第1章  関ヶ咲 歩1 最初の依頼


 1 4月24日


 


『更新まだかな〜(*´꒳`*)』


『このサイトも有名になってきたな、女っぽい奴の書き込みもあるし、幅広くアクセスあるのか。女って未解決事件とか好きなの』

 

『こいつネカマだよ IPアドレスバレてんぞおっさん』

 

 『まじ?どこでネカマしてんだよw』

 

『前回の事件がほとんどあってたから伸びてる 推理も合理的で読む価値がある』


『SNSの拡散がでかい』

 

『これからも管理人の推理に期待してる、まじで!前回みたいに言い当てて!!』


『FX投資!


『FX投資!


『FX投資!



 

 

「だあああ!スパムこいつ消しても消しても書き込んできよる!不死鳥か!」

 決して深くない許容を超えた時点で、狭い室内に俺の声が響いた。

「住み心地がいいんだろ」

 俺の叫びに対して、随分落ち着いた声が帰ってくる。

「関ヶ咲のサイトは人が多いわけでも少ないわけでもないから、自然と目に留まりやすい」

 大学のサークル棟、通称C棟の奥にひっそりとあるお世辞にも綺麗とは言えない物がガチャついた教室で、机を挟んど向かいに1人の男が座っている。文学科の椰代は白い布団を頭からかぶって、まるで人気のないお化け屋敷のクオリティの低い幽霊みたいにそこにいる。意外なほど端正な顔立ちは、揺るぎなく手元の小説に向けられている。

 その後ろの窓の外でたゆたうように、一枚の桜が流れた。

「なに勝手に住み着いてんねん…」

 なんとも変で、緩やかな風景を見た俺は苛立ちを吐き出すように息をつく。

 ペラ、と紙が擦れる音がする。

 椰代は小説から目を離さないままに嫌味な言葉を続けた。

「さっきからコメントをずっと読んで、よく飽きないな」

「…スパム対策しろってうるさく言われてんねん、消さんといけんやろ」

「ブログの調子はいいみたいだ」

「おかげさまでな、荒野だったコメント欄に変なのが湧くまで盛り上がってきたわ」

 俺も目線をノートパソコンの画面に戻した。

 画面には前回の記事に対するコメント欄が表示されており、またもう一回、スパムに該当するコメントの削除をクリックした。

 

 虚しくなるので一時期は回転するカウンターを見るのをやめていたが、前回の記事を上げてからカウンターはかなり増え始めている。

 回り始めたのは、コメントの言う通りSNSの拡散によるものだと思われる。

 前回も引き続き椰代の推理を下に未解決事件の考察をまとめて載せたのだが、先日、長らく未解決だったその事件の犯人が捕まったと言うニュースが流れた。それが、俺の記事の内容でほとんど犯人像が当たっていたというのだから驚きである。有名な事件だったため他にも考察しているサイトやチャンネルはあったが、俺の公開した記事が唯一的中していたということで、ありがたいことにSNSで拡散されている現状だ。

 最近やけにコメントが来るな、と思っていたが、どうやらアクセスが伸びているらしいとコメント欄を見てみれば、スパムが連投される無法地帯になっていることに気付いた。管理人、対処しろよ、という乱暴な言い振りのコメントもいくつか目にし、俺はしぶしぶ対応に追われているわけだった。

 しかし、このスパムはどうやっているのか知らないがコメント毎に巧妙にアカウントを使い分けていた。最近は巧妙な業者によるスパムが多いらしい。管理者権限によりIDをブロックしても一斉に消えることはなく、一件一件をクリックしないといけないわけだ。



「…はぁ」

 かち、かち、かち

 そんなこんなで30分近い地道なスパムの掃除も感覚的には5割は進んだあたりで、パタン、と本を閉じる音がした。

 椰代が本を読み終わったらしい。

 椅子の下に置いた鞄に本を入れ込み、また新しいハードカバーの本を手にしている。

 俺は段々とクリックする指も疲れてきて、椅子の背もたれに背中を預け、窓の外に目を向けてみる。

 ついこの前まで満開だった桜は、先日の雨でほとんど散ってしまった。

 地面にこびりつく茶色く変色した桜の花びらを俺の心情に当てはめてもいい、とふと考える。これが有名になると言うことなのだろうか、と。

 それでも、以前の俺よりは何十倍もマシだ。

 ネット上で何者でもなかった自分に戻りたいとはかけらも思わない。

 2ヶ月前、留年が決まり人生の底にいた俺は、自暴自棄になって大学中退を視野に入れていた。冥土の土産にと久しぶりに大学に顔を出し、食堂で将来という強大な壁についてツラツラと考えていた俺に声をかけてきたのが、目の前に座る椰代だった。

 

『捨てる神がいれば拾う神もいる』


 椰代はうどん定食が乗ったお盆を両手に、そう言った。


『関ヶ咲、人生で一発逆転を狙う方法なんて限られてる。すなわち、デイトレイダーになるか、起業するか、クリエイターになるかだ』

 

 怪しいセミナーのような文言を放った男の背後に何を見たのか、俺はまんまと乗せられ言われるままにブログを開設し、宣伝用のTwitterを作り、椰代の言う通りに記事を書き更新した。

 未解決事件専門の考察サイト。

 一定の需要があり、サイト数は少なくリピーターを狙いやすい。

 1ヶ月に一回の更新ペースのサイトが2回目にしてバズってしまったのは、タイミングもあっただろうが椰代の才能以外の何でもない。

 自分でも現金だと思うが、俺の精神状況は地獄の底のようだった以前とは違い「家にいても暇だから大学に行くか」というまともな思考ができるまでになった。それは自分が世界に存在していることへの他者の保証からだ。承認欲求とは人の抱える業だが、ブログの管理人として社会の誰かに認知されているという承認によって、俺は人並みに満たされ、安定した。

 この調子でブログが有名になれば書籍化の話が来るかもしれない、という希望さえ湧いてきている。

 そうなれば夢の印税生活の幕開け、忌々しい就活とはおさらばである。

 一時期の不登校で単位が足りなかったため留年してしまった俺は近々来るべき就活が恐ろしくてしょうがないのだ。

 


「にしても」

 俺はパソコンが乗った机に頬杖をつき、部屋を見渡す内に出てきた感想を口に出す。

「この部室、相変わらず物置みたいやな。このサークルはほんとに大丈夫なんか?」

 様々なサークルがひしめくC棟の一番奥にあるこの部屋は、最初に連れられて訪れた時には椰代が入る部屋を間違えたのかと思ったくらいには完全なる物置だった。

 中にあるものは薄汚れた机、壊れた時計などいわゆる処分に困る粗大ゴミが多かった。足も踏み場もなかった状態から椅子と机を救出してこうして読書やパソコンが扱えるくらいには空間を整えた(手伝わされた)のだが、避けただけで物が無くなったわけではないので壁側の粗大ゴミの高さが上がっただけである。A型が見れば発狂物だ。

「大丈夫ってなにが?」

 椰代はこの部屋の汚さに少しも思うところはないように言った。俺は言ってやった。

「新入生勧誘ってあるやろ、あの、大学の入り口でなんも知らん新入生をあの手この手で誘い込むやつ。チラシ配って興味持ってもらえても、こんな部屋見せたらすぐ帰るぞ」

 入学式を終えて春先になると、各サークルは新入生勧誘に力を入れる。大学新一年生なんてキラキラした大学生活を送りたいと夢想する無知な子鹿だ。すでにあらかたの生徒は唾をつけられひょいひょいと囲まれているだろうし、こんな狭い納屋のような部屋に来たがる物好きがいるとは思えない。

 椰代は俺と目を合わせることもなく、ぺら、と紙を捲る。

「ああそれは気にしなくていいよ。まだ俺たちはサークルって認められてないから、校門前でチラシ配りの権利はない」

「は?」

「サークルの申請には5人必要みたいなんだ。俺と三雲さんと関ヶ咲で3人、あと2人だな」

「なんやそれ、思った以上にあかんやんか、ここ」

「言ってなかったっけ」

 聞いてない。

 椰代にはこのなんだかよく分からない探偵サークルについて、住処にしている拠点があると聞かされていた。変な言い方だとは思ったが、部室ではなく拠点だと言ったのはサークルではないから、ということだったのか?

 この部屋の入り口には一丁前に急拵えの依頼ポストとラミネート加工された看板がある。それは俺がきた初日から取り付けられてあったはずだが…。

 C棟に来るまでに本校舎の掲示板の前を通った際にも色とりどりな気合いの入った勧誘ポスター達の中に、探偵サークルと白地にマーカーで書かれた簡素なポスターが貼ってあったはずだ。

「聞いてたら驚いてないわ、てか、掲示板にポスター貼ってたやろ。あれも無断なんか」

「サークルの現状は関ヶ咲にはあまり関係ないだろ、記事が書ければいいんだろ?関ヶ咲は」

 質問に対する返答はなかったが、肯定だと捉えてよさそうだ。

 この部屋が無断使用であれば、俺たちは空き地でたむろしている不良と変わらない。

「…とんでもない不良サークルやないか、怖っ!とはなるやろ。ここにおれば一員として見られるやろうし、俺、怒られたくないねんけど」

「あーそう、辞めてもいいけど記事は手伝わないよ?」

「だ、誰が辞めるって言ったんや?」

「ああ、そう言ってなかったのか」

 椰代は顔を上げ、猫みたいな目でにやり、と笑う。

「…先行きが不安ってだけや。その、三雲さんって人もおらんしな、俺は一度も会ってないんやけど、その人が探偵サークルを立ち上げようって言い出したんやろ?」

「自由な人なんだよ、多分。俺もあんまり話したことないんだ。どこにいるかも分からない、ミステリアスな人でさ」

 そんな人とサークルを立ち上げるて、どんな経緯なんだか。

 俺は、話しながらも本をめくる手を止めない椰代から視線を外した。パソコンのブルースクリーンを解除する。

「暑くないんか、それ」

「まだ暑くないね」

 俺にとっては2回目の、大学一年の春。

 カーテンがなく日焼けした床、柔らかな日差しが遮るものもなく淡く部屋を包んでいる。

 椰代が常軌を逸した寒がりでもなければ防寒目的で大学で布団を被っているわけではないんだろう。

 最初にその姿をここで見た時は笑いどころかと思ったが、足繁く通って2週間目にもなれば、連日の雪ん子スタイルをそう言うものなのだと受け入れるようになる。

 前に椰代に聞いた時、「この方が落ち着くんだ」と言われたっけ、俺にはよく分からない感性だ。邪魔で仕方ないと思うのだが。

(夏はどうするつもりなんやろ)

 部屋にはクーラーが一応設置されているが、見たところ埃がかぶっていてかなり古い。正常に動くことはあまり期待できない見た目をしている。部屋の片付けを手伝わされた時にある程度の物の把握をしたが、ここには扇風機もないようだし。

「変わった奴やなって言われんか?」

「ないな」

 さして感情も乗っていない淡々とした声が返ってくる。

「誰もがほどほどの距離感で人と接するものだろ。面と向かって言ってくる失礼な奴は関ヶ咲くらいだ」

 減らず口を叩くと、椰代は片手で器用に本を閉じて立ち上がった。

 被っていた布団を軽く畳んで椅子の背もたれにかけている。

 コーヒーでも淹れたくなったのかと薄っすら考えていれば、椰代は「こんな時間だ、そろそろ行こうか」と言った。

 まるで予定をしていた用事の時刻になるまで待っていたかのような言い振りに、俺はマウスを動かす手を止めた。

「は?どこに」

「芸術学部」



 


