いざよう月と恋心
杵島 灯
月の綺麗な夜に
文明開化と持て囃される昨今、「昔と比べると、夜もずっと明るくなりましたよ」と、ばあやは言う。
しかし十五歳になったばかりの緋紗子からしてみれば、「昔」なんて知らない世界の話だ。夜の闇はとても深く感じるのだし、陽が落ちて影が多くなると屋敷のあちらこちら、それこそ小さいころから馴染んでいる自分の部屋の中にさえ、見知らぬ『何か』が凝っているように思えて少し怖い。
ただし今日だけは別。
膝を揃えてきちんと座った緋紗子は、開けた窓の外に月がのぼるのを今か今かと待ちわびていた。
(お手紙をお読みになって
今からちょうど三か月前、十五の誕生日を迎えたその日。
緋紗子は兄の友人である慶則と婚約をした。
五つ年上の慶則は緋紗子の憧れの人物だった。兄を訪ねて慶則が屋敷へ来きたとき、物陰からこっそり彼を眺めていたこともある。
豪放磊落という言葉がよく合う兄は緋紗子の行動にまったく気づいていなかったようだったが、慶則とはたまに視線が交わったことがある。慌てて顔を引っ込ませ、そうして再び顔を覗かせると、まだこちらを見ていた慶則ににくすりと微笑まれたりもしたものだ。
そんな風だったから「はしたない娘だ」と呆れられているかもしれないと思ったのに、まさか婚約を持ちかけてもらえるなど思いもよらなかった。今でも、緋紗子が見る都合の良い夢ではないかとすら思うくらいだ。
大好きな慶則と本当は少しでも一緒にいたい。毎日でも顔を見たい。しかし未だ結婚もしていない身ではそうそう会うこともできない。
顔を合わせるために何か良い口実はないだろうかと頭を悩ませていたある日、思い付いたのが中秋の名月だった。
(一緒にお月見をしませんか、とお誘いするのはどうかしら)
月を見るのは風流だ。しかもそれを理由にして誘うのは、とても大人っぽくて
緋紗子は特別に良い紙を用意し、心をこめて文字を綴った。墨の黒は夜闇の色、だけどそう考えても今は少しも怖くない。
あとはこれを出す前に母と相談して、当日の飾りや団子の手配、酒に合う肴の用意――慶則は酒もたしなむのだと緋紗子は知っている――のほか、家長の父へうまく伝える方法を一緒に考えてもらうだけだ。
部屋を出た緋紗子は母の部屋へ向かう。木張りの廊下を進む足取りは軽いし、音もいつもより弾んでいるような気がする。
ただ、その音は途中からドスドスという響きにかき消された。帰宅した兄がこちらへ向かっているらしい。どうやら兄も母に用事があるようだ。
緋紗子が先に会ったのは兄だった。廊下で出くわした彼は緋紗子を見るとパッと顔を輝かせる。
「おう、緋紗子。聞いてくれ、私はついに観月の会へ呼ばれたぞ!」
頬を紅潮させて語る兄によると、どうやら十五夜の日には偉い方の家で大きな催しがあるらしい。
「今回は父上だけでなく、私も呼んでいただけた。もちろん慶則もだ。これは良いことなんだ。何しろ、多くの人とお近づきになれるまたとない機会だからな!」
「……まあ、すごい。おめでとうございます、お兄様」
微笑む緋紗子は長い袖の陰に手紙を隠しながら、今日着ていたものが和装で良かった、と思った。袖の細い洋装ならば、きっと上手く隠すことはできなかった。
ありがとう、と応えて兄は母の部屋の前で叫ぶ。
「母上! おられますか!」
嬉しそうな声を背にして緋紗子は来たばかりの廊下を戻る。足音はもう、弾んでいるようには聞こえなかった。
十五夜の当日、父と兄が予定通り観月の会に出かけて行くのを見送り、緋紗子は母や弟と一緒に家で月見をおこなった。家族の前では元気に振る舞っていたが、心は晴れたわけではない。部屋へ戻ってひとりになった途端、浮かない顔になった緋紗子を見かねたのか、ばあやが声をかけてきた。
「お嬢様。せっかくですから慶則様にお手紙だけでも差し上げてはいかがですか」
