エメラルドのつめ
天川裕司
エメラルドのつめ
エメラルドのつめ
彼女は、満二十八歳にしては色気が漂い、周りに居る男共を誑かすには十分の器量もあった。時は1887年、ここはロンドン界隈である。シャーロックホームズゆかりの土地として知られるベイカーストリートを挟んで、オズボーンストリートとホワイトチャペルロードを抜けた処に聳え立つ、豪邸を思わせるかのような一軒の屋敷が、彼女のマイホームであった。曇がちな気候をものともしない彼女の心情は、この時ばかりは浮足立っていた。好きな男が川へ身投げして、結局、介抱の末に亡くなったのだ。某月一日、密かな辺境の土地で、既に記憶の中に掲げられる絵の中のスターと成った彼が、密葬により送られた。彼女と両親、そして付き人達は、彼を記憶の中に留めなければいけない、と、暫く、自分に言い聞かせていた。又、葬儀の際に彼女が目にしたものは、土葬により地中深く掘り下げられた棺の内に光る、あの緑色の目である。開眼していない筈でも彼女には閉眼も開眼も同じ事であり、好きだった彼の匂い、髪型、杖、使い古されたタキシード、小粋に振る舞うマスタッシェ、何から何まで思い出せる無言の過去は、今やレプリキャントと化している。それが、たまらなく彼女には悲しく思え、又、ロマンスを感じさせるものに変わっていた。
煌めいた日が燦々と照りつける、並木通りを誇らしげに彩ったオズボーンストリートに、一匹の鳩が、子供が遊ぶ様子を天空から見下ろすかのように飛んで行くのが見えた。彼女は近所でアイスクリームを買い、付き人のマセル―にも一口味あわせて、得意気になって、広い裾の開いたレディメードをみせながら、首を傾げる子供たちの目前を通り過ぎて行く。何事にも動じない、これが当の彼女と付き人のモットーでもあったが、彼が死んでからは、その言葉の効力は更に人工により磨きがかけられたダイヤのように、目前で輝くものとなった。彼女の心にはいつも、自分の「スター」の陰が彼の面影を作り上げ、又、内実をも作り上げて、又自分の経験の一部とするのを彼女は既に、得技としていた。或る女優の気質を窺わせるものである。しかし、このような時期は流石にマセル―から、何度かそのことで注意を受けたが、知る由もない、といった感じに横耳で聞き流し、又、爪を磨いた。
「今日は天気がいつになく良いわね。あの人と桟橋を歩いた時の事を思い出すわ。あの人ったら、口にパイプをくわえたままで、おどけた拍子にもう一本、なんて欄干に手を掛けたまんまで私に勧めて来て、断ればたちまち子供みたいに泣きじゃくる。でも私はあの人のああいう処に惹かれたんだった。雲が何と言おうと、空が何と言おうと、あたしはあの人のもので、あの人は私のものだったのよ。」と、軽快な口調を以て、話し始める。独り言である。二羽の燕が先程から止まっていた窓の桟から飛び立ち、綺麗な五月晴れした空の彼方へと消えて行った。彼女は、その二羽の燕の行方を辿り始め、どこに居るのか検討を付けている様だった。白紙に戻されても、地図が浮かび上がって来る程に、彼女の心の中には漆喰に塗られた街のキャンバスが所せましと掲げられている。誰もその心中について知らなかった。
「お風呂の用意が出来ました。若奥様。」と、決められた時間にドアの前に立ち、胸に手をやって、その腕には白いナプキンを置き、彼女の顔色を窺いながら進言したのは、マセル―の次に雇われた付き人、ゴイセンだった。マンドゴメリー・シズワ―ス・ゴイセンといい、1837年生れの貧民の出で、四十五歳を過ぎた頃にこの家に拾われ、今年で六年目を迎える年の割には新米の紳士である。一度、馬車から落馬して、金品を失くした経験が在る。出身は悪いが、品は良く、その辺りの人当たりの良さを買われて奉公させられた、と、そのような経緯である。