 俺たちの通う大学は、経済学部、文学部、国際学部、などのゼミ室や講義室があるA、B棟(本校舎)とサークルの部室が集まるC棟。芸術学部のアトリエ、研究室があるD棟に分かれる。

 芸術学部とサークル棟は比較的新しく出来たらしく、キャンバス内でAB棟から離れた立地に立っている。AB棟が校門から入ってすぐに並んであり、C棟とD棟に左右に枝分かれしているような形だ。

 必然、サークル棟であるC棟から出てD棟に向かう途中には、本校舎の側面が目に入る。

 本校舎の壁側には大きな掲示板があり、バイトの募集や、大学に存在するサークルポスター達がスペースを奪い合うように貼られている。その中の端の一枚に“探偵サークル、依頼募集中“とだけ書かれた明らかに手抜きだと分かる手書きの白い紙がある。

 ひどい点はいくつかあるが、第一には探偵サークルがどこにあるかさえ書かれていないのは致命的だろう。ポスターとも呼べない完成度に、見るのは2度目ながら俺は呆れた。

「これも無断なんやろうな」

「三雲さんが貼ってたんだ」

 なにか言われた時は他人のふりした方が良さそうだ。

 椰代もそうだが、三雲さんと言う人も相当らしい。

 やる気があるのかないのかよく分からない人だ。

 道の脇では、清掃員が地面に落ちた桜の花びらを回収している。水分を含んでアスファルトにこびりついた花びらに苦戦している大変そうな後ろ姿を通り過ぎて、前を歩く椰代がD棟の分厚い扉を開けた。

「芸術学部の棟は広くていいな」

 芸術学部の廊下を堂々と歩く椰代は呑気にそんなことを言う。

 芸術学部はAB棟より後から出来たと言うだけあって新しめだ。

 進行方向から見て右側にいわゆるアトリエがあり、かなり広い。作業中なのか、人は大勢いるようだが静かだ。左側には休憩スペースがある。芸術は集中力をつかう作業であるからか本校舎よりも充実しているように見える。

 テーブルと椅子たちと、自販機たち。おそらく共用の冷蔵庫、自販機、電子レンジまで置いてある。もしここに閉じ込められても、食料があればここで暮らせそうでうやましいと思ったのも束の間。建物の中には嗅いだことのないつんざくような独特な匂いが充満しており、鼻を塞いだ。

「綺麗やけど…なんか変な匂いすんな」

「テレピンの匂いじゃないか?」

「なんやそれ」

「絵の具を定着させるための乾燥油。油絵具はアクリル絵の具とは違って乾燥が遅いらしい」

「そんなんあるんか、やってたんか?」

「ここに知り合いがいるから世間話で聞いてただけだ」

「ふーん」

 広々とした廊下を渡り、研究室と書かれた扉の前、行き止まりにある階段を上っていく。

 普段使用する棟よりもここには音がないため、静かな空間で2人分の靴の音が響く。

 意外にも棟内の匂いに慣れるのは早かった。

 俺は鼻を塞いでいた手を外した。

「で、なんのためにここに来たんや?ここで展覧会でもやっとるんか」

「残念だけど、もし展覧会に行くんだとしたら関ヶ咲は誘わないよ。つまらなそうな顔をされるのがオチだな」

「こっちだって願い下げや。でもここに読書の息抜きをしに来たわけやないやろ。出不精のお前が積極的に動くところなんかよう見んからな」

「よく分かってんじゃないか」

 前を進む椰代が軽く笑った音がする。

「三雲さんがポスターを貼ってくれたおかげで、初めての依頼がポストに舞い込んできたんだ。芸術学部にはその捜査に来たんだよ」


 

 椰代が言うには、サークルが存在していないため明確な義務はないが、俺も探偵サークルの一員としてあの部屋にいる以上着いてくるのは当たり前だろう、と言うことだった。

 特に反論もしなかった。まさか本当に依頼が舞い込むことがあるとは思っていなかったため驚きではあったが。

 探偵サークル(仮)の扉の前ある「依頼を投函してください」と書かれた簡易ポスト、あれを見て依頼しようと思うやつがいるとは。信じがたい。世の中、色々な人がいるものだ。

(冷やかしやったら目も当てられんが…)

 俺は椰代と一年時からの付き合いなわけだが、ほとんど腐れ縁と呼んでいい関係の中で、椰代の頭の回転の速さを目の当たりにすることは幾度もあった。その度に俺は自身の才能のなさに打ちひしがれて来たわけだが、依頼という形となると、顔も知らない依頼人の評価軸によって椰代の能力が測られる機会だと言うことで。

 どんなふうにこいつが捜査をするのか、興味がないと言えば嘘になる。

 あんなポスター見て依頼してくる奴がどんな奴なのかも…、変人か、嫌がらせの可能性は捨てられない。

(そうなったら慰めくらいはしてやるか)

 俺の運営する考察サイトが盛り上がっているのは全てこいつのおかげだ。

 礼儀として、それくらいの対応はして然るべきだろう。



「芸術学部にはデザイン系もあるらしいけど、一階と二階は油画科なんだろうね」

 2階に着いても鼻をつく匂いは変わらなかった。

 顔に出ていたのか、廊下に出て振り返った椰代はそう言った。階数は4階までだからデザインは3階からか、と予想を立ててみる。2階は1階と作りの差はなさそうだと見渡していると、椰代が足を止めた。

「椰代?芸術学部に何の用だ」

「里村教授」

 前には30、40くらいの妙齢の女性が道を塞ぐように立っていた。

 堂々な出立で、長い黒髪を後頭部でまとめたポニーテールが印象的な小綺麗でかっこいい女性だ。人によってはブッ刺さるタイプだと思われる。脇には大きめの黒いカバンを持っていて、これから階段を降りるところだったようだ。

 俺は初対面だが、2人は顔見知りらしい。

 椰代の顔は広く、癪だが俺よりも断然に知り合いは多い。

 同じ文学科の椰代がどうやって芸術学部の教授と交流を持てるのかは知らない。しかも、里村教授と呼ばれた女性は愛想がない(ぴくりとも愛想笑いがないため怖そうに見える)いかにも気難しそうな感じだ。俺自身がそういった男女に対して苦手意識を持っているため、椰代の世渡りの能力に内心で舌を巻く。

 思い返せばいつだって、椰代は人の中心に立っている。俺が留年するまえの去年のゼミでも人に頼られている場面は多かった。友達というわけでもない微妙な距離感の俺から見てもそうだったのだから、椰代には人を惹きつける力があるのだろう。

 なぜか、やる気はないのでゼミの提出物などで評価をされることはないのだが、真面目にやればもっと上にいけるだろうに。ほとほと勿体無いやつだと思う。

「窃盗事件があったらしいじゃないですか。その調査に来ました」

 椰代の言葉に、気の強そうな里村教授の眉が僅かに吊り上がった。

「誰から聞いた」

「いくら里村先生でも、依頼人への守秘義務があるので言えませんね」

 里村教授はフ、とそこで初めて笑った。

「守秘義務か、楽しそうだな。好きに調べればいいが私は席を外すぞ」

 教授はカバンを持っていない左手でチョキを作り口元に当てた。タバコの動作だ。

「はい、生徒から話を聞かせていただきますね」

 里村教授は長い髪を翻し、階段を降りて行った。

 カツカツ、と階段を降りるヒールの音が棟内に響く。

 一度見れば忘れないと思える存在感のある女性だった、本棟の教授群にはあまりいないタイプ。

「誰かがなんか無くしたんか、窃盗事件って」

 進み始めた椰代の横に追いつく。

「里村教授の結婚指輪だ」

「けっ」

 帰ってきた返事に声が出そうになり、口を窄めた。

「…里村教授って、さっきの」

「ああ」

「結婚指輪て、大事件やないか。下手すりゃ100万とかするぞ」

「依頼人が言うには、下手をすれば刑事事件に発展するかもしれないとのことだよ」

 里村教授の左手の薬指に指輪は、なかった。

 振り返ると階段を降りていった教授の姿はもう見えない。

 あの反応から、依頼人は指輪をなくした教授ではないということだろうか。呼んでおいて好きに調べればいい、とはならないだろう。

 2階は1階と同様にアトリエと研究室側と、休憩スペース側で廊下を挟み左右に別れている。”里村教授”とネームプレートが扉に貼ってある研究室の前を通過し、その横のアトリエが目に入る。

 1階と違い、2階のアトリエは扉を開けて大っぴらにしている、キャンバスに向かい合っている人たちが廊下から丸見えだ。

 きつい匂いの換気なんかもあるんだろうか、開放的な部屋だ。天井が高く、スペースも広い。

「3日前、芸術学部2年の油画科専攻は課題の中間発表があった。講評の途中、結婚指輪の入ったカバンを置いて里村教授は席を外し、その日から指輪は見つからない」

 椰代はそう言った後に、するりとアトリエの中に入って行った。

 俺は消えた後ろ姿に慌てたが、アトリエを覗くと椰代は入り口の近くで止まっていた。

「ちょ、部外者が入っていいんか」

「見るだけならいいだろ」

 アトリエの中は廊下よりも匂いがキツかったが、匂いよりも刺さる視線が気になった。突然の部外者の訪問により扉に近い生徒からジロジロと視線が刺さる。ものすごい居心地の悪さを肌に感じていると「あ」と、入り口のすぐ近くに座る男が小さく呟いたのを聞いた。

 目を丸くしている声の主人は俺には見覚えのない生徒だった。

 その暗い目は俺ではなく、横にいる椰代を見上げている。

「仲さん、どうも」と椰代は爽やかに挨拶した。

「あ、は、はい…」

 仲さんという人が俯く姿は明るい室内で暗く映る。なんていうか、独特な雰囲気のある人だ。図体は大きいのに気が弱そうな様子が噛み合わない。

(この人が今回の依頼人か?)

