第5話 現実はクソ祭り
いつもの教室でクソダサ制服を脱ぎ捨てると、言い知れぬ解放感に包まれた。
「めっちゃ似合うな」
「
光稀は少女漫画から飛び出してきたような美少年になっていた。白と黒というシンプルこの上ない配色が顔立ちの凛々しさを際立たせる。シャツの袖をまくって折り返す手つきが色っぽい。下半身だけを覆う黒のギャルソンエプロンを着けると、不思議な武骨さが付け加わって、思わず見とれてしまった。
わたしの視線に気づいたのか、光稀がこちらにやってくる。
「髪、やってあげる」
彼女はわたしの背後にまわり、髪を結んでくれる。鏡で見ると、ロン毛の男性がよくやる、ラフなオシャレちょんまげになっていた。
「どう?」
肩越しにのぞきこんできた光稀と鏡の中で目が合った。
「うん……いいと思う。ありがとう」
わたしは目を伏せ、自分でも引くほど小さな声で答えた。
わたしたちのカフェは1号館と2号館をつなぐ渡り廊下の途中に入り口を設けていた。
そこを通り抜け、中庭に出る。白いテーブルクロスのかかった長机が芝生の上に並んで、どこか厳粛なものを漂わせる。あたりには早くもうっすらコーヒーの香りが漂っていた。
「おおー、イケメン来た」
開店の準備をしていたクラスメイトたちが光稀に駆け寄ってきた。彼女の腕を取り、擦り寄り、口々に褒めそやす。
「やばい、めっちゃ好みだわ」
「リアルの男よりこっちの方が全然いいよな」
「今日の看板娘は光稀で決まりだね」
「娘? 息子だろ」
「息子か?」
中庭の奥では
彼女はわたしたちに気づくと、机の間を歩いてきた。
「みんな似合うじゃん」
そう言って笑う。彼女は髪をオールバックにして、ちょっとワルそうな雰囲気を漂わせている。
「
彼女は手招きし、歩きだす。わたしは彼女に従って入口の方へ行った。
「2年A組 男装カフェ ボーイズタイム」と書かれた看板の傍らにテーブルが置かれている。開店後はここが会計所になる。テーブルの上に加恋が家から持ってきた電動コーヒーミルが置かれている。フードプロセッサーをおおげさにしたような見た目だ。
「ここで豆を挽いたりドリップしたりするって話だったけど、やっぱやめない?」
加恋がコーヒーミルの蓋を開け閉めしながら言った。
「は?」
わたしの口から自分でもびっくりするくらい大きな声が出た。「前に説明したよね? ここで視覚と嗅覚に訴えかけてお客さん呼ぶって」
加恋が腰に手を当て、ため息をつく。
「そうなんだけどさ、ここだと調理室と距離あるからオーダーが二手に分かれちゃうでしょ。忙しくなったらバタバタするし、伝達ミスとか起こると思う」
「いやいやいや、ここでやるって決めたじゃん」
「でも現場で問題があるなら変えるべきでしょ」
加恋が悪びれもせずに言う。
こいつは何が目的なんだろうかと考える。リーダーの座をわたしから奪う気なのか? コンセプトの策定にまったく関わってないくせに。
現場もいいけど、そんな思いつきでわたしのプロジェクトを台無しにされてはかなわない。
ここはリーダーとしての資質が試されるところだ。
「じゃあ最初はこのままでやって、駄目そうなら調理室に持ってくことにしたら?」
わたしの提案に、加恋は眉間にしわを寄せてしばらく黙っていたが、やがて「わかった」とうなずいた。
リーダーたる者、こうした不満を抱く部下も使いこなさなくてはならない。意見を出されたら無下に却下するのではなく、部分的にでも理解を示してやることが重要だ。
中庭に出る加恋と入れちがいで光稀が渡り廊下にやってきた。
「亜都紗、チラシ配りに行こうよ」
そう言って私を見つめる。「……どうかした? 怖い顔してるけど」
「何でもない。行こう」
わたしは彼女の手からチラシの束を奪い取り、歩きだした。
高等科の廊下を行き交う人は皆忙しげで、わたしたちには目もくれなかった。