「すぐ行くわ。」と、言葉少なに返答した彼女は、彼の顔を見ずに着替えを箪笥から引き出し、四つ折りに畳めるクローゼットの内から新品のガウンを取り出して、のんびり、ベッドに座りながら用意をした。暫く、窓の外を又のんびり見ていた彼女の姿が在った。爪を見直し、彼女はすぐにベッドから立ち上がった。
浴槽は彼女の腰少し上辺りまで届く、当時にしては少々深めの造りであり、彼女はこの造りに満足していた。必ず入浴中には爪を研ぐ事を忘れない彼女であり、研磨用のブラシは浴槽のタイルに見事の形容を以て並べられてある。これ等を並べるのは、当の執事のマセル―とゴイセンであり、時々、女の付き人のマリアーヌが手伝った。固いブラシの物から柔らかい物までが取り揃えられてあり、この時代に、このような小用の為に道具を取り揃えられるというのは、余程の大富豪が為せる業であり、彼女の豊かさに目が移る。彼女は出掛ける時も家に居る時も、緑色したマニキュアを塗って居り、それがとてもお気に入りであったので、死化粧の際も、マニキュアはこの「緑色」を塗って欲しいと語っていた。その緑色は傍から見れば、エメラルドの色をしていた。以前の彼女の生活とは悲惨なものであって、このような大富豪に成るまでの軌跡を辿れば、到底、現在の状況など考えられない当時の状況が思い起こされる。彼女は元々女優を目指して居た経緯が在り、成れなくとも、誰かの付き人で良いから雇っては貰えぬものか、と算段していた時期もあったらしく、それ程、現実離れしたショウ・ビジネスという夢の国に憧れる質を持っていた。彼とはそんなビジネス界で有名な、惨劇のオペラを観に行っていた時に知り合いとなり、帰りのバーで呑んだ挙句に深く知り合い、駆け落ちするように結婚の約束までしてしまった、とそのような経緯が残る。そんな彼女の両親は、元々、漁師であったが、漁業が壊滅的に悪く成り始めた頃に彼女の言うショウ・ビジネスに手を出し、彼等が以前に偶然書きとめて置いたシナリオをショウに出したところ大当たりして、現在の王座に居座っている。ショウ・ビジネス界で、彼等を知らぬ者は居なかった。もし居たとすれば、もぐり、スパイ、余所の区を仕切る警官の類である。
「指輪を見せてくれないか」と、彼は生前、彼女に何度か言った事があり、その都度彼女は、得意気に見せていた。「いいでしょう、こんな良いものちょっと他にはなくってよ。懸命にスター効果を見せて、私達の為によりよく輝いているのだから、大事にしなくちゃね。フフ..」彼が観賞する仕草を他所に、彼女は独り芝居をみせるかの様によく呟いていた。彼女のそんなまどろっこしい能書きにいつも倦怠がさし、クルッ、クルッ、と軽く親指と一指し指で半回転ずつ指輪を回転させた後、先ず何も言わずテーブルの上に置き、それから間違った、というように、又彼女の指に返すのである。彼は一人でその指輪を観賞したかったのだ。彼女はつゆも気付かず、そんな彼との空間を楽しみの糧として、夜な夜な、噎せ返る夜の旅路へと彼を誘った。始めは彼の方からよく彼女を誘っていたが、次第に欲望が出た彼女は臆面もなく真昼でも彼を誘い出し、貞淑気取りだった。そんな彼女を疎ましく思い煩う者も居り、彼と彼女が庭でデートをした際には決まってその時刻、現れて、軒の下から彼等をじっと見詰めていたものだった。この家の執事達の何人かはそれを目撃しており、その男が急に現れても、さして問題にする、といった体裁は見て採れなかった。いつのまにか、という時間の経過がこの家の片隅に生きて居り、時にその存在は、家に居る者にとって大きく効果を発揮する事がある。