 俺は横に立つ男に近づき、ひっそりと声をかけた。

「椰代、まず状況の確認をやな」

「ああ、とりあえず必要な要素は揃ってるみたいだ。芸術学部は水曜日から金曜日の3〜5限は実技実習の時間と決められているらしい。5限のこの時間に18人、全員アトリエにいる」

 紡がれる小さな声を聞き漏らさないように意識して聞き、頭で内容を整理する。

「…まぁ、少しづつ理解できてきたわ」

 俺は声を潜めて言った。

「犯人はこの中にいる、ってわけや」




 2


 


 探偵サークル(笑)とかいう弱小サークル(まだ正式に認定もされていない)に依頼する内容なんてどんなくだらないものなんだ、逃げた飼い猫を捕まえて欲しいとか、ちょっとした三角関係の浮気調査とかか?と呑気に考えていれば、結婚指輪の窃盗事件というまあまあ大変な事件だった。

 限りなくなかった期待値がぐんぐんと上昇していく。とはいえ、文学科である俺たちは芸術学部では完全な部外者だ。

 アトリエで真面目に絵を描いている彼らは、突然の闖入者である俺たちを怪訝そうに見る。このアウェーな状況で椰代はどう切り出すつもりなのか。

 立ちっぱなしの椰代を横目で見ても返される目線はない。

 布団をかぶっていない横顔は無駄に整っており、涼やかな目は先ほど話しかけたきり俯いてしまった仲さんを見つめている。

 ただ着いてきただけの俺が何を切り出せるわけもなく、横に突っ立って落ち着きなく周りを見ていると、静かな部屋に声が響いた。

「あの、絵画制作の見学をされたいんでしょうか?」

 動かない俺たちに痺れを切らしたのか。奥に座る1人の男性が立ち上がりこちらに歩いて来る。

 俺と同じくらいの明るめの茶髪だが、笑みを貼り付けた表情から俺より社交的な性格をしていると思える。

 椰代は「いえ」と返事をした。

「絵画を見たい気持ちはあるんですが、今日は別用です。ここで窃盗事件があったと聞いたので話を聞きに来たんです」

(…どストレートやな)

 と思ったが、椰代を止める気はまったくなかった。

 理由は簡単である、目立ちたくない。

「っ」

 茶髪の男は分かりやすく動揺したように見えた。

 男は俯いたままの仲さんの背中を見て表情に嫌悪の色が滲ませた、かのように見えたが、すぐに元の貼り付けたような笑みに切り替えた。

「誰に聞いたのかもどなたかも知りませんが、何故その、あなたに話をしないといけないんでしょう?」

 当然の問いに、椰代は答えた。

「俺は里村教授に、怪しい人物が誰なのか絞って欲しいと頼まれたんです」

(え)

「えっ」と隣にいた女子が声を上げた。

 全員が作業をしていて静まり返ったアトリエ内だ、普通の音量でもよく響く。

 ざわざわと生徒同士が顔を見合わせ、ひそめた話し声もしっかり聞き取れる。伝染するように複数の声が大きくなっていく。

「先生、やっぱり私たちを疑ってるんじゃ」

「なにそれ、ひどくない?」

「変だと思った、そうよ、昨日からずっと怒ってるじゃん」

「教授が怒って見えるのはいつものことだし、分かんないだろ」

 俺は次第に騒がしくなる室内で、聞こえないようにこそりと耳打ちした。

「そうなんか、依頼主は教授」

「そんなわけないだろ、適当に話を合わせろよ」

「………」

 さっきの教授の反応でそんなわけないか。分かってたわ。

(でも、そんな堂々と嘘をつくとは思わんやろ…)

 完全に椰代に色々と聞くタイミングを逃してしまっている。俺はとにかく、横に立って傍観に徹することにした。

 アトリエ内の話し声が落ち着くのを待たずに、椰代は本題に入って行った。

「だいたいの流れは教授から聞いています。里村教授の指輪が無くなった3日前の4/21は、ここで中間発表の講評日だったそうですね?」

 立つ茶髪の男とキャンバス前の椅子に座る何人かの生徒は互いに目を見合わせる。

 困惑したような顔で、いちばん手前に座るおずおずと1人の気の弱そうな女子が鉛筆をイーゼルの溝に置き、椰代を見た。

「…いえ、アトリエで講評はしてません。講評は隣の研究室でやりました」

「里村教授の研究室ですか?」

 先ほど通りがかった”里村教授”とプレートのかかった扉が研究室か。

 女生徒は渋々といったように頷いた。

「は、はい。光の関係で、アトリエだと絵の印象が変わると言うので、講評の際には6人づつ交代で研究室に作品を持って行って講評するんです」

「へえ、絵の見え方まで考えるなんて、芸術学部はこだわりが深いんですね」

 感心したような椰代の声に何人かが苦笑いをする。

「俺たちではないですよ」

「里村教授にはこだわりがあるみたいで、毎度のことですけど」

「なんだか、苦労されてるみたいですね?」

「まあ、…あっ、いや」

「教授には内緒にしておきます」

「えっ、あ、…お願いします」

 椰代が優しく微笑むと、遠くからくす、と控えめな高い笑い声がした。女生徒が迂闊な発言を揶揄われても照れたようにして満更でもなさそうなのは椰代の端正な顔が関係しているんだろうか、あまり考えたくはない。

 椰代はその後に「俺の知らない情報がいくつかあるようです。よければ、当日の流れを詳しく教えていただけませんか?」とすんなりと言った。人の警戒心を解くような自然な笑みとリズムに彼らはまんまと包め込まれたようだ。「えっと」と女生徒が思い出すように顔を上げる。

「おい、話すのか?」

 茶髪の男だけは止めようとしたが、周りの空気は椰代に取り込まれつつある。

「疑われてるなら、ここで言わない方が逆に怪しまれるわよ」

「そう、そうかな」

「えっと、当日の流れを言ったらいいんですよね。どうだったっかな…」

 入り口にいる生徒達も、奥にいる生徒もこちらを気にして作業どころではないようだ。

 周りの空気に押されるように、女生徒は立ち上がりアトリエの入り口から右側を指し示した(壁で見えないが研究室を指しているのだろう)。そのままスライドして、向かいの休憩スペースに指を向ける。

「3日前、その日も6人づつ講評していって、まだな人はアトリエで待つんですが、終わった人はみんな休憩スペースの方に行って喋ってました。終わった後は教授はずっと研究室にいて、その次の日には指輪が無くなったと言ってました。昨日から…教授は研究室に鍵をかけるようになったみたいです」

 今アトリエにいる人数が18人。研究室はアトリエほど広くはないから、6人づつが絵を持って講評していき、終われば休憩スペースに集まったのか、と俺は当日の流れを想像する。

 手間をかけるよりアトリエで全員分講評して仕舞えばいいのに、それが芸術家を芸術家たらしめる、こだわりってやつなんだろうか。

「絵を戻すために一度アトリエに戻ったのでは?」

「え?あ、いえ。講評の後に教授が一枚一枚写真に撮るから、全ての講評が終わるまでは絵は研究室にあって」

「全ての講評が終わればまた研究室に取りにくるってことですか。休憩スペースに行った人達は、手ぶらだってことですね」

「そう、です。そうよね?」

「うん、そう」

「皆さんが研究室に入るのはよくある事なんですか?」

「いや、講評の時だけです。研究室はほとんど教授のアトリエのようなもので、作業中なことが多いのでノックもあまりしないようにしてます」

「そうですか。ちなみに、講評が終わったのは何時くらいの話ですか?」

「あー、…講評が始まったのが3限の初めからだったから、最後のグループが終わった頃は…えっと」

 椰代の質問責めにあう女生徒を助けるように、こちらに向かってきたのはまた違う女生徒だった。

「14時半だよ、3限終了のチャイムがちょうど鳴ったもん」

「香川さん」

 香川さんと呼ばれたその女生徒は、えらく可愛い人だった。

 街中でも中々見ないクリーム色のセミロングが似合うほどには顔の造形が整っている。服装も鮮やかで少し派手にも思えるが、その派手さにその人自身が負けていないと言うだけですごい。

 きらきらとしたつぶらな瞳は椰代を見た後に、こちらを向き、俺はなんとなく逸らしてしまう。…俺はどういう立ち場でここにいるのか。彼女の視線からもそう思っているだろうと感じるが、俺だって分からない。

 まさか、ここまで直接踏み込んで情報収集をするとは思わなかった。これでは俺たちは第三者であるのに場をかき乱す厄介者である。

 俺は早々に、着いてきたことを後悔し始めていた。

「時間帯って、犯人を絞る上で重要なの?」

 香川さんは視線を椰代に戻した。

 彼女の砕けた口調によって、ピリついていた周りの空気が和らぐのを感じる。

「時間帯を聞いただけでは絞り込むことはできません。ですが、90分通しで講評というのは大変ですよね。終わってからずっと教授は研究室にいたと、先ほど言ってましたが、鞄が常に教授によって見張られていたことになれば、里村教授が俺に依頼するのはおかしいなと思いまして。講評が終わる前に、里村教授が生徒を疑うような時間の空白があったんじゃないかと考えることはできます」

「ほんとに、…あまり知らないみたいですね」

 茶髪の男が言った。椰代は「あまり時間がなかったのか、説明の途中でさっさと行ってしまったんですよ」と言い、男の目の剣呑さを気にも止めない。

「講評の途中で、小休憩タイムっていうか教授が席を外すことはよくあるの。タバコが吸いたくなるらしくて」

 香川さんは言葉の後「ね?」と茶髪の男を見た。

「…2回目の講評、12人が講評を終えた時点で一度小休憩を挟むと教授が言ったんです」

 静かなアトリエに、香川さん、茶髪の男、椰代が立っている。もう1人の先ほど立った女生徒は周りを気にしながら椅子に座っていた。どうやら、この学年での主要な人物がこの2人で間違いなさそうだ。

 立っているのは俺もなのだが、探り合うように言葉を交わす3人の前では空気同然である。

「絵に匂いがついてしまうとかなんとかでD棟に喫煙所はないから、どこで吸ってるのかは知らないんだけど」

 香川さんの説明に、少し遠くに座る男子生徒がキャンバスから顔をのぞかせて補足した。

「あ、俺、どこで吸ってるか知ってる。前に吸ってるとこ見たんで。C棟の一階にある喫煙所がこっから一番近いんだけど、わりと遠いし、だいたい…15分後くらいに戻ってくることが多いよな?」

「そうなんだ、通りでタバコ休憩、長いんだね」

「あれダレるんだよなあ。やる前か、終わってから行けばいいのに」

「なるほど」

 椰代はこくり、とうなづいた。

「話を聞いてると、教授がタバコを吸いに行った時点ですぐには戻ってこないとみなさんは知っているみたいですね。教授は研究室側の階段ではなくアトリエ側の階段から一階に降りて外に出たなら、教授が席を外したことはアトリエからも休憩所からも分かったんじゃないかと思うんですが、どうでしたか?」

 促すようにあたりを見渡す椰代に、キャンバスに座ったままの何人かは互いに顔を見合わせる。

「…まあ、どっちにいても丸見えだしな」

「教授の靴はヒールで音が響くから、音も聞こえた、よね?」

「うん、教授はタバコを吸いに行ったって全員認識してたと、思う」

 何人かは素直にうなづいているが、それがなんなのか、という顔をしている生徒が多い。

 壁のない休憩スペースからは言わずもがな、アトリエ側からも開いた扉や透明な窓から廊下は開放的なまでに丸見えだ。あんな目立つ教授が歩いて、ヒールの音もさせていれば見落とすことはないだろう。当たり前の事実の確認に首を傾げるのは俺もだが。

(…なんや?)

