように…。仲は、教授は唐辛子とか食べてストレス発散していると香川が言っていたことを思い出した。

「見たまんま、七味だね…」

「七味、調味料だな」

 三雲は棚に近づくと、七味を手に取った。

 ラベルの裏側を軽く見る。

「急拵えならこんなものか」

 三雲は赤い蓋を開けて、青い粉の小皿の上に逆さまにした。

 どさっ

 重力に従って、赤色が落ちる。

 こんもりと、澄んだ青色に真紅の赤が覆い被さる。

 三雲は料理の仕上げのように七味を振って最後まで出し切った後、空になったそれを下に落とした。

 音を立て、残った赤色が床に放物線を描く。

 あたかも自然に、何かの弾みで棚から落ちてしまったみたいな偽装工作を三雲はやり遂げた。

「わっはっは、正義の鉄槌だ」

 驚くことに三雲が部屋に入ってこの間、1分もなかったと思う。三雲は外に出てきた。ぺかー、と笑みを貼り付けて仲の前に立った。

「さー帰るか!スカッとした、慈善活動をした後のような爽やかさだな、よく眠れそうだ!」

「……」

 こんな話を聞いたことがある、証拠を残さないスピード犯罪は捕まえにくいのだと。言い方が悪いが、仲は三雲が初犯だとは思えなかった。

「あ、そうだ、仲くんに言いたいことがあるんだ」

「ひ、な、なんですか」

「何を怯えてるんだ。いやな、俺はここに来るまでに少し考えていたんだ、俺だけってなんか不公平じゃないか、と。俺だけ仲くんに自分のプライベートを赤裸々に暴かれている、仲くんは不公平だと思わないのか?」

「…え」

「だから、仲くんも秘密を打ち明けろ。よし、これで対等だ」

「……はい」

 仲は三雲に無理やり聞き出してはいない。三雲が自発的に話してくれたことだが、仲は三雲のかなりプライベートな秘密を聞かされた認識はあった。

 対等と言う要望であれば、求められる秘密は同等レベル、と言うことになるのだろう。

「そう、だな。大したものはないんだけど」

「うん」

「…僕も、精神科に通っているんだけど」

「さっき言ってたな」

「幻覚が、見えるんだ。ネズミの幻覚、ずっと前から、中学くらいから、それが見える」

「そうなのか」

「…」

 三雲は考え込むように口に手を当てた。目を閉じて、長いまつ毛が縁取るのを、仲は緊張した面持ちで見ていた。

「あ!いいことを思いついたぞ仲くん。そんなことより、俺は仲くんの絵が見たい。秘密の共有なら絵を見せてくれないか」

「え、あ、うん、いいけど」

「決まりだ、行こう!アトリエがあるんだよな」

 三雲は元気よく足を踏み出した。




 

『こなくそーこなくそー』

 ネズミが椅子の上で飛び回っている。ちょろちょろと動きまわる姿を目で追って、紙の上にペンを走らせる。幻覚というだけあって、細部を見ようとするとぼやけてしまう。

『勇気出して話したのに、興味ないのかー』

 もう一枚描き、床に置く。

「うるさいぞ」と仲は小さく言ってペンを置いた。

 アトリエの窓際にはすらりとスタイルのいい三雲が立っている。天井の高いアトリエで見る経済学部の三雲は、芸術学部には異物のはずなのに空間に馴染んでいる。じーとイーゼルにかかった絵を見て、ぱっと横の絵に移動する。

 さっきからずっとこんな調子で、一枚一枚じーと見て、また次へと歩き回って、これで3週目。このアトリエにある絵はすでに全て身終えているはずだ。仲は、最初は色々と説明してついて回っていたが、自分のスペースに座って彼が飽きるのを待つことにした。手持ち無沙汰だった手を慰めるように描いていたネズミの絵は5枚目になっている。

 これ以上は、香川に見せるためという名目じゃ多すぎるだろうか。走り回るネズミの絵を並べて見てみると、鳥獣戯画みたいだと仲は思った。最新の絵の方が線が良くなっている。昨日のネズミの絵を持っていないから、昨日のネズミと今日のネズミは違うのか、同じなのか、仲には分からなかった。そんなこと、今まで気にしたこともなかったが。

 仲がネズミの幻覚を見始めたのは中学の頃だ。

 最初は本物のネズミなのだと思って捕まえようとしたがいっこうに捕まらないそれを、母親に相談したところ病院送りとなった。大きな大学病院で何ヶ月か過ごし、完全に解放されたのは中学2年くらい。治療の中で仲の症状は改善も悪化もすることなくネズミの幻覚とはずっと付き合っている。