ジャボン!と足を前方へ滑らせ、肩まで湯に浸かった彼女は、うっとりとして、石鹸の匂いと泡の七色に現実を忘れ、未だ寒い、外でゴーゴーと唸る北風の勢いをも堪能していた。マセル―とマリアーヌは浴室から一つドアを隔てた外で待って居り、ゴイセンは食事の準備をしている。何を食べるかは、彼女のその日の気分次第だったが、彼女が何を食べるのかについてゴイセンは完璧に把握して居り、彼女の食べたくないものを作った事は、これまでに、一度もなかった。血に染まったような湯の中の「赤」を見届けた後で浴槽を出て、もう一度爪をよく擦った後、タオルを前隠しにしたまま腹下まで映る少し汚れた鏡の前まで行き、髪を乾かした後、もう一度爪を磨いた。
「もうよろしいでしょうか。奥さま」と、マリアーヌの声がして、彼女は脱衣所を後にした。
彼女の両親は現在、土地の巡行に於いて別地に行って居り、帰るのは翌月となっていた。その間、執事が今年で二十九歳になる彼女の面倒を見るのである。彼女の身の周りの事は、殆どこれ等の執事がやっていた。マリアーヌは丁度、マセル―とゴイセンの中間のキャリアに位置して居り、今年で十年目に入る。マセル―は二十年になった。特にマセル―などは彼女をほんの子供の頃から見て居り、彼女の性格や心情の変化、又癖までも熟知していると言って良い程であった。そのマセル―の教養が祟ってか、他の執事達も鷹揚にして彼女の質を読み取り、一見、彼女にとっては、なくてはならない存在とまで成り上がっていたのだ。彼女は、そんな環境に在る為に、幸せだった。
言われた通り、食事を取る為、ダイニングルームへと足を運んだ彼女だが、その時、ドンドン、とドアを叩く音がした。彼女を先導していたマリアーヌは彼女をそこに留めて、ドアまで駆け付け開けてみると、いつぞやの男が急に顔を覗かせていた。少々、驚いたマリアーヌであったが、すぐに又平常を取り戻し、「どうぞ」と少々無愛想ではあったが中に招き入れ、彼女と共にダイニングルームまで案内した後、上等のカップに香りの良い紅茶を入れて差し出した。すっかり持て成された男は気分が良く成り、更にもっと、と、少々の欲が又出た。食事を済ませた後で、彼女と暫く部屋に籠りたいと言うのである。今度は、マセル―とゴイセンが少々渋り始めたが、すぐ又平常を取り戻して、承諾した。マリアーヌは、彼等が一室で何をするかについて知っていた。
食事も楽しく済ませた後、約束通りに彼等は彼女の部屋に引き揚げた。食器の後片付けをしていたマセル―とゴイセンは、マリアーヌに「今日はもういい」と、貰った自分の部屋に引き取らせた。残った二人は一生懸命に、ごしごしと食器の汚れを洗い落としている。マリアーヌは、帰りがけに、ちょっと彼等のドアにまで立ち寄り、中の音を聞き、あの時の記憶と葛藤を呼び起こしたまま、帰宅した。マリアーヌの家はこの屋敷から近かった。
「あの時は散々だったよな。いつお前が又ゴネるかと冷や冷やもんだったぜ。しかし、こんな良い屋敷に住めて上手い食事にありつけて、暖かい毛布で寝られるんだものなぁ。誰のお陰か忘れてはいまいね。」
「わかってるわ。そう何度も言わないでよ、やっとあなたの事を好きに成ろうとし始めているのに。又気分が彼の処へ行っちゃうわ。いいの?」
狭い密室の中で交わす二人の会話が聞える。この時の彼女が言った「いいの?」という言葉は既に効力を持って居らず、彼の掌の上で転がされて楽しまれる一つの当てになっていた。男は、彼女がこう言う度、彼女が可愛く思える。この男とは、彼女の両親と相応の付き合いが在って、例のショウ・ビジネスの成功を手伝った一人であった。或る日、彼女の両親はビジネスの手を拡げる際に、違う「ショウ」の路線を考え出し、軌道に乗せようとしたが、その瞬間の客の理想に合わなかったのか、早くも客離れが起き始めた。