 俺は先ほどから違和感を感じていた。

 生徒達の視線が誰かに伺いを立てているような、コンタクトを交わしているような。

 錯覚かもしれないが、その感覚がどこか気持ち悪い。

「そりゃそうよ。研究室から出た5人が、タバコ休憩だって伝えに来たんだから」

「5人?6人ではなくてですか?」

 女生徒の言葉に椰代が反応した。

「あ、、その」

 バツが悪そうに、女生徒は小さくなる。

「私が1人、研究室に残ってたの」

 声がした方を向くと、香川さんが手を胸の高さに挙げていた。

「里村教授は見張り役を残していたわけですね」

「うん」

 挙手を下げる彼女に、椰代が質問を投げかける。

「よくあることなんですか?」

「ううん、その時くらい」

「なぜあなたに?」

「サークルでお世話になってて、まぁ、仲がいいからかな?講評が終わったら私を引き留めて、タバコを吸いに行くって言って、見張りをお願いして出て行ったの。中で待ってたんだけど、お手洗いに行きたくなっちゃって」

 香川さんは言葉の途中でくす、と笑い「なんだか、警察の尋問みたい」と呟いた。

「休憩スペースにいた人達に見張りを変わってって、頼んだつもりだったんだけどね」

 香川さんは軽い失敗話をするように苦笑いをした。彼女の視線の先を追うと、何人かが気まずそうに下を向いている。

「教授の研究室はメタノールの匂いがきついんだよ、トイレなら、すぐ帰ってくると思ったし」

「…、その、意識してればいいだけだって思って」

 椰代は「ああ」と言い、俺も彼らの様子を見ておおよその事態の把握がついた。

 先ほど小さくなった女生徒は休憩スペースで香川さんの申し出をスルーしたうちの1人で、事件当日、少しの間なら開けて大丈夫だろうと休憩スペースにいた彼らが鷹を括った結果、予期せぬ空白の時間が作られてしまったということか。

 その後にまんまと指輪が盗まれたのではあれば、全員の過失という風に言えなくもないわけだ。

(後ろめたさから、なんかな)

「意識したって、あそこから研究室の前は見えますかね。関ヶ咲、見えるか?」

「うえっ?」

 突然、俺の名前が会話に飛び出てきて変な声が出た。

「お、俺?」

 完全に油断していた。

 空気のようにそこにいると言っても、物質として俺は存在している。周りから突き刺さる視線の勢いに気圧され、うなづく椰代の目線に、慌てながらも従った。俺はアトリエから出て廊下を挟んだ反対側の休憩スペースの椅子に腰掛ける。休憩スペースのテーブルは廊下から奥まったところに全て配置されており、アトリエを向くと、自販機が設置された壁でちょうど研究室は見えなくなった。

「えー、……見えんなー、アトリエの中は見えるけどー!」

 座ってみると、アトリエから休憩スペースは割と遠いと感じる。聞こえなくてもう一度言うなんて恥ずかしい真似を避けるために少し声を張る。一同は俺の動向を見た後、すぐに椰代に体を向けた。まるで何事もなかったような(疑いをかけられてそれどころじゃないんだろうが)反応は、当事者として若干きついものはある。

(いや別に、いいねんけど…)

「でも、トイレ側から誰かが通っーーーー、階段からーー上がって来たらーーーだもの。大丈夫だと」

 1人の女子の上擦った声をほとんど聞き取れなかったため、俺は席を立って椰代の後ろに戻った。ついでに、ねぎらいの一言もない椰代の背中を軽く睨んでおく。

「ううん、みんなを責める気はないよ。元はと言えば、わたしがいなくなっちゃったのが悪いんだしね」

「香川…」

「香川さん、ごめんね。私たち」

「ああ、そんな顔しないで。きっと大丈夫だよ」

 香川さんは不安そうにする彼女らに微笑んだ。にこ、と、花が綻ぶような笑顔に思わずドキリとする。

 なんか、すごい人だな、人間ができている。しかもこんなに可愛いのか。こんな人が同じ大学の同じ学年にいたとは、この大学もまだ捨てたものではない。

「アトリエ側の6人にはそのことを言ったんですか?」と、椰代はまたも質問する。

「ううん、これから講評の人に見張りを頼むのは申し訳ないもん」

「香川が廊下を渡っているのは見えたはずだから、アトリエの人らも研究室が無人になったのは分かったはずだ。教授がタバコ休憩に行っていることは伝えられてたんだから」

 茶髪の男は香川さんに合わせる形でタメ口でそう言い、椰代は「そうですか」と簡潔に返した。

 俺はふと廊下を見た。

 研究室側にはトイレは見当たらない。研究室の向かいの壁には小学校でよく見る横に長い水道が設置されている。これも芸術学部ならではだろう、本校舎では見ない。反対側の廊下を見ると、奥の行き止まりにトイレの表札らしきものが見える。

「香川さんが向かったトイレっていうのは、向こうの階段側にあるトイレか?」

 俺がつい聞くと、香川さんと目があった。可憐な顔は困ったように眉を下げる。

「うん、まあーそこはあんまり掘り下げてほしくは無いかな。トイレはそっちにしかないよ」

 あまり女性に聞くことではなかったか。

 椰代に呆れた顔をされる。

「整理すると」

 椰代の声に、周りの視線が再び椰代に向いてくれる。

「教授がタバコを吸いに行っている間に11人は休憩スペースに、6人はアトリエにいて、研究室でカバンを見張っていた香川さんには抜けていた時間があったということですね。帰って来た里村教授はずっと研究室にいて次の日から指輪が無くなったのなら、誰もいなかったタイミングで誰かが研究室に侵入し、指輪を盗んだ可能性がある」

 俺はやらかしたことを誤魔化すように頭を働かせた。

 ええと、つまりどう言うことだろうか、と考えをまとめる俺の耳に、小さな声が聞こえた。

「誰かがっていうか」

 ほとんど、呟くような声だったが、静かな空間では誰が発したのかすぐに分かった。少し奥に座る女生徒は横の生徒と見合った後に、複雑そうな顔を下げて黙る。

「……」

「正確には違うんだ」

 椰代が追求する前に、交代するように茶髪の男が話し始めた。

「休憩時間、扉を開ける音がして香川が廊下を通り過ぎた後に、仲がアトリエから出て来た」

「仲さん?」

 びく、と、入り口の最も近い位置に座る仲さんの大きな背が揺れたのに気づいた。香川さんは動じなかった。奥のショートカット女生徒は大きな目を見開いている。周りの反応は三者三様だったが、事実であることは確かなようだ。

「仲がアトリエから、研究室の方に歩いて行ったんだ」

 休憩スペースから研究室の前は見えないと俺は確認した。

 仲さんが男のいう通りにアトリエから出ていったなら、研究室前での彼の動向は見て取れなかったはずだ。

「そうなんですか?」と椰代が仲さんに聞く。

「は、…はい」

「お手洗い、ではないですよね。研究室側にはないんですし」

「い、一階に行くために、階段を降りて」

「ああ、ここ匂いがきついですから、外に空気を吸いに行ったとかでしょうか?」

「かなり長かったぜ、5分は戻ってこなかった。香川が戻って来て扉を閉める音がして、その後に仲はアトリエに戻って来た」

 椰代への返答を待たずに、遮るように茶髪の男が口を挟んできた。男の目は下を見下ろしている。もはや嫌悪を繕おうともしていない目は仲さんを見ていた。椰代は今度は仲さんにではなく、周囲に呼びかけるように声をかけた。

「仲さんが研究室に向かった後、扉を開ける音はしたんですか?」

 返答は早かった。

「そんなに注意してなかったからな、話もしてたし」

「あ、私、階段を降りる音は聞こえたよ。でも、…時間差があった気がする」

「うん、そうかも。ってか、あっちの階段を使う理由ってなに?あっちから降りても出口は遠くなるんだけど」

「アトリエの方で、仲はどうだったの?」

「…行く前と、戻って来た時に自分の鞄を漁ってた」

「それってさあ、指輪を」

 矢継ぎ早な言葉は続くことなく、消えた。

 言葉にしてしまうことを恐れたのか。しかし明確に表さなくても、空気を伝って届く言葉の数々に、丸まった背中が恐縮するように丸くなる。体格は大きいのに存在自体が小さくなったようで、その姿はいっそ痛々しく映る。

「仲は一階に何しに行ったんだよ」

「…」

 少しの沈黙。

 俯く彼の顔が見れないまま、掠れた声が聞こえてくる。

「…、お、俺は…一階に、飲み物を買いに行ったんだ」

 茶髪の男は馬鹿にするように軽く笑い、振り返った。

「なあ、仲が戻って来た時にペットボトルか缶持ってた?」

 男に意見を伺われた女生徒は、アトリエでの仲さんの様子について話した生徒だった。気弱そうな彼女は一瞬迷うように目を動かし「…持ってなかったと、思うけど」と答えた。

「……」

 仲さんは何も言わなかった。表情を窺い知ることはできない。

(…嫌な流れやな)

 感じたことのない重々しい空気がアトリエ内に張り詰めている。誰も何も言わないため沈黙が続いたが、その空気を早々に断ち切ったのは椰代だった。

「作業中にも関わらず、詳しく教えていただきありがとうございます」

 椰代はやっと俺を見た。

「関ヶ咲、棟の中を見に行こう」

「あ、ああ」





 居心地の悪さが最高潮に達したあたりの椰代の申し出は、ありがたかった。

 俺たちはアトリエを後にした。怪訝そうな目を背中に受けながら廊下を進み、椰代が研究室の前で足を止める。研究室の白い扉には取手の下に縦に細長い黒色の鍵ケース、中心にシリンダーがついていて、”里村”と書かれた取り外しできる紙のネームプレートが貼ってある。椰代が引き戸タイプの取手を掴むと、がん、と扉はつっかえた。鍵がかかっている。

「おい、開いたらどうするんや」

 俺は椰代に近づき諫めた。

 背中にこれでもかと張り付く視線がこいつは気にならないのか「どうもしないよ」とサラリと言う。

 心臓に毛でも生えているのか。

 まさかこんな状況が初めてではないとか言わないよな、こいつならあり得そうだ。

 そのまま研究室側の階段を降りる後ろ姿に俺はついていくしかない。元来た道を戻る形だ。

 一階の研究室も階段の向かいにあった。同じく白色の扉だが鍵のタイプは違い、丸型のシリンダーが取手の下についている。椰代は今度は取手を掴もうとはせずに研究室を一瞥して通り過ぎた。

 3階の作りは見ていないが一階と二階の作りに大した差はない。それぞれ、アトリエと研究室と休憩スペースで構成されている。違いをあえてあげるとすれば一階の休憩スペースには自販機だけでなく電子レンジと冷蔵庫がある点か。

「椰代、分かったんか?」

 休憩スペースで立ち止まった椰代に声をかける。

 椰代は横目で俺を見て、ふ、と笑った。

「香川さんと茶髪の男が付き合ってるかどうか?」

「ち、ちがうわ!」

 いや、それも気にはなるのだが、俺がただあそこでぼーと浮ついたことを考えていたと思われるのは心外だ。

 久々にまともに声を出した気がする。

 先ほど取り込んだ異様な空気を吐き出すように息を吐いた。きつい匂いは相変わらずでも、多少なりとも気分が軽くなる。俺は腕を組んだ。状況は、俺がこの場に来る前に考えていたよりも深刻で茶化せない雰囲気である。