戸口から教室をのぞくと、展示物の位置を直したり、黒板に何か書いたり、ほうきで床を掃いたりと、藤垣祭開幕に向けて最後の準備をしているようだった。
「下の子たちのところに行こっか」
光稀の提案で中等科の方へ移動する。
廊下を歩いていると、中等科の生徒たちがこちらを見てくすくす笑った。
「中庭で男装カフェやってます。よかったらどうぞ」
光稀は臆せず近づいていってチラシを差し出す。中等科の子たちは急にもじもじしはじめて、うつむきながらそれを受け取った。
「度胸あるなあ」
わたしはもどってきた光稀に言った。
「だってチラシ配るために来たんじゃん」
光稀はパンツのポケットに手をつっこみ歩いていく。藤垣女子の校則では想定外すぎて禁止されてすらいない乱暴な歩き方だ。光稀がいつもの光稀ではなくなったような気がして、わたしはすこし離れてそのあとを追った。
階段のところで4人組に声をかけられた。
「先輩、写真撮っていいですか?」
ふだんは禁止だが、今日はカメラの持ちこみが許されている。
コンデジを持った子は中等科だが、胸もお尻も大きくて、わたしなんかよりずっと成熟した「女」に見えた。藤垣女子のクソダサ制服の下にも隠し切れぬ色気だ。光稀を見つめる目つきに明らかな媚を含んでいる。
「いいよ。こっちで撮ろうか」
光稀が壁際に異動する。「亜都紗もおいでよ」
「わたしはいいよ」
そう言ってあとずさるが、光稀に腕を引かれる。壁際に並んで立つと、カメラを構えた子が寄ってきた。
光稀がわたしの肩を抱き寄せる。油断していたわたしはふらついて彼女の胸に寄りかかるような格好になった。
「ふぇっ!?」
情けない声が出る。中等科の子たちが「ギャーッ」と悲鳴なのか歓声なのかわからない叫び声をあげる。フラッシュが焚かれる。
「せっかく撮ってくれてんだから、サービスしないと」
フラッシュが目に刺さる。肩をつかむ手が熱い。
「先輩、カフェあとで絶対行きますから」
カメラを持つ子が妙に湿った目をして言う。
「約束だよ?」
光稀の息がわたしの首筋をくすぐる。ぞわぞわと、わたしの中で何か荒々しいものがうごめく。
開幕まで15分を切り、入口前には長蛇の列ができていた。外部の客と在校生が半々といったところだ。
渡り廊下の屋根を支える柱の陰に身を隠してわたしはそれを観察していた。
来場者はまず出し物や模擬店を見に行くはずだから、一服するためカフェに寄るのはしばらくあとのことになるだろうと予想していたのだが、まさかの行列だ。光稀の宣伝が効きすぎたのか、コーヒーの香りに惹かれたのか。
入口のテーブルで加恋がコーヒーを淹れている。並んでいる客の視線が集まっているのに、それを気にも留めずドリッパーにお湯を注ぐ。いつものダルそうでちょっと斜に構えた彼女からは想像もつかぬ真剣な目つきで、フィルターの中で立つ泡を凝視している。
「結良もやってみる?」
「えっ、わたし? できるかな」
「ちゃんと教えるから」
ポットを渡された結良がおっかなびっくりお湯を垂らす。
「最初ちょっとだけ入れて、それで粉を蒸らすから」
「こう?」
「そうそう、いい感じ。これで20秒くらい待つ」
またあたらしい香が立つ。列のそばを通りすぎようとした人が歩を緩め、目を留める。
中庭の方からバンダナを頭に巻いた那海が小走りにやってきた。
「9時になるからそろそろ……」
「わかった」
わたしは列の方を向いた。
「ただいまより男装カフェ・ボーイズタイム開店します。係の者がお席までご案内しますので、もう少々お待ちください」
列が動きだす。
「いらっしゃいませ」
「こちらのお席にどうぞ」
男装少女たちの声が響く。
加恋がコーヒーの入ったサーバーとポットを手に取る。
「じゃあこれ持ってくよ。しょっぱなから忙しそうだから」