終に、明日の生活もままならないという窮地に陥った時に、この男がやって来て、その時必要な金を融通したのが始まりである。この男は元々ボンクラ上がりで都合の良いギャンブラーであったが、或る日そのギャンブルで大当たりをして、偶然この「両親」を見付けた時に懐に金があった。その時には、儲けた金で身繕いもきちんとして居り、「両親」は男の素性に気付けなかった、という経緯が在った。しかし金を借りて又成功して、暫く経った後で男の少々の欲に気付き始めた為、既にどうにも成らず、せいぜい折り良く共存して行こうと算段をし始めた。この男の欲は「少々」であった為、大事と成らず、娘を差し出す事で一件落着したのである。この男は、美しいこの娘が好きであり、男の目からは、彼女が「娘」にしか見えないところがあった。一人の女性、と気付く事もあったが、欲がその棘をうやむやにし、やがて経ち行く年月に一室を思わせる安堵を取りとめ、彼女であるこの「娘」と落ち着いた。
彼女は、この男の前でも爪を研ぐ事を忘れなかった。両親の躾をきちんと守っていたのだ。両親が彼女に施したレディとしての教育は、一時の体裁を保っていた。男はやがて、この「娘」との生活を夢に描くようになっていた。しかし彼女にはその夢がない。それは、執事達も気付いていた。又、それでいい、とも思っていた。彼女は、ここ最近、両親の勧めもあり、又、持ち前の女優に憧れる気質が物を言い、ショウに出演するようになっていた。段々、現実が遠退き始める感覚を彼女は覚え始め、始めは地に足が着かなくなることを怖く感じていたが、落ち着き、爪を研く事によって、将来に光っている自分の夢を射止めて身なりを整えた。「より、大女優に成らなければならない」と、永らく苦しめられた英国貧民の悲惨をその度に目の当たりにし、独走していた。「小さい子供が煙突の中に閉じ込められて、炭で黒くなりながら死んでゆくなんてのは、人が送る人生ではない」と連呼して、幼くして亡くした彼女の友達、キッドの事を思い出し、思い出す度に、自分の緑色の爪をその悲劇の絵の上に冠するようにして収め、「悲劇」を見ないようにした。男は、自分のするべき事をした後、帰宅した。
或る日、彼女は目覚めた後で顔を洗い、リビングルームへ行った。執事達が掃除を済ませた後、ゆっくりと、紅茶を呑みながらハイティ―を楽しんでいる。一度自室に戻った彼女が又来た事を、皆、喜んだ。
「宝石はね、或る決まった角度からカットしないと、その魅力を発揮しないものなのよ。ブリリアントカットなんて聞こえは良いけど、あれもきちんとした角度を踏まえて切らないと、何の意味もないしね。エメラルドは綺麗だわ。宝石と称されるものの中で一番好き。幸運、幸福、希望、安定、なんて私が今必要とする言葉を皆持っているし、私の誕生石でもあるの。まるで、私の為に在るような宝石だわ。」軽快にリビングを歩き回りながら彼女は、落ち着き始めた。そんな彼女を、マセル―は紅茶を一口呑んだ後、うっとりと眺め、ゴイセンは掃除に使ったシャベルを玄関のドア横に立て掛けた後でパンパンと手を払い、紳士のように颯爽と自分のソファまで歩いて行って、ゆっくり彼女の方を見て微笑んだ。マリアーヌは最初からこのリビングに居て、手に持ったケーキを乗せた皿から小さく指で千切ったスポンジを口へ放り込み、彼女の言う事を遠くで鳴る気笛を聞くように聞いている。落ち着き払った様子が三人から見ても見て採れる。
「スター効果、いい言葉ね。今の私の為に在るような言葉だわ。この指の爪も決まった角度から磨けば違って見えるかしら?」と、彼女はマリアーヌに相槌打つように言い、女優気取りで歩く彼女は又、マセル―の横を通り過ぎ、弧を描くようにしてゴイセンの前を通り過ぎた。