「あの仲って人すげえ疑われてるけど、どうなんや」

 神妙に返すと、椰代は笑みを消して自販機に目を向けた。

「学部の中で浮いてる存在なんだろうな。あの人達は、香川さんがお手洗いに行っている隙に仲さんが研究室の扉を開けて鞄から指輪を取り、階段を降りて行ったと思ってる」

 椰代はただ、あの場に漂った疑惑を言語化した。

 椰代であっても仲さんが白か黒かを確定することは現段階ではできないか、と俺は考え、彼らの疑惑に対する質問に変えた。

「仲さんが研究室側に向かった後に扉を開けた音はしなかったって、あの人らは言ってたよな。だったら仲さんが犯人だって主張とは合わんやないか」

「ゆっくり開けたら話し声にかき消されて聞こえないんじゃ、と考えてるんじゃないか?」

「そんなの苦しいやろ」

「試せないから実際にはどうか分からないよ」

 のらりくらりと交わされている実感があったので、俺は切り口を変えた。

「仲さんが指輪を盗んだ後にわざわざ一階に行く理由があると思うか?俺はどうも、行動が不自然に思えるんやけどな」

「そうかな。何か実際に一階に用があったのかもしれないし、階段を降りて一階に行ったのは別の目的があるから研究室側に向かったんですよ、っていう理由づけのためだとも考えられるよ」

「…一階の自販機で飲み物を買うため、か。理由としては不自然やけどな。2階の休憩スペースにも自販機はあるんやからそこを使えばいいだけやろ」

 不自然、だからこそ仲さんは疑われているのだろう。その不自然さが、慣れていない犯罪の誤魔化しのせいなのかどうかが問題なのだ。

「不自然ってほどでもないと思うけどな。仲さんは引っ込み思案な性格のようだし、2階の休憩スペースには12人も盛り上がっている人達がいたんだから利用しづらかった可能性はある」

 椰代の反論のような言葉に少し面くらう。

「やけに肩を持つやないか。知り合いなら信じたい気持ちは分かるけど、犯人を当てるつもりなら全て疑わなあかんのやないんか?」

「言うなぁ。知り合いって言っても俺は仲さんのことはほとんど知らないよ。窃盗をやりそうな人間かどうかも分からない。関ヶ咲はどう思うんだ?」

「どうって、俺こそ初対面なんやけどな」

 俺はアトリエでの仲さんの姿を頭に浮かべた。

 座っていても大きいとわかる恵まれた体躯が限りなく縮こまった背中。表情は暗く沈み、所在なさげに顔を俯かせていた。こう言ってはなんだが、明らかに気が弱そうで窃盗をやれるほどの度胸があるようには見えない。

「やりそうな人間には見えんな」

「そうだね」

 椰代は自販機を見つめている。休憩スペースには自販機が3.4台あり、その全てに目を通さんとばかりにウロウロと回っている。

 椰代の捜査方法に口を挟む気はないが、もっと他の探索をしなくてもいいんだろうか、と思わなくもない。

「そもそも俺が仲さんの肩を持つのは当たり前なんだ、そういう依頼が匿名で投函されていたんだから」

「え?」

「”1人が疑われてる、その疑いを晴らしてほしい”ってね」

(てことは)

 俺は考えを巡らせてみる。

(仲さんが依頼人か)

 脳は自然な答えを弾き出した。

(自分が疑われている状況を変えたくて探偵サークルとか言う怪しげなサークルを頼るまでになった?どんな変人が依頼してきたんやと思ってたが、仲さんが椰代と知り合いやったなら、探偵サークルに頼むのはおかしいとは思わん)

 椰代が依頼人は里村教授だとあの場で言ったことも、依頼人を守るためであれば必要なはったりだろう。

 普通に考えれば仲さんが依頼人だが、最有力容疑者が雇った外部の探偵なんて反感を買われるに決まっているし、素直に分からないと言うのも信用性に欠けてちゃんとした説明は望めない。

 しかし匿名のアバウトな状況説明と依頼内容で、椰代はここにノコノコと訪れたというのか。

(来たこいつもこいつやな、イタヅラやったらどうなっとったんや)

 またあるのか知らないが、次からはどんな依頼なのかちゃんと聞いておくべきだろう。巻き込まれ事故は出来れば避けたい。

(しかし、リアルに事件に出くわすと気まずいもんやな) 

 推理小説で探偵が犯人を当てる場面は何度も見たことがある、今まで読んだ本の数分だけ。でもこれはリアルだ。フィクションとリアルの違いは色々あるだろうが、フィクションの事件とリアルとを一緒にすることはできない。単純な言葉で言えば、リアルの方がはるかに重いのだ。

 事件と聞き、浮き足立ってしまう気持ちは多少あったもののすっかりそんな気は失せてしまっている。

 俺の中の常識的な自分が好奇心に歯止めをかけているとでも言うのか、気分的には滅入ってきていた。

 なんとか穏便にこの事件が収束する想像は難しい。俺があの場を離れられたことはひとまずよかったが、椰代はあんな空気にさせた後になんとかできる考えがついているのか。

 俺としては、ひとまずD棟を早く出たい。

 着いてくるんじゃなかった。

 まじで。

「あなたはどちら側にいたんですか?」

「へ?」

 椰代の声に思考を払われ、前を向く。

 俺に投げかけられた質問かと思ったが、それは違った。

 自販機の前をうろついてた椰代の横には、いつの間にか女性が立っていた。

 ショートカットの彼女は先ほどアトリエで見た顔だ。

 よくあることなのだが、俺は考え事をすると周囲に対する警戒が疎かになる悪癖がある。彼女の力強い目は椰代に向いているようだったので、俺は気持ち2人から距離を空けて、彼らを観察することにした。

「アトリエ側ですけど、…帰ったのかと思ってた」

 ガコン、と自販機の底に缶が落ちる音。彼女はペットボトルを拾い、強い目で椰代を見ている。

 香川さんほどではないがあの場の中ではかなり整った部類に入る顔つきで、大きな目が特徴的だ。

 椰代が軽く名前を聞くと彼女は「有坂」とすぐに、はっきり答えた。

「有坂さん。アトリエには、講評を終えて休憩に入ったことを5人が伝えに来たと言っていましたが、その際になんて言われたか覚えていますか?」

「…」

 有坂さんの警戒を顕にする様子から、これは答えてくれないのでは、と思ったが意外にも答えてくれる。

「伝えてきたのは梶、あの、茶髪の男。「教授がタバコ休憩行ってるから10分休憩になる」って言ってた」

 聞いてみるものだ。

 あの中心人物的な茶髪の男性が梶か、と俺は頭に入れた。

「それ以上は言わずに4人を連れて休憩スペースに行ってたわ。梶は仲を嫌ってるから、あまり話したくないんでしょ」

「そうですか、学年が上がるとアトリエは移動になるんですか?」

「…2年から上に行くわね、一階は1、3年。2階には油絵のアトリエの横に彫刻のアトリエもあるから、空間がその分狭いの」

「研究室も移動しますか?」

「例年通りか知らないけど、去年はしたみたい」

「一階から2階に?」

「そうよ。…もういい?」

「あ、はい、ありがとうございました」

 有坂さんは体を翻すとパタパタと小走りで去っていった。俺にはもちろん、椰代にも一瞥もないあたりが、おそらく彼女らしいのだろう。俺は椰代に近づいた。

「あの人、なんか変やなかったか?協力的かと思えば帰り際は迷惑そうに」

「有坂さんの言葉は信用できるよ」

「…なんでや」

「梶さんの意見とのすり合わせには適してる」

 よく分からん。

 俺は説明不足がちな男に一言言いたくなった。

「椰代は尋問には向いてないな」

「下手ってことか?」

「ああ、ポンポン聞くだけ聞いてポイや、心象は悪くなるやろ。初めはいい感じやったのに後半はボロが出てきた。依頼の間だけの関わりって考えなんかも知らんけど、解決まで頼まれとるんなら何日か接さんないけんやろ。1日で解決できるならまだしもな」

「今後気をつけるよ。関ヶ咲の言う通り、早めに終わらせたほうがよさそうだね。そろそろ戻ろうか」

 椰代がようやくその場から足を動かしたので、俺も動く。立ちっぱなしもそろそろしんどいと思っていた。

「そやな、サークルで検討でもしてみるか?」

「何言ってるんだ、このまま解決するんだよ」

 椰代の足は休憩スペースを出て、出口方面ではなく研究室側の階段に向かっていた。

 俺は驚いた。

「うそやろ、今から上に戻るんか?」

「早いほうがいいんだろ?」

「いや、そりゃ、できるんならそうしたほうがいいやろうけどな…できるんならって話で」

「俺もあんな空気のまま放っておくほど鬼じゃないよ。さっきはとにかく、無理やり舗装された一本道を歩かされているようで気持ち悪かったな。関ヶ咲。疑うべき人間は他にもいるだろ?」

「ああ…それは」

 椰代の問いかけに、俺は答える。

「香川さんやな」

 椰代は口元に上品な微笑を浮かべた。

 こいつは意外にもよく笑うやつだと思う。

 椰代の顔に、怒りや悲しみなどの負の感情が浮かんでいるところは見たことがない。

「俺もずっと考えとったんやが、仲さんと同じくらい香川さんも怪しいと思う。休憩スペースにいた11人もアトリエにいた5人も、盗んだ犯人じゃないことを証明してくれる人はいるけど、単独行動をしていた仲さんと香川さんにはおらん」

 椰代は椰代の表情に、自身の考えが椰代と同じであることに少しだけ満足した。

「人望の差、と言ったらそれまでだけど、俺はそう言うのは嫌いなんだ。こんな気分の悪い依頼は早めに終わらそうか」


 


 3




「帰ってきたぞ」と、梶さんが階段を上がってきた俺たちを視認して呟いた。

 俺たちに聞かせるつもりで言ったのではなく、周りに知らせるための言葉だ。

 アトリエの人たちは作業を中断して、入り口周辺でより多くの人間が集い輪を囲んでいた。有坂さん、香川さんもその中にいる。何人かは我関せずと言った風でキャンバスに筆が走る音がする。仲さんは当事者であるが、気が弱く立つこともできなかったのか依然座っていた。

 梶さんは先導するようにこちらに一歩踏み出す。

「あの、まだ何か?」

(歓迎はされてないな)

 時間を空けて思考する隙を与えた分、彼らの不信感は強くなっている。

 本当に里村教授に依頼されたのか、と問い詰められれればかなりまずい。椰代がうまく切り抜けられたとしても、教授がこの場に戻ってくれば即アウト、可能性は十分考えられるからこそシビアだ。

 たしか、里村教授はタバコ休憩に行ったら15分は帰ってこないと言っていた。

 そこまで考え、俺はやっと気がついた。

(椰代がやけに性急なのは、帰ってくるまでに解決したいからか)

 考えつけば、すぐにでも解決するために戻ってきたのは当たり前だと思えるが、おそらく時間はもう残り少ない。

 椰代の佇まいは焦りを感じさせない。堂々としたものである。

 仲さんの容疑を晴らすと言うことは、求められているのは”している”ことの証明ではなく”していない”ことの証明、いわゆる悪魔の証明問題。廊下に監視カメラでもついていれば簡単でも、理屈だけで説明することは可能なのか。

 階段を上がっていく中で考えてみたが、俺の頭でいい案は思いつかない。

「2つ気になることがありまして、また聞いてもよろしいですか?」

「はぁ、。…」

 椰代の提案に、梶さんは露骨に顔を歪めた。よくはなさそうだ。しかし、「いいよ、なにかな?」と香川さんが小首を傾げ言ってくれる。椰代は恭しく頭を下げた。

「ありがとうございます。一つ目は、なぜ皆さんは、教授が置いていた鞄の中に結婚指輪があると知っていたんですか?結婚指輪が鞄にあるとは、あまり考えないと思いますが」

 その質問は、聞くのが遅すぎたくらいだ、と俺は思った。このタイミングで聞くのか、それは、椰代にとっても知らなければならない最低条件か。

 嫌な顔をせず答えてくれたのはやはり香川さんだった。

「里村教授がカバンに結婚指輪を入れてるって情報は、うん、多分、この場にいるみんなが知ってたわけじゃないよ。私の入ってるサークル、餃子サークルって言うんだけど、その担当が里村教授なの」

