トラブルは事件を呼ぶ

 本当は、もう少し『らしさ』を期待していた。

 特に乗り気ではなかったとはいえ、折角海に来たのだ。それらしいシチュエーションを、霜はやってのけると思っていた。

 しかし、蓋を開ければ意外なこともある。


「……」

「霜って、意外におバカ?」


 この男は完全に伸びきっていて、まるで目を覚まさない。武士の切腹のように、自らの首をチョップして気絶したのだ。

 ……本当にあり得るのか? そんなこと。いや、この男ならあり得るのだろうか。


「……勿体ないな」


 パラソルの下で休む莉緒は、ぽつりと呟く。

 遠くを眺めると、早速ナンパに乗り出した龍が見えた。きっと手あたり次第ぶつかって行って、そのうち何度かは爆死するだろう。


「さて、私は水分補給を――」


 クーラーボックスの飲み物に手を伸ばそうとした。

 そんな折、事件は起こる。


「おい、向こうは可愛い子が多いぜ」

「おーし、行くべ行くべ」


 莉緒たちの後ろを、若い男の集団が通過していくのが見えた。

 しかし何やら、男たちの足取りはふらふらとしている。砂浜で足を取られたのか、あるいは暑さでぼんやりしていたのか。それらは定かではないが、あまりに不注意で、危険だった。


「おっとっ!」

「――きゃっ⁉」


 案の定だ。

 莉緒がクーラーボックスに手を付けた瞬間、一人の足がそれに直撃。

 しかも最悪な事に、男はバランスを崩してパラソルに寄りかかり……バキッという音を立てて、してしまったのだ。


「ハハハっ! お前気を付けろよ!」

「いって……邪魔なんだよ、クソが!」

「あーあ、ジュース吹っ飛ばしちゃった」


 悪びれもせずに悪態をつき、ヘラヘラとしている彼らに対し、莉緒はしばし唖然としていた。しかしふと、我に返って声を漏らす。


「あ、あの」

「あぁ? そっちがこんな所に置いたのが悪いんだろ? 何か言う事があんだろうが」

「ご、ごめんなさい……」


 ――あれ? どうして私が謝っているんだろう。

 本当は『謝ってください』の一言くらいは言いたいのだけれど、……怖い。下手に言い返したらどうなるかわからない。一人でどうこうするのは、無理だ。


「お? でもよ……この子、ちょっと可愛くね? 水着もちょっとアレだし」

「え?」


 一人がこちらの顔を覗き込んで言ってきた。


「なーなー、向こうで俺らと遊ばない? 他にも友達がいるからさ、君みたいな子が一緒なら喜ぶと思うんだ」

「そうだな。こっちの気も収まらねぇしよ、誠意を見せろや」

「い、いやちょっと……」


 ……以前にも似たようなことがあったと思うのは、気のせいだろうか。

 しかし、また面倒なことに巻き込まれてしまった。しかもこればかりは、こちらに非はないではないか。


「文句あっか?」


 『ぶつかってきたのは、そっちじゃないですか』

 この一言だけでも言えたらいいのに、絶対に言えない。だって、言ったらどうなるかわかるじゃないか。

 ――どうしようどうしよう! いや、どうしようもないじゃん!

 混乱で頭が真っ白になる。

 自分は悪くないのに、一方的に責められる悔しさが……と同じだった。


「私は……嫌だ」

「あぁ⁉ 調子に乗んじゃ――」


 男の血管がブワッと浮き出て、完全に頭に来ているのが見える。

 怒り任せに、こちらへ手を伸ばしてきた……瞬間。


「おい、あんたらいい加減にしろ」

「あぁ⁉」


 一瞬瞑った目を開けると、霜が男の手を受け止めていた。

 ピンチは桐崎霜を呼ぶらしい。どのタイミングで目覚めていたのかは、わからないが。


「ぶつかってきたのはそっちだろう。……俺たちの私物を滅茶苦茶にしておいて、何様のつもりだ」

「この女の彼氏か?」

「そうだが?」


 霜は手を離さない。男は手を引かない。

 僅か数秒、ピリピリとした空気感で睨み合いが続いた。


「おい……その手ぇ離せや」

「離したら、あんたは俺を殴るだろ?」

「殴るだ? はっ! 今から頭下げりゃ、前歯三本折るだけで許してやるよ」


 言い合う度に筋肉が力んで、怒りが溜まっていくのがわかる。


「あんたに俺は倒せない。そっちが手を出すなら……俺はあんたら全員を殺す」

「そ、霜……ダメだって! やめようよ!」


 この男は、自分が誰に喧嘩を売っているのかわかっていないのだ。いや、わかるはずがない。こんなにも平凡そうに見える少年が、あの〈純潔の悪魔〉だとは思いますまい。

 もし霜がその気になれば、取り返しのつかないことに……


「なになに、喧嘩?」

「あそこのヤンキーが、女の子に手出ししたらしいよ」


 ――あぁ、マズい。

 騒ぎを聞きつけて、野次馬が集まって来た。相手がどうかは知らないが、霜にとっては注目されることは非常によろしくない。

 ……なんとか、相手が引いてくれれば。


「おい、そろそろやべぇぞ」

「――ちっ、てめぇ……今度会ったら憶えておけよ?」


 そう言って男は、グイッと顔を近づけてきた。霜の顔を凝視して、その特徴をしっかりと憶えて、後でやり返そうという魂胆だろう。

 その、瞬間。


「……ん? あんた、それ」


 途端に、霜の頭に疑問符が浮かんだ。疑問と言うより、違和感だろうか。


「霜、下がって……」

「おい、行くぞ!」


 違和感の正体を確認する前に、莉緒が霜を引き下がらせ、男たちは去っていく。


「――いや、確認するまでもないか」


 訳もわからないまま、一旦は事態の収束を最優先とする。

 その中で、違和感の元となった記憶の中を探り……今、納得した。


「なるほど。やたらと沸点が低いというか、明らかに異常だと思ったけど……そういうことか」


 あの男たち、イチャモンをつけるにしてもかなり無茶苦茶だったと思う。引き下がったから良いものの、自分からぶつかっておいて殴ろうとしてきたのだ。何か、精神的に異常な物を感じた。


「どうしたの?」

「いや。ただ少し、危ない匂いがしてね」


 そう、。物理的に。

 あの男が顔を寄せたとき、その息から感じ取ったもの。〈純潔の悪魔〉だからこそわかる、その匂いは……


「あいつら、確実にヤってる。あれは、〈危ない薬〉の臭いだ」

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