そう言って調理室の方に歩いていく。わたしは何も言い返せない。
テーブルは満席だが、渡り廊下の行列はまだ解消されていない。クラスメイトの白いシャツが白いテーブルクロスの間を行き交う。
「わたしたちも行こっか。亜都紗、これいっしょに運ぼ」
結良がコーヒーミルに手をかける。わたしはそれを無視して中庭に歩きだした。
開店から1時間ほどたっても混雑は解消されなかった。
「アイスワン、ホットツー、オレンジワン、ワッフルスリー」
「ホットツー、クッキーワンお願い」
「はい、オレンジツーあがり」
「ホットスリーもうすぐ」
クラスメイトたちが中庭から調理室に駆けこみ、また飛び出していく。調理室の中もフル回転だ。加恋がコーヒーミルとドリップを行い、結良がサーバーからコップにコーヒーを注ぐ。那海がフードとオレンジジュースを担当する。さっきまでみんなド素人丸出しのムーブをしていたのに、いまでは紙コップさばきが板についている。
わたしは窓から中庭を眺めていた。テーブルに着いた客たちが紙コップに口をつけ、目を丸くする。うちのコーヒーはそこらの模擬店で出されるレベルをはるかに超えているのだから、あんな表情になるのは当然だ。目を丸くした者同士、テーブル越しに目を見交わし、笑顔になる。
これがわたしの提供したかったものだ――驚きと喜び。男装カフェというコンセプトも、コーヒーという商品さえも、本質ではない。目指すのはただひとつ、人の心を動かすことだ。
この店が1日でどれほどのお金を稼げるかわからない。きっとたいしたことはないだろう。それでも、これこそが真っ当なビジネスなのだと思う。求められ、与える。そこに適正な価格がついている。気まぐれな太い客に期待するのではなく、一人一人に向きあっていく。
キャッシュマネーもきっとこうであるべきだったのだ。
窓ガラスがノックされた。見ると光稀だ。
「人手が全然足りない。追加で誰か呼んできて」
そう言い残して走り去る。
わたしは中庭を見渡した。ウェイターは交代制で、いまはクラスの三分の一が店に出ている。朝のホームルームで出席を取ったので、他のクラスメイトは校内にいるはずだ。だがスマホ禁止なので個別に連絡を取る術がない。
「わたし校内放送で呼び出してもらってくる」
そう言ってエプロンの紐をほどこうとしたところ、誰かに背中を触られた。
「結良、コーヒー全部まかせちゃっていい?」
加恋がわたしの背中に手を当てていた。
結良がポットの蓋を取り、中をのぞく。
「あー、うん、だいじょうぶ。たぶんね」
加恋はうなずき、わたしの背中を押した。
「よし、行こう」
「わたしも?」
「2人増えたらやれるでしょ」
ぐいぐい背中を押されて、抗うこともできずにわたしは中庭に出た。
「いらっしゃいませー」
加恋が誰にともなく言う。その大きな声に男装のクラスメイトたちがふりかえった。
入口で待つ客の方へ加恋は歩いていく。待たせているというのに急ぐでもなく、ゆっくりと歩を進める。背筋を伸ばし、胸を張るその様は威厳さえ感じさせた。
「いらっしゃいませ。何名様でしょうか」
「4人よ」
「4名様ですね。ではご案内いたします」
OGだろうか、4人の老婦人が加恋のあとから歩いていく。
加恋がわたしに何か目配せしてくる。入口の方をしきりに見るのは、どうやら次の客を案内しろということらしい。
わたしは列の先頭にいる夫婦らしき中年の男女に声をかけた。
「えーと……2名様?」
「はい」
「では、その……」
中庭のテーブルを見まわす。「あそこの席へどうぞ」
ふたつ空いている席があったのでそこに案内する。テーブルには空の紙コップが放置されてあった。それを加恋が注文を取った帰りがけにさっと重ねて持ち去る。
客を席に着かせ、わたしはパンツのポケットからメモ帳とボールペンを取り出した。