「ぎょ、餃子サークル」

 ってなんやねん、とは、空気を読んで突っ込まなかった。香川さんの可憐な目と目が合い、俺は反射的に会釈する。

「簡単に言えばおいしい餃子の店を練り歩いちゃおう!っていうサークルなんだけど、そんなサークルだから飲み会が多くてさ。里村教授、仕事中は外してるんだけど、これ見よがしに飲み会では鞄から出してつけてるから、餃子サークルに入ってる私と、望月さんは知ってた。あと、わたしが何人かにそのことを言ってるからその人達も知ってると思うけど、誰に言ったのかは正直よく覚えてないな」

(それが正式にサークルに認定されてて、うちがされてない現状が情けないわ…)

 望月さんらしき大人しそうな子は「うん」と小さく手を挙げて言った。

(ってことは)

「仲さんが犯人の場合、仲さんは予め鞄の中に結婚指輪が入っていることを知っている必要があるんか」

 思考が口から出ていた。

 全員の目が俺を向き、俺は慌てて椰代に聞いた。

「あ、え、…そうよな?椰代?知っている人間を挙げれば…」

「まあ、そうだよ。鞄を狙う目的は金銭目的が多いんだろうけど、今回は指輪だけ盗まれて財布には手をつけられていない。ということは、最初から指輪が目的だったということ、予め鞄の中に指輪が入っていることを知っている人物の犯行である可能性は高い」

「よし、そうやな。うんうん」

「でもここで指輪が鞄に入っていたことを知ってる人ー、なんて手は上げさせないよ」

「え?」

「「私は知りませんでした」って言うだけで犯人候補から外れるなら嘘つくだろ。嘘発見器があるならまだしも嘘をついているかどうか俺たちには判断できないし、噂の伝聞がどこまで広がっているかの判断も難しい。ここで仲さんが知らなかったと言っても、嘘か本当か分からない」

(黙ったほうがいいな、俺)

「続けてください…」

 恥ずかしい。

 公衆の面前で論破をされたくらいの心地で後退する。

 言い負かされる俺への視線を感じるが、梶さんは「はぁ」と言い、即座に流してくれた。憐憫からくる反応なのか、心底どうでもいいのか、多分後者だな。

「それで、もう一つの聞きたいことは?」

 梶さんが急かすように聞く。早めにこの場を終わらせてしまいたい、という感情が透けて見えるようだった。

「待機しているアトリエ側の6人に休憩を伝えにきた人は誰ですか?」

「それは、俺だな」と、梶さんが続けて答える。

「なんて伝えたか、正確に覚えてます?」

「手短に話しただけだ。教授がタバコ休憩行ってるから10分休憩になるって6人に伝えて休憩スペースに行った」

「伝えられたのはそれだけですか?」

「そうだよ」

 苛立たしげな梶さんの答えは、有坂さんの言っていた内容と同じだった。

「分かりました」

 椰代の澄んだ声がアトリエ内に響き渡った。

 それほど大きな声でもないのにアトリエで作業をしている人らも椰代に目線を向けたのが視界の端に移る。

 椰代の声は凛としていて、どことなく顔に見合った高貴な声色をしているとたまに思うことがある。

 こういう空気を一変させる、自分に周囲の目を向けらせる才能というものがおそらく椰代には備わっている。

「さっきこの関ヶ咲が言った方法はありえないと言うほど悪い案でもないです。仲さんに直接話した覚えがある人がこの中にいるかもしれない。そうすれば仲さんへの疑惑は一気に増し、状況証拠ですが判断材料の一つにはなる。ですが、例えば仲さんが指輪の噂を聞いていても、噂をしている人が仲さんの存在に気づいていない、もしくは勘違いである可能性もありますよね。その噂話をしたのが何ヶ月も前だとすれば記憶も確かとは言えない。不確かな情報で疑惑を深めるのは誰にとっても本意ではないでしょう。もっと記憶が新しく、限定的な条件なら犯人の絞り込みは可能だと思うんです」

 椰代は俺へのフォローなのかなんなのか、測りかねるセリフを吐いた。

「事件当日に、研究室が開いていたことを知っている人間は誰なのか」

 なんだそれ、と俺は思った。

 だが、周りの反応は鋭かった。

 空気が張り詰めている。不審に思い周りを見渡したが、目を見開いていたり、梶さんなんかは悔しそうに顔を顰めてまでいる。つまり、彼らにとって椰代の言葉は素っ頓狂なものではなく、椰代がその言葉を言ったことについて信じられないらしい態度だった。

 その反応ははっきり言って異常だった。

「4月の下旬に中間発表。時期的にも2年生になって初めての講評だったはずですね」と、椰代。

「…」

 梶さんは答えない。

 望月さんが気圧されたようにおずおずと答える。

「あ、はい。そう、だけど」

「先ほど一階に降りた時に3年生に聞いたんですが、あなた達は2年になり二階に研究室と一緒に移動したらしいですね。1年の頃は一階の研究室で講評をしていたわけでしょう。さっき1階に降りて同じ研究室の扉を見たんですが、1階と2階で鍵のタイプが違うのは施工会社がいい加減でなければ、どちらかが新しく設置された鍵だからということになりますよね。新しく設置される理由となると、考えられるのは鍵の故障、不具合、くらいしか俺には思いつきません。そう考えて思ったんですが、そもそも、鞄のために1人見張りをつけますかね?それなら研究室の鍵を閉めてしまったほうが賢いです。誰でもそちらを選ぶ。一人見張りをつけている時点で里村教授は不用心なタイプではないし、合理的な選択ができない頭の悪い方でもない」

 ここまで捲し立てるように言われれば、俺も理解できた。

「研究室の鍵は壊れていたって言うんか」

 椰代は「ああ」と肯定した。

「当日、里村教授は鍵を閉めなかったのではなく、閉められなかったのではないですか?皆さんは講評会の時くらいしか研究室に足を踏み入ることはないと言ってましたね。その時に初めて知った人が大多数だったはず。と俺は思うんですが、どうでしょう。みなさんは研究室の鍵が閉まらないことをその日まで知らなかったのではないですか?」

「…」

「そうよ」

 答えたのは有坂さんだった。黙ったままの梶さんを見て、後ろに振り向いた。後ろに立つ男性に「あんた、研究室で香川が言われたの見てたんでしょ?」と有坂さんは問いかける。男は突然話を振られ驚いたのか「えっ」と声を出したが、周囲を見て慌ててうなづいた。

「俺たちの講評の後に、出ようとしたら香川が教授に呼び止められて「この部屋は鍵がかからない、修理はまだだから待っていてくれないか」って言われてて…」

 椰代は深くうなづいた。満足そうにも見える。

「喫煙をする時、教授は普段は鞄を持っていく。でもその日は、香川さんがいるから大丈夫だと里村教授は考えた。教授のカバンは大きいですから、持って行ってタバコを吸うのは邪魔だと考えたんですかね。火がつけば危ないですし」

「だったら、なんなんですか」

 梶さんが声を出した。

 声には苛立ちと不快さが混じっている。

 初対面の俺ですら分かるのだ、アトリエの生徒達は気まずそうな表情で梶さんを囲んでいる。

 椰代は梶さんの方に顔を向け、サラリと前髪が靡く。

「ここまで言えば分かると思いますが、アトリエにいて次の講評を待っていた仲さんが、小休憩時に研究室の鍵がかからないことを知るタイミングはないんです。あなたは鍵のことを仲さん達に伝えていない。香川さんも身代わりを頼んだのは休憩スペースにいた人たちだけだと言っていましたよね」

(梶さんにわざわざ聞いたのはこのためか)

 梶さんの表情の意味が分かった、椰代の論理でいえば、彼の発言は墓穴を掘った形になる。

 俺が休憩スペースから研究室の前が見えるかどうか試した時、アトリエの方から聞こえてくる声が聞き取れなかった。廊下の分、割と距離があるのだ。逆に言えば、休憩スペースにいた人達に講評を終えた5人が鍵のことを伝えていたとしても、アトリエ側の6人がその内容を聞き取れないのではないか。

「教授の鞄に指輪が入っていることを知っている人間、は特定できませんが、当日はアトリエにいた人間と休憩スペースにいた人間の間では情報の分断が行われている。アトリエにいた人達は研究室の方からトイレに向かう香川さんを見ていても、鍵がかからないことを知らないならただのトイレ休憩だとしか思わない。5人もいれば、証明に十分な人数だと思います」

「……それは」

「香川さんの後に研究室に向かった仲さんが、研究室の扉を開けようとは思いつかない」

(……)

 俺は、同い年とは思えない堂々たる演説に気圧されていた。

 その場にいた誰もが黙った。

 沈黙は正しいことを証明している。

 ただ、1人だけをのぞいて。

「違う」

 しん、と静まり返ったアトリエ内に男の声が響く。

 梶さんのまるで外敵をなじるような目は、外部の人間である椰代ではなくいまだ縮こまる仲さんの背を見ていた。その目は間違っても級友に向けるものではない。

「あんたは知らないかもしれないけどな、こいつは変なんだよ!いつも挙動不審で、いつか何かをやらかすって俺は思ってた!」

「ちょ、ちょっと、梶。やめなって」

「仲、お前何しに一階に行ったんだよ、飲み物買いに行ったとか、どうせ嘘なんだろ?お前が盗んだんだろ!?」

 周りは糾弾を止めない梶さんの豹変ぶりに狼狽えている。振り返った仲さんの横顔は青ざめていて、すぐに言葉を返さない。

「なんとか言えよ!」

 梶さんは仲さんの態度に余計いらだったように、形容し難い形相で一歩踏み出し。

「その辺のいざこざはいいんですよ」

 椰代の声に足は止まった。

 梶さんは俺たちを、信じられないという顔で見る。

「いいって…、あんた、勝手にかき乱しといて」

「俺からも、鍵がかからないことを伏せていた理由は聞きません。俺達への依頼内容は容疑者を絞ることです。容疑者は一人減りましたので、依頼はこれで終了です」




 

 沈黙に支配されたアトリエを後にし、一階に降りると椰代は「まだ時間はあるな、少し休憩していこう」言った。休憩スペースの机に座る椰代の様子は、打って変わって普段通りになっていた。アトリエでの探偵然とした様子はなく、いつもの椰代はどちらかと言えば穏やかな印象を与える。俺には容赦のない言葉が多いが、小綺麗な顔で人あたりもいいのだから、友達が多い理由も分かる。

 椰代に続いて椅子に座った俺はどこか非日常にいるような感覚だった。

 リアルな推理場面を目の当たりにすることがあるとは、思ってもみなかったのだ。興奮とも、関心とも言えるような感覚のまま頭の中で事件の流れを整理して、ひとまず椰代に感想をぶつけてみた。