「スター効果…、ああスター、…私、いつか大物になって見せるわ。あなた達の為にも、お金をうんと稼げば、誰からも借りる必要もないものね。もう、あんな過ちは親には踏ませたくないし、私も踏みたくない。もし踏んだら、又、磨けばいいわ。磨けば『エメラルド』という輝きは永遠に変わる事がないんですもの。私もエメラルドと一緒で、常に磨きをかけてないと、そんなこんなで、駄目になっちゃうから、これからも磨いて磨いて輝かせるのよ。絶対、忘れちゃダメ。私の為に、ううん、この家に住む皆の為にも。」
男は、元々身よりがなかった為、やがて、誰からも忘れられた。ここに住む執事達は、皆、一様に、貧しい生れの出であった。マリアーヌなどは、二度も男を誑かす詐欺行為で留置された経験を持っていた。マセル―は唯一この中ではまともな出身であったが、より、上流の生活というものに憧れ、出来れば、将来、彼女と二人だけで暮らしてみたい、と密かに考えていた。しかし、年齢の差も在る為か、鏡を見る度、日々老いさらばえて行く自分を見る破目となり、とても紳士を気取れない自身の姿を目の当たりとする為、彼女をやがて肖像化させて行った。哀しい末路である。ゴイセンはゴイセンで、そんな彼等と仲良くしていたが、時折、マセル―が邪魔になった。
彼女の両親が帰って来た。馬車から荷物を下ろし、家の中までゴイセンが運んだ。マリアーヌは「お帰りなさいませ、旦那様、奥様」と貞淑ぶった様相を窺わせ、この時ばかりは彼女の事を彼女の言い付け通りに「奥さま」とは呼べなく、時折、このような時、言いながら、ちらっと彼女の方を見て、微笑を浮かべたりしていた。
「あー、疲れた。いや、今回の旅回りはいつになく大変だったよ。」(口にパイプをくわえながら又話す)「まぁ、これ程までに大きくなった我が社は、誰からも知られるビジネス業界きっての頭取扱いで、警察などにも優遇されるものなんだね。(妻を指差し)こいつなんか警視の者に色目をつかう始末さ。参ったよ。」と家に入りながら、笑いながら旦那は言う。旦那はこの界隈では貧民から成りあがった名士の扱いを受けており、彼が為すそのショウの業績は、王室の誰かにまで届く程のものだった。王室が認めた、と認識した界隈に住む住民たちには誰も彼等を悪く言うものはなく、むしろ、英国だけではなく、他国にも、その功績を見せ付けてやって欲しい、と願う様子が在った。このショウで成功を収めた後で彼等は、慈善事業をも営んで居り、界隈に住む者達に金を渡していた。「貧民の心が隅々まで解る紳士」などと評判が挙がり、彼等はその界隈を仕切る警察を含めた、住民たちの名士と成った訳である。
「あなた、今度はどこの国を廻りましょうか?私達が成功を収めれば、その分、救われる人達が比例するように増えて行くのよね。もっともっと私達、成功に向けて精進しないと」と、奥様は、降っても良い時用の傘を左腕にぶら下げたまま、家の中まで歩き、横で自分の荷物を持ってくれているゴイセンに微笑を見せて、いつも通りに旦那に言った。ゴイセンはその奥様の言う事を聞きながら、一々頷き、一度、担いでいた大きめのトランクを片方に又持ちかえて歩き、この家族に服従する様子が溢れていた。
「そうだ。その通り、これから我々は、恐らく又、数々の困難を乗り越えなければならない、そんな試練に遭遇することだろう。しかし、そのような中に居ても、踏むべき道を誤ってはいけない。こんな時代だ。一つ契機を掴めば、このようにチャンスと共に、相応の報酬が付く。又それと一緒に追随してくる相応の不要物も付くがね。(笑)だが、大丈夫だ。みてごらん、この街は皆我々に味方してくれているのだ。皆と同じ利益を我々も手にしている為、皆が一致団結して自分達の生活を守っている。このまま一つのゴールを目指せば良いのだよ。」溌剌とした笑顔には淀みがなかった。しかし、マセル―には、置き去られた昔の旦那様の表情が見えていた。