 作業療法と称して絵を描き始め、なんとなく入った美大だが香川に言われるまでネズミの絵を描くなんて発想はなかった。

 通っている精神科の先生には、見えている世界の共有が大切なのだと仲に教えてくれたことがある。

 仲は今日初めて、自分から見える世界を他者と共有した。

 本当は逆なのだろう、と仲は思った。仲が他者の見えている世界を共有して、自分の世界の調節をしないといけないのだろう。

 不本意だが、この幻覚が香川の興味を仲に繋いでいるものだった。彼女が喜んでくれるものだから、悍ましいと思っていた幻覚に仲は価値を感じ始めていた、だがそんな価値観は三雲にはなかった。幻覚に対して、三雲の反応は無だった。

 幻覚が見えることは、プラスの要素になることは極少ない。香川が特別だったのだ。

「なあー!仲くんー!」

「っ、な、なにっ?」

「この絵ってなんの絵だ!」

 仲は慌てて三雲の横に行った。

 三雲の前にあったのは、香川の絵だった。

 今の課題の「好きなものを描く」という絵。昨日見た時には具象的にモノの形を描いていたが、書き進めるにつれ輪郭を分からなくしている。色味の鮮やかさの方がモノの輪郭より先に来る、綺麗な絵だ。

「これは多分、靴と瓶じゃないかな」

「これが?」

「うん、一回崩してるから分かりづらいんだと思うけど…この、丸は分からないけど」

 記憶と照らし合わせて、指差しながら説明する。三雲はそれを聞きながらも納得のいかないような感じだ。

「まぁ、芸術学部の仲くんがそういうなら、これは靴と瓶の絵なんだろうな」

「…香川さんがここにいれば、この絵について聞けるんだけどね」

 描き途中であるこの絵がどのようなゴールを目指しているかは分からない。輪郭を崩したここから全く別の絵が浮き上がってくる可能性はある。

「この絵、好きなの?」と仲は聞いた。

「え?いや、俺は仲くんの絵の方が好きだ」

「えっ、そ、そう、」

「パンチがあっていい!」

 三雲のリップサービスに素直に喜ぶことはできなかった。

 木炭でグチャグチャに描かれた桜、迷いがキャンバスに投影されてしまった真っ黒な闇は、明るい香川の絵とは比べるべくもない。

「…ありがとう。あの、さ、三雲くん、ほんとにいいのかな、ここに長居してて」

「ん?ああ、まだ不安なのか。扉閉めた反動で落ちたって思い込むだろう。それに、青に赤が混ざっていい感じに紫になっていいじゃないか」

「ええ…」

「なんだその反応は。違わないはずだ。赤+青=紫だと、俺は本で読んだことがあるぞ」

 表面だけ削げば…くらいのぶっかけ方ではなかった、細かい粒子は沈みこんで内側までダメになっているだろう。それに水を入れればどんな色なるのか、いい想像はできない。

「光だったら綺麗な紫になると思うけど…青に赤混ぜても紫だけどすごい、汚い色になると思うよ。聞いたことないかな、光の三原色と色の三原色…。光は混ぜていくと白に近づくけど、絵の具は混ぜていくと黒に近づくんだ」

 加法混色と減法混色。仲も、鮮やかな色をたくさん混ぜれば綺麗な色になると思っていた小学生の頃に、黒に近づいていくパレットを見て落胆したことがある。

「聞いたことはないな。どっちもおんなじ色なんだろう?混ぜて作った暗い紫でも、絵の具チューブの紫でも。どちらも紫であるはずだ」

「…鮮やかな、原色の方が綺麗だよ」

 香川の絵を見れば、鮮やかな色が心に与える印象がわかる。香川の絵は人を惹きつける。

 大胆な色彩を使いつつも、細部には繊細さが宿っている、誰が見ても魅力的だと言うだろう。原色を危なげなく使い、赤と黄色が目に刺激を与える。

 油絵を普通に描くと、色は画面上で混ざってパレットの上での色の鮮やかさは消えてしまうものだ。濁りをうまく使用して絵を完成する人はいるが、香川の場合は溶き油の使い方が上手い。表面に定着させて色の混じりを防いでからペインティングナイフで大胆に色を重ねて行く描き方、そうすることで原色の輝きを残しつつ絵に立体感を持たせることができる。

 考え方は分かっても仲はそれをできない。

 仲は絵を描くときにある程度の完成を想像して描くが、大抵成り行きによってできたものを提出してる。色が混ざれば、あ、混ざったな、くらいでそこからアイデアを広げていったりできない。だから、大抵同じような完成になる。好きなものって言われて目についた窓の外の桜を描くほどには想像力が貧しい。