「お前は早すぎる、ポカーンやったぞ、俺は」

「あれじゃあ納得できなかったか?」

「いや、…仲さんが犯人ではないってことは証明できてたと思う、あの人達も黙ってたしな。でも、気になることはある」

 俺は疑問を口にした。

「椰代、あの人達はわざと、俺たちに鍵が閉まらなかったことを伏せてたんか」

「そうだな。少なくとも梶さんは意図的だ」

「なんでや。なんでそんなことすんねん」

「なんでかは俺も知らないよ。推測はできるけど」

「その推測を聞いてるんや」

「なら、仲さんの容疑を晴らしたくなかったんじゃないか?誰が誘導したのか知らないが、鍵の不具合が仲さんの容疑を晴らしてしまうと気づいた人間がいて、梶さんはそのうちの1人なんだろ。疑われていた仲さんの容疑を晴らすってことは、16人が共犯で嘘をついている可能性と、香川さんの単独犯の可能性が必然的に浮き上がってくる。アトリエの扉は常に開けられており、休憩スペースもアトリエ側にも壁はない、そのうちの誰かが教授の研究室に向かったとしたら16人のうち誰かは気づくはず、というのが共犯説なんだけど、これはあまり考えなくていい。大人数で犯罪に加担するだけの理由は彼らには見当たらない。であれば、彼らにとっては香川さんへの疑いの方が致命的なんだろう。仲さんの存在はスケープゴートで、香川さんへの不信感を誤魔化すために必要なバランサーだったんじゃないかと推測することはできる」

「…えーと」

 俺は長々しい椰代の話を端的にまとめた。

「香川さんを疑うよりは、仲さんが最有力容疑者の方が都合がいいってわけか?」

「本当のところは知らないけどね」

「うーん」

 俺はなんとなく腕を組んだ。

 椰代の推測は考えられる。あのアトリエの空気感には、そう言った複雑なものが混じってるように感じた。

「香川さんは随分慕われとるみたいやったし、仲さんはなんとなく嫌われてるっつーか、変な感じやったもんな。じゃあ、有坂さんはなんやったんや?」

 ここで椰代と話した彼女の言動は不自然だった。

 彼女が、2階にも自販機はあるのにわざわざ一階の自販機に買いに来た理由、不自然さには理由があるのではないか。

 椰代の披露した推理は、明らかに有坂さんの発言をヒントに展開している。椰代にヒントを与えるために下に降りてきたのだとしたら?その協力的な姿勢は何を意味するのか。

「有坂さんは周りほど香川さんが好きではないのか、正義感が強いタイプなんじゃないか?彼女の反応に梶さんの発言への非難が見えたからアイコンタクトで誘ってみたんだけど、釣れてよかったよ」

「確信があったわけやないんか」

「うん」

 簡素な返事に、なんとも奇妙な感覚になった。

「お前のやり方は呆れるくらい行き当たりばったりやな」

「関ヶ咲は警察の尋問とか聞いたことないのか?」

「なんや急に、ドラマでしかないけどな」

「自白さえ引き出せれば推理なんていらない」

 ズバリと言われ「探偵サークルの言うことか」とつっこむ。

「関ヶ咲は探偵を勘違いしてるな。依頼主の依頼が達成できれば立派な探偵さ」

「それは個人の考え方やろうが、最後、すごい空気になったけどな。上が今どんなことになっとるか…」

 俺は特に意味もなく上を見上げ、有坂さんが依頼主なんじゃないか、とふと頭に浮かんだ。

 てっきり依頼主は仲さんだと考えていたのだが、仲さんが依頼人だとすると、少し非協力的すぎるという気がしなくもなかった。

「椰代は誰が依頼したと考えてるんや。自分に疑いが向くことになる香川さんはありえない。ってなると、仲さんか、有坂さんしか考えられんけど」

「どうかな」

 椰代は椅子の背もたれに身を預ける。

「さっきは仲さんは犯人じゃないと言ったけど、仲さんと香川さんの2人が共犯っていう可能性もある。香川さんが扉を開ける音がした、と彼らは言ってたけど、その時に扉を開けたままにしておいて、入れ替わるように仲さんが研究室に入れば扉を開ける音はしない。2.3分物色をし、結婚指輪をポケットに入れてそのまま出て行く、そこに香川さんが戻って扉を閉めたら?仲さんは自分のカバンをあさっていた、その時にスマホを見ていたのかもしれない。香川さんがスマホで仲さんに鞄のことと指輪のことを伝え、香川さんが出たタイミングで動くように指示されていたら?」

「………いや、ない。ないな。行動の意味が分からん。香川さんが犯人なら研究室を出る必要がないやないか。ただポケットに入れて休憩が終わるのを待ってるだけでいい」

「香川さんが犯人なら出る理由はあるよ。出なければ香川さんが見張っている状況しか残されず他の容疑者が浮き上がることはない。部屋を開けることで、18人以外の第三者が犯人である可能性も浮上する」

「……」

「仲さんが香川さんに利用されたというのはどうだ?「私が出て行った後に一階に飲み物を買いにいって」とスマホで伝えて、指輪を盗んだ後に研究室を出る。その後に仲さんが言いつけを守った結果がこれなら?容疑者は明確に2人なるな」

「……そんなの、なあ」

 感覚的に言いくるめられている、が、論理的に何かがおかしい。椰代は俺を撹乱させて遊んでいるだけだ。俺に、その論理的な違和感を言語化できないことが歯がゆい。

 椰代は猫のように目を細め、軽く笑った。

「そんな顔しなくても共犯の可能性はなさそうだ。依頼主は香川さんだったんだな」

 椰代の視線はつ、と滑るように俺の右横に向いた。

 俺は慌てて振り返った。

 後ろにはクリーム色の鮮やかな髪、香川さんが立っていた、ゆっくりとした足取りで近づいてくる。

「え…」

 予想外の人物に再び椰代を見ると、椰代は薄く笑みを浮かべたまま説明した。

「彼女は芸術学部なのに、俺が2年生だと知ってた」

「ありがとう。完璧な依頼遂行だったよ」

 そう言い、ふわふわと柔らかそうな色素の薄い髪の毛が小さなお辞儀に合わせ揺れる。

「…あ、ああ、タメ口か」

 椰代はずっと敬語口調だったが、彼女が話し始めた時から彼らはタメ口になったのだ。

 そうか、いや。それでも納得いかないことがある。

 俺は周囲に人がいないことを確認してから質問した。

「なんで、香川さんは探偵サークルなんかに依頼したんや?」

「なんかって言い方はないだろ」

 横から上がる椰代の不服そうな声。香川さんは面白い冗談を聞いたようにふふ、と綻ぶように笑い、姿勢を起こした。

「私、面白いことが好きだから。探偵サークルとか言うサークルができたって掲示板で見て、依頼する前に少し調べたの。そちらの方は知らなかったけど、椰代さんのことは知ってた。あのポスター、依頼募集をしているなら最低限でもサークルの場所くらいは書いておいた方がいいと思うなぁ」

「…ええと、そうやなくてな」

「彼女が依頼する理由なら考えつくよ」

 意図的かは図りかねるズレた返答をされたので反応に困ったが、椰代がそう言うと彼女は口に手を当てて目を輝かせた。

「えっそれも分かったの?!」

「香川さんが、仲さんが無罪であること、何をするためにアトリエを出たのか知っている場合だ。隠すことで怪しまれるのに、それでもあの場では公言できない理由、…それは多分」

 香川さんは言葉の途中で「すごいね」と感心したように言い、ゆるやかに首を振った。

「でも、そこまで解いて欲しいとは言ってないよ。もう十分。里村教授はうっかりさんだからね。私は無くなったって聞いた時すぐにどこかに落としてるんじゃないかって考えたけど、みんなはそうは思わなかったみたい。仲くんに疑いが向くのは、びっくりするくらい早かったよ」

 それは、やんわりとした拒絶だった。

 香川さんはもう一度俺たちに微笑みを向け「そろそろ戻らなきゃ」と呟く。

「探偵さん、本当にありがとう。依頼料はどうすればいいかな」

「うちは営利目的でやってないから、お礼なんていらないよ。あ、でもまた困ったことがあったら依頼してくれたら嬉しいかな」

 椰代はそう気障ったらしく返答した。香川さんは目を瞬かせ、すぐにうなづく。

「そう、とても良心的な探偵さんなのね。じゃあ、また何かあったら依頼するようにする」

 彼女は手を振り、クリーム色の髪をたなびかせ去っていった。

 空間に僅かに甘い余韻を残して、残滓が消えた頃に、俺は椰代に向いた。

「なぜかは、教えてくれんのやろうな」

「依頼人がああ言うなら、俺としては言う必要性も無くなったね」

 俺は聞くことを諦めた。

 ああも可憐で爽やか笑顔を向けられれば誰だって下品な好奇心は薄れてしまう。

 ふ、と途端に体から力が抜ける。

 ともかく、依頼はこれで終了なのだ。

 俺は何もせずに傍観者としてアトリエにいただけだが、人が追い詰められたり、人を糾弾したり、いるだけでも苦しくなる空間から解放されたことへの安堵が遅れてやってくる。

 自分がそう言った探偵的シチュエーションに向いている、なんてかけらも考えたことはないが、絶望的に向いていないということを認識させられた1日だった。

「依頼料、もらっておけば良かったのに。それなりの労力やったやろ」

「こっちとしてもメリットが無いわけじゃないんだよ。仲さんは三雲さんの知り合いだからね」

「三雲さん?」

「うん」

「…あーーー、はいはい理解できたわ。仲さんの疑いを晴らすことで恩を売ったわけやお前は、それで、三雲さんにも間接的に恩を売ったと。そういうことやな。この一連の流れは」

「関ヶ咲は見方が穿ってるなぁ」

 取り繕おうとする気もない見え見えの演技を看破しても嬉しくない。

(白々しい)

 俺は内心で独りごちた。 

「まだいたのか」

 里村教授は香川さんがいなくなって30秒もしないうちにD棟に戻ってきた。

 休憩スペースに座る俺たちを認め、風を切るように歩いてきた里村教授に椰代は、仲さんの容疑を晴らすために里村教授から頼まれたと言いましたが晴れたので許してください、とこともなげに言ってみせた。里村教授は「そうか」と言うと颯爽と階段を上がっていった。

 俺はズボンのポケットからスマホを取り出し、つい時間を確認した。ものすごく長い時間かのように思えていたが、彼らの言うとおりなら教授が席を外して15分しか経っていないんだろう。

(なんかほんと、…凄いんやな、こいつ)

 こいつは探偵に向いている。

 推理力、発言力、コミュニケーション能力、豪胆さ。

 誰でもできることではない、世間一般から考えれば希少な存在だ。

 自分に同じことができるのかと考えて仕舞えば、大きな敗北感が身に迫ってくる。

 もはや慣れ親しんだ感覚を、いつになったらそう言うものだと受け入れられるようになるのか。

 椰代は椅子から立ち上がり自販機に近づいた。ポケットから取り出したお金を入れ、がこ、と落ちた飲み物を取り出し、また戻ってくる。

 喋り続けた喉が渇いているのか、ペットボトルの水を煽る。

 喉仏が気持ちよく上下する様は一仕事終えた後の一杯に見えなくもない。

「なぁ、俺、着いてくる必要あったか?」

 本心から聞くと、椰代は飲み口から口を離した。

 布団をかぶっていなければ顕になる端正な顔は、にや、と猫のように歪んだ。

「関ヶ咲だってワクワクしただろ?」

「…」

 素面で言うのも気恥ずかしかったので、俺は腕を組んだ。

「ああ、面白かったわ」

 




 C棟のサークル室(仮)に戻ると、誰かが扉の前に立っていた。俺はまずいのではないかと思い前を歩く椰代に声をかけたが、椰代は「久しぶり」と男に軽やかに声をかけた。振り向いた青年は、顔立ちは少年っぽい、パーカーがよく似合う風貌だ。

(誰や、また知り合いか?)