「あー、疲れたわ。疲れたけど、やっぱりここが一番ね。我が古巣に戻ったって感じだわ。そうそう、今度、庭に、大きなブナの木を植える事にしたから。」と、奥様が上着を脱ぎながらパタパタとリビングに向かう途中で執事達に言った。
「これだよ。一旦、言い出したら聞かないからな。まぁ、庭にあの男も眠っている事だし、その庭に木が三本というのも寂しい気がするからな。」と、旦那様が笑いながら言う。
「マリアーヌから手紙を貰って解ってるけど、今一度確認するわ。木を植えるのはあの位置でよかったのよね。」と奥様が三人に向かって言う。三人共がはっきりと頷いた。
「それはそうと、私の可愛い跡取り娘はどこだ?部屋か?」旦那様はゴイセンとマリアーヌに訊いた。二人は揃って、「お嬢様は自室においでです」と返答した。
彼女は、ベッドに寝転びながら、この前に上演された「ロミオとジュリエット」のジュリエットが言う台詞を事のついでに、感情を込めながら呟いていた。そして鏡の前に座り、一度、マニキュアを落そうと持って来た洗面器の湯に十指を浸しているところに、父親が彼女の部屋のドアをノックした。「あいているわ」の彼女の声を聞いて、父親が彼女の部屋に入る。
「相変わらず可愛い我が娘よ。ただいま、帰ったよ。」と父親が言うと、彼女は父親に抱きついて、今までに、少々溜まっていた不安と焦燥を振り払うかの如く、胸に顔を埋めて、暫く彼女と父親は、体を左右にゆーらゆーらと揺らしながら、再会の喜びを分かち合った。
(父親)「良い子にしていたかい?」
(彼女)「うん。いつも良い子にしているのは、お父様が一番よくわかっているでしょう?」
(父親)「いくつになっても、お前は私の一人娘だ。お前も私達のように、否、私達以上にこの道で成功するのだよ。私達は、それを楽しみにしている。」
(彼女)「わかってるわ。私、必ずお父様達のあとを継いで大女優、否、良い女優になるわ。そう、誰からも愛される良い女優に。その為に、お父様、これからも私を守ってね。一時の迷いは私の、私達の、辿る過程には不要のものだったわね。経験してわかったわ。何事も経験。経験に経験を積んで、女優は演技の素質と術を開花させるものなのね。経験しないと、一つのシーンでも上手く演じ切れないもの。でも、少し、まだ怖い気がするの。」
(父親)「そうか。お前は未だ云わば役者の卵だ。色んな苦難が付き纏う。恐怖もね。だが、それ等のものがやがて糧と成り、一個の女優足る人格を形成して行くものだ。お前の言う恐怖をお前が追い越した時、又お前は一つ、殻を破って大きくなるだろう。もう手は打ったよ。」
(彼女)「(暫く父親の顔を下から見上げて)うん!私、もっと努力するわ。私の為に、皆の為に!」と彼女は父親に言った後、庭が見える窓の外をぼんやりと眺めていた。永く、「役者」など夢にも思えない職業が、今、現実のものとして目前にある状況に彼女は、これまでの諦めがそのまま躍動に変わって尚相乗するように熱を入れる結果と成り、もうすぐ来る三十歳という一応の壁に向かい、少々、焦っていた。そんな時は、その緑色の爪に勇気を貰い、陶酔の力を以て、邁進していたのだ。結果を欲しがっていた。洗い終えた彼女の爪は、これまでに塗りたくったマニキュアの効果でボロボロになっていた。その様はあたかも、細かい傷が無数に付いた様にみえる無残なものだった。彼女はその後、「何事も経験」と、一心不乱に、女優の道を歩いて行った。
エメラルドのつめ 天川裕司 @tenkawayuji
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