 香川の絵はいつも新しい絵が出来上がる。この世界になかったものを作ることができる、それは間違いなく才能だ。

「そんなものなのか。俺に絵は分からないな」

 三雲は10数秒ほどじっとみて、絵から離れた。

「あれ、仲くん?来ないって言ってなかった?」

 振り返ると、香川がアトリエの入り口にいた。

 仲はこそり、と三雲に「どうする?」と聞くと、カラッとしたように「帰る」と言われた。興味を持っていたのは香川の絵だと言っても「そうなのか」とだけ返して来そうな三雲を、仲はこの場に止まらせる気は起きなかった。

「もう帰るつもりだよ。…香川さんは絵を描くんだね」

「ううん写真だけ。わたしも、ぱっぱっと撮って今日は帰るの。どうせ明日は実習あるし、行き詰まった時に描き進めても良くないからね」

「そ、そう…」

「そっちの人はどなた?」

 近くまで来ると、香川は自身の絵にスマホを構えて聞いてきた。香川は途中経過の絵を写真で収めるのだろう、と仲はなんとなしにその光景を捉えていた。

 カシャ!と、フラッシュが焚かれた。

 仲は、横にいた三雲の身長が急に縮んだと思った。

 驚きながらも、咄嗟に腕を掴む。仲より華奢でも同じ身長の体を手だけで支えることはできない。支えきれず、体は床に膝をついて、鈍いと音と共に止まる。

「え、なにっ?!この人、どうしちゃったの?大丈夫なの?」

 香川は見ず知らずの男がなぜここにいることもよく分かっていない、この場で、仲だけが三雲の身に起きたことを理解できていた。

 気絶したのだ、カメラの光で。

「だ、大丈夫だと思う」

 ぐったりして、下を向いた顔を覗く。

 瞼をゆっくり瞬かせる。何度か瞬きをして、開かれた薄い瞳と目が合った。

「…あ、、きみ、は」

 気弱な表情に、仲は確信を持って名前を呼んだ。

「…一峰くん、立てる?」





 一峰は足取りがふらついていて、医務室に寄ることを仲から提案した。激しい転倒はなかったものの、支えきれずに膝を痛めてしまっただろうことは疑いようがない。「とにかく一回見てもらおう」という仲に、一峰は抵抗もなく従ってくれた。

 心配そうな香川をアトリエに置いて、仲は一旦2階の休憩スペースに一峰を座らせた。「ちょっとだけ待って」と、一峰が立ち止まることを希望したからだ。携帯を取り出して時間を確認する一峰の仕草は慣れている。医務室に行こうという提案を断らなかったのは、行き慣れているのかもしれない。こう言う事態が頻繁にあるのであれば、対処も冷静になるのだろう。

「え、ときみは、その…」

 一峰は携帯をポケットに入れると、言いづらそうにした。

「え?あ、そうか…」

 “彼”には名前を言っていなかったのか、と仲は気づいた。彼とは仲は未だほぼ初対面だ、なんだか不自然な気がしたが、軽く自己紹介をしてすぐに膝が大丈夫か聞いた。一峰は間の後、少し痛いな、と呟いた。

「でも、たいしたことない。歩けるよ。…仲くんは、その」

 同じ声なのに三雲が呼ぶのと、一峰が呼ぶのでは違うように仲には聞こえた。

「ここ、芸術学部だよね。俺が自分からそんな場所行くわけないし、仲くんが俺をつれて行ったんじゃないかな」

「あー、あ、えっと…そうなんだ、ごめん 一応、僕は芸術学部にはいってて」

「芸術学部なの?」

「うん、そうだけど…、えっと」

 どう説明するべきか、と口を開こうとして。

「ぎゃあああ!」

 まるで死体の第一発見者のようなつんざく悲鳴が、棟を駆け抜けた。

「なにごと?!」

 香川がアトリエを出て、悲鳴が聞こえた研究室に走っていく。

 教授が帰って来たのだ、と仲は思った。気が動転していて階段を上がってくる音に気づかなかった。研究室は休憩スペースから壁によって見えない。がらり、香川が研究室のどびらを開けた音が聞こえる。何やら騒がしい声たちを詳しく聞き分けることはできない。

 仲は冷静なものだった。推理小説ならあまりに冷静なので最初から事件を知っていたのではないですかと探偵に詰め寄られる容疑者がごとく、いや、頭の中でそう表現してみたが間違っていない。

 一峰は小動物のように身を固くしている。

「…あ、多分、大丈夫だと思うよ…、どうしたんだろうね」

 仲は、里村教授の間抜けな悲鳴を聞いても三雲のようにスカッとすることはなかった。

 犯人はとぼけた顔でそこにいた。 

「そう、あの、…助けてくれて、ありがとう」

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