 ここの無断使用について物申しにきた人物ではないらしい。

「初めまして」と丁寧に頭を下げられたので「あ、ども…」と小さく返す。見たことのない顔だが、別学部と判断するよりも新入生だと考えた方が良さそうだった。そのくらい、割と整った童顔は幼く見える。

「飲み物を出すから、ちょっと待って」

「そんな、気にしないでください」

「いいや、来たなら歓迎するのは当たり前だよ。関ヶ咲、コーヒーを注いでくれないか」

「自分でやれや」

 まるで家主が召使に申しつけるような口調で振られたので、強く言い返した。

「関ヶ咲の方が近いだろ」

 椰代は俺の真ん前から図々しくもそんなふうに言った。

 探偵サークルの部室には椰代が自宅から持ってきたティファールが置いてある。もちろんただの空き教室に水道なんてものは設置されているわけがないので、同じ階に一つだけある自販機から水を買って、わざわざ沸かしてドリップコーヒーを作るのだ。そのティファールはコンセントが届くくらいの棚の高さに置かれ、今俺の真横にある。

「何センチの差やねん!俺は雑用係でここにいる訳やないぞ」

「あ、小田くん、そこに座ってくれていいよ。狭いところで悪いね」

「…聞いてないな」

 小田と呼ばれた青年にぺこり、と頭を下げられる。

 俺は観念して自販機に向かって水を買った。この水の料金は俺持ちになるわけだが、せびるのもセコイだろうか。つか、普通にコーヒー買った方が楽だろ。絶対。悲しいかな、俺は椰代に実質的に将来を握られているわけで、結局従うしかないのである。いや別に、水代もコーヒーを注ぐのもいいのだが、当たり前だと思われるのは心外だ。

 サークル室に戻り、水を注いだティファールのコンセントを入れる。

 小田くんと椰代は向かい合って座っていた。昼に俺が使用していた椅子に小田くんが座っているため、奥から椅子を引っ張ってどかり、と座る。

 椰代は演技じみた動きで俺たちを見回した。

「これで3人、あとは三雲さんと、一人引っ張ってきたいな」

 …水を注ぎながらまさか、とは考えていたが、小田くんはここに入るつもりなのか。

 こんな物置のようなサークルに入ろうとする奴がいるとは。小田くんは訂正もせずにそこにいる。事前に一度内装は見ていたのかもしれないが、なんだってこんなところに…。探偵サークルだぞ、”探偵サークル”。センスが壊滅的なのか名前に頓着がないのか、小学生でももっとマシな名前をつける。

「その肝心の三雲さんはおらんやないか」

「え?いないんですか?」

 小田くんのガラス玉を嵌め込んだような大きな瞳が俺に向き、若干たじろぐ。

「あ、ああ」

「前まで来てたんだけどね、めっきり来なくなった」

「そうなんですか」と小田くんの大きな目は椰代に向く。

「辞めてはないんですよね?」

「辞めたとは言われてないよ」

(また三雲さんか)

 今日だけで3回はその名前を聞いた。

「あー、…あのな、いい加減話に入るために知っときたいんやが、三雲さんって人はどんな人で、なんでサークルに来んのや。このサークルを作った張本人ってことは知っとるけどな、それ以外が全くわからんねん。まず、男なんか女なんか」

 答えたのは椰代ではなく小田くんだった。

「三雲さんは髪の毛が金髪で、背が高くて明るい性格の、かっこいい男性です」

「へ、へえ」

 無表情でベタ褒める小田くんは、冗談で言っているつもりはなさそうだ。

 同性にここまで褒められるって、三雲さんって人は完璧超人なのか?

「なんで来なくなったかは分からないな」と、椰代。

「いつから来てないんですか?」

「関ヶ咲がここに来るようになってからだな」

「その言い方やと、まるで俺が来たから来んくなったみたいやないか」

「ああ、その可能性もあるかもね」

「んなわけあるか、面識もないのに」

「三雲さん、忙しくて来れないんでしょうか」

 椰代の軽口を受け流していると、小田くんは物思いに耽るように口元に手を当てた。その数秒、沈黙が場に訪れた。俺と小田くんだけでなく椰代も何も言わないからだ。

 椰代の方を見ると椰代は先に俺を見ていたようで、ばちりと視線がかち合った。その視線の意味が分からないほど俺も愚鈍ではないつもりだ。

(…まあ、ここに小田くんが入るんなら、俺も交流を持たんとな)

 元来、人とのコミュニケーションが苦手な方だが、ここをサイトの根城にする俺に彼との接触を避けていい理由はない。

 俺は小田くんに向き合って、彼と対話を試みた。

「あー、小田くんは、三雲さんとはどこで会ったんや?」

 話しかけると、小田くんはパッと顔を上げた。

 近くで見るとより童顔が極まって見える。高校生と言われても信じてしまいそうな幼い顔つきは、平坦な表情でなく笑顔なんかすれば可愛い部類にも入るかもしれない。

「入学して4月中旬の、掲示板の前です。探偵サークルのポスターを見ていたら三雲さんに話しかけられました」

「ってことは、小田くんは一年か」

 予想通り、小田くんは新入生のようだ。

 最初から敬語口調であるし、小田くんも俺たちが年上だと認識している。

「はい、文学科の一年です」

 ふんふん、しかも同じ文学科の一年…。

(げっ!!!)

 理解した瞬間のけぞった。

「三雲さんにはキャンパスの案内を頼まれて、ある程度大学の中を案内しました」

 俺の変化に気づかず話を進める小田くんの横に座る椰代の、猫のような目が弧を描くのに、俺は気づいた。

(こ、こいつ…!)

 不吉な笑みは一瞬でにこやかに戻り、小田くんに話しかける。

「改めて聞くと、一年生に案内をお願いするって変な話だよね」

「途中編入してきたから分からないのだと言っていましたよ。三雲さんも俺が一年生であることは予想外だったようですけど、俺はオープンキャンパスに行ってましたし入学してすぐには大体見て回って把握していたので了承しました」

「三雲さんって途中編入なんだ。それは知らなかったな。それで、ここを誘われたんだよね?」

「はい、案内し終えた後に、探偵サークルに興味があるならC棟の奥に来てくれ、と言われて…、先週ここに来た時に椰代さんとは会ったんですが」

 小田くんがこちらを向く。椰代がにこやかな顔のまま

「ああ、紹介が遅れたけどこっちは文学科の」

「っせ、関ヶ咲や!小田くん、よろしくな!」

 椰代の言葉を遮るように、大手を振って片手を差し出した。

「はい、関ヶ咲さん、よろしくお願いします」

 小田くんは俺の乱暴な挙動に驚きもせず、無表情で手を握り返してくれた。これでクールに「どうも」と握手なく流されれば致命傷だったかも知れない。小田くんの礼儀がなっていて助かった。

 2人の握手が熱くかわされたタイミングでぴろりんと、お湯が沸いた音が鳴り、これ幸いと椅子から立ち上がる。

「あ、俺、コーヒー入れとくな!椰代はブラックだよな?」

 椰代は腹が立つほど綺麗に微笑んだ。

「ああそう?悪いね。小田くんはミルクいる?」

「いえ」

「ブラック2やな、了解〜」

 跡を濁さない軽やかなフェードアウトを決め、ティファールからお湯をいつもより丁寧な仕草で注ぐ。

 …香ばしいコーヒーの匂いに包まれながら、テンションが急降下している自覚がある。

 俺はこの春に留年をしている。

 所有しているブログが思わぬ成長を遂げているからと言って、その事実に対してすでに吹っ切れているほど強メンタルではない。ネットでいくら名を売ったところで今の知名度なら俺の陥っている三次元的現実とは無関係である。悲しいかな別問題だ。

 俺の心には依然深い傷と共にこれからの人生への不安が住み着いており、こんな俺にだってプライドはある。

 年下に留年したと思われたくないなんて、チンケなプライドは早々に捨ててしまえと椰代なんかは言い捨てるだろうが、いかんせん状況が急すぎる。だから俺は逃げて、使用人よろしくコーヒーを注いでいるのだ。

 …自分で言ってて悲しくなってきたな。

「三雲さんは経済学部だと言っていましたが、文学科の椰代さんはどうやって三雲さんとお会いしたんですか?」

 2人の会話は俺を除いて流暢に続けられていた。

「4月の初めかな。椰代さんは体が悪いみたいで、倒れてたところを助けたんだ」

「倒れてたって、…大丈夫なんですか、それ」

「慣れてるみたいだったよ。慣れてるから大丈夫ってことはないんだろうけど。普通に介抱をして色々と話をしていたら、サークルを立ち上げたいと考えてるって話をされた」

「意外です、病弱な印象はなかったです」

 2人の話の途中でコーヒーは出来上がった。離脱を決め込めたとしても、出来上がれば出すしかない。

 俺は湯気をあげるコーヒーを持ち、机にコーヒーを置いた。

 なるべく気配を消して出したつもりだったが「ありがとうございます」と、これまた礼儀正しい挨拶とお辞儀を小田くんからされる。早々にカップに口をつけた椰代は「関ヶ咲にしてはまあまあだな」と宣った。うっさいわ。

 椅子に座り息を吐くと、俺は少し冷静になった。

 大人しくコーヒーを飲む小田くんに俺への興味は感じない。

 てっきり椰代の不適な笑みから俺を嘲笑するために文学科の一年をよこしに来たのかと勘繰ったが、椰代にそれらしい動きもない。

(油断できんけどな…)

 なんだか、最近猜疑心が強くなった気がする。

 俺の気が弱いからだけではなく、近くにいる椰代が信用に置けないから、というのはあると思う。

「俺も三雲さんの件は、体調を崩してるんじゃないかって気にしてたんだ。よし、三雲さんには近いうちにコンタクトを取ろう。サークルとして活動開始しないことには、ここも正式に使えない」

 マイペースな椰代の提案に、好きにしろよ、と俺が言う前に小田くんが「え、ここ、無断使用なんですか?」と声に驚きを乗せて言った。

 そこか。

 いや、これはこれでまともな反応だな。

「ここなら何も言われないよ。たまにダンボールとか使われなくなった粗大ゴミとか置きに来る人はいるけど、何とでも誤魔化せるからたむろするにはいい場所だ。埃っぽいのが難点だけどね」

「はぁ…」

「…」

 変化の少ない表情の中に、先ほどからわずかな落胆の色が見える、気がする。

 小田くんの人となりは悪くはなさそうだ。なんというか、言動に悪気がない。礼儀もなっている。童顔も相まって不健全な方向に進もうとしている青少年を見ているような感覚がある。

「…こんなとこでいいんか?三雲さんもどうなるか分からんけど」

 小田くんは俺と椰代を交互に見て頭を下げた。

「あ、はい。どうぞ、よろしくお願いします」


 

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