「ホットコーヒーふたつ」
「ホットコーヒーふたつ、と……」
メモを取り、調理室に向かう。
「ホットツーよろしく」
「ホットツー了解」
結良がドリッパーから顔をあげずに応じる。
わたしはメモを切り取って調理台の上に置き、ため息をついた。知らない人と話すのは苦手だ。開店の挨拶は用意してきたからうまく言えた。キャッシュマネーのときなら、彼女が言いそうなことを想像すればすらすらとことばが出てくる。わたしがわたしでいるときがいちばん駄目だった。薄っぺらな自分を見透かされる気がして、ついつい口ごもってしまう。
入口の方が騒がしい。先程私と光稀を写真に撮った中等科の4人組が列の先頭に立っておしゃべりしていた。誰も手が空いていないようなので、わたしが向かう。
「4名様ご案内します」
空席を指し示す。さっきカメラを持っていた子があたりを見まわす。
「光稀先輩はいないんですか?」
「いまゴミ捨て行ってる」
お客だけど下級生という相手に、距離感をどうすればよいのかわからず、結局タメ口で話してしまった。
「おすすめは何ですか?」
「やっぱコーヒーかな」
「じゃあわたしホットで」
「わたしも」
「わたしはアイス」
「オレンジジュースください」
「えーと、ホットふたつ、アイスひとつにオレンジジュースひとつね」
メモして調理室に向かおうとしたところ、横からどんと突き押された。
加恋がわたしに肩をぶつけてきていた。
「もっと声張って。屋外だから、いつもの倍」
間近で顔をのぞきこまれる。
「う、うん……」
シャッター音がしてふりかえると、中等科の子がわたしたちにカメラを向けていた。
昼近くなると交代要員がやってきたので、わたしたちオープニングスタッフは休憩を取った。
誰かが買ってきてくれたたこ焼きを調理室で囲む。
「いや~、キツかったわ~」
那海が頭のバンダナを取り、目をこする。
「わたし手が震えてるよ、ほら」
結良が割り箸でたこ焼きを持ちあげると、確かにぷるぷる震えている。ドリッパーの上でポットを保持する動作がこたえたのだろう。
「ウェイターもキツかったよ。声ガサガサ」
わたしは疲れすぎて食欲も湧かず、箸の先でたこ焼きをつつくばかりだった。プロデューサーとして全体を統括するはずが、現場の一員として休みなしに働かされたのだ。当初あった照れだとか恥じらいはどこかへ行ってしまい、いつの間にか反射的に「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」と発声するbotと化していた。
「みんなお疲れ」
引き継ぎでコーヒーの淹れ方を指導していた加恋がわたしたちの輪に加わった。
「お疲れ様」
光稀がたこ焼きのパックを差し出す。「加恋がこっち手伝ってくれてホント助かったよ」
由芽花がたこ焼きを頬張りながらうんうんとうなずく。
「マジでプロみたいだったよね。、動きに無駄がない」
「加恋やってた? 実はどっかの店でやってたんじゃないの?」
那海のことばに加恋は笑いだす。
「やってないけど、お店入ったらホールのオペレーションとかついつい見ちゃうね。やっぱ好きなんだと思う」
皆の言うように、加恋の接客はプロフェッショナルだった。誰もが彼女のやり方を見て、ああやればいいのかと真似をした。口うるさく言わないのに、クラス全体の接客を一段上のレベルに引きあげた。
「加恋って料理もうまいじゃん? お弁当も自分で作ってるし」
結良が自分で淹れたコーヒーを飲む。「だから来年は何か作ったら? 絶対売れるよ」
「調理するのはなかなか許可おりないんだよなあ」
由芽花が言うと、加恋はなぜかわたしを見た。
「プロデューサーが実行委員と交渉してくれるよ、きっと」