「……もう今更よ。それに十五夜を過ぎてしまっては、お月見のお誘いだってできないわ」
「来ていただけなくとも、よろしいではありませんか」
ばあやは緋紗子の手を取り、皺だらけの顔に笑みを浮かべる。
「そう。お手紙を差し上げるだけでも。――きっと慶則様も、お嬢様のお気持ちを嬉しく思われるはずですよ」
「……本当に?」
「ええ、もちろんですとも」
きっぱりとした彼女の言葉に後押しされた緋紗子は翌日、勇気を出して慶則に手紙を書いた。
『私は今宵、慶則様のことを思いながら月を見ようと思います。よろしければ慶則様も少しだけ、月をご覧になりませんか』
”その時には私のことを思ってくださったら嬉しいです”とは、恥ずかしくてさすがに書けなかった。代わりに一枚の絵を同封した。
小さな紙に描いた、満月の絵。
十五夜は昨日だったが、今日が満月になることもあるのだとは本で読んだ。
(だから、満月の絵でも可笑しくないわよね)
先生にも褒められる緋紗子の絵は、墨一色だってとても上手く描けたように思う。
慶則のことを考えながら手紙と、そして月の絵を封筒に入れ、使用人に託したのは今日の昼過ぎ。郵便屋を経由するのではなく、慶則の元へ直接届けに行ってもらった。
あれから、数刻。
空には少しずつ星が瞬き始めているが、月が綺麗に見えるのはもう少し後だろう。
何しろ今日は十六夜。いざよう月は、昨日の十五夜より現れるのが遅い――。
「お嬢様」
ばあやの声がする。もしかすると食事の時間になって呼びに来たのかもしれない。
できれば月が出るのを待ちたかった。残念な気持ちで緋紗子が返事をすると、障子が開き、何とも言えない表情のばあやが姿を現す。
彼女の手には、一通の手紙があった。
「慶則様から、お手紙が届きました」
慌てて立ち上がった緋紗子は、まるで奪うかのようにしてばあやから手紙を取る。
淑女らしい振る舞いとは言えなかったが、ばあやは何も言わなかった。
受け取った手紙を持って机に行き、封を切る。
中からは緋紗子の描いた絵が出てきた。
はじめ、緋紗子は絵を突き返されたのだと思った。
絵を入れたことが無作法だと思われたのか。あるいは慶則の好みに合わなかったか。
血の気の引いた顔で見るうち、緋紗子は自分が描いた月の下に『何か』が描き足されていることに気が付いた。しかしそれはお世辞にも上手とはいえないもので、一体何が描かれているのかよく分からない。
緋紗子は首を傾げ、眉を寄せる。ぐねぐねとした線を矯めつ眇めつするうちに時間はどんどん過ぎて行ったが、おかげでようやく思い付いた。
ふたつ並んでいるらしい不格好なそれは、どうやら。
(……人形?)
男雛と女雛を描いたものらしい。
どういうことなのだろうと思う緋紗子がもう一度封筒を確認すると、中に手紙があったのに気が付く。取り出し開いてみると、そこにはまるで絵が嘘だったかのような見事な手蹟で一言書いてあった。
『よろしければ、ご一緒に』
「……ご一緒に……?」
小さく呟いた緋紗子は、はっとして先ほどの絵に視線を戻す。
――月の下に並んでいる、男雛と女雛。
絵と文章の意味することを察して、緋紗子の頬がカッと熱くなる。
「たいへん! ばあや! ばあや!」
叫んだところで緋紗子を呼ぶ声がする。これは父の使用人のものだ。
きっと彼は来客を告げに来た。
(だって、ご一緒に、って書いてらしたもの!)
応対をばあやに任せ、緋紗子はとっておきの着物へ着替えるため箪笥の方へと向かう。
にわかに慌ただしくなった部屋の中を、寄り添う男雛と女雛の絵がそっと見守っていた。
いざよう月と恋心 杵島 灯 @Ak_kishi001
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