そう言ってほつれた髪を指ですくって耳にかける。彼女が校則で禁じられているブレスレットを着けていることにそのとき気づいた。手首で揺れるその細い銀の輪を見ていて、わたしはしばし返事を忘れた。
たこ焼きだけの簡単な昼食を済まして、わたしたちはふたたび働きはじめた。
あいかわらず行列ができているが、昼から交代した者たちに我々コアメンバーが加わって、一人当たりの仕事量は明らかに減った。
わたし自身、仕事に慣れたこともあって、午前中より余裕がある。
「ホットコーヒー、お待たせしました」
そう言って紙コップをテーブルに置き、
「ごゆっくりどうぞ」
一礼して笑顔さえ見せる。華麗にまわれ右して、「男装」というコンセプトに立ち返り、大股で歩く。
調理室にもどると、調理台のまわりに人だかりができていた。
「どうしたの?」
わたしが声をかけると、光稀がふりかえった。
「ちょっとクレームっていうか……」
調理台にはワッフルの載った皿が置かれていた。
「割れてるから取り換えてくれって」
結良が苦々しげに言う。
見ると確かに真ん中あたりにひびが入っている。
「こんくらいなら全然食えるっしょ。言いがかりだよ」
那海が鼻息を荒くする。フード担当として、提供したものにケチをつけられたのでプライドが傷ついたようだ。
わたしは頭の中ですばやく計算をした。ワッフルはドリンクとくらべて価格が安い。だからロスにしてもすぐに取りかえせる。だが苦労して得たお金をつまらないクレームで失うのは癪だ。
また、クラスメイトたちはこのクレームに腹を立てている。わたしはプロデューサーとして彼女たちの味方をしなければならない。
お客様は神様ではない。真っ当なビジネスをしている我々には客を選ぶ権利がある。
「わたしにまかせて。こんなくだらないクレームは受け入れられないってバシッと言ってくるから」
そう言って皿に手を伸ばしかけたとき、さっきまで腕を組みじっとその皿を見つめていた加恋が肩でわたしの体を押した。
「那海、あたらしいお皿とワッフル用意して」
「え~っ!?」
那海が顔をしかめる。
「いいから」
加恋が強く言うので、那海は不満げな表情を浮かべながらワッフルを取り出した。包装を開け、皿に置く。
「じゃあ行ってくる」
加恋はその皿を取り、調理室を出ていった。
わたしたちは窓に寄って中庭を見た。
クレームをつけてきたのは女子大生っぽい感じの3人組だった。笑いながらおしゃべりしていたが、加恋が近づいていくと口を閉じ、真顔になる。
加恋は皿をテーブルに置き、深々とお辞儀した。その様をわたしは痛ましく感じた。
彼女が去ると、3人組はまた笑いだす。
「何だあれ」
「たぶんOGだよね」
「後輩相手によくこんなことできんな」
「母校への愛はねえのかよ、愛は」
皆が口々に言う中、加恋はもどってきた。調理台の上にある、クレームの対象となったワッフルをふたつに割り、ひとつを口に放りこむ。
「飲食やるなら多少のロスはしゃーないよ」
そう言って笑い、ワッフルのもう一片をわたしの口に押しこむ。
「むぐっ!?」
甘ったるいかたまりが突如攻めこんできて、わたしは窒息しそうになった。
加恋が紙コップにコーヒーを注ぎ、差し出してくる。それを飲んでワッフルを流しこみ、ようやく息をつく。ふだんブラックコーヒーは飲まないが、甘いワッフルと混じると、苦みと酸味を素直に楽しむことができた。
落ち着いて考えてみれば、加恋のやり方が正しかった。ビジネスをする以上、ロスは避けえぬもので、それを惜しんで顧客に不便を強いてはならない。ネオ・ブラッドリーが幹部連中の反対を押し切って返品を何度でも可能にしたことを思い出していれば、すぐにそうした結論に至れたはずだ。
わたしはもっと謙虚にならなくてはならない。加恋からも学ぶべきところは学ぶ。そうやってリーダーとして成長していくのだ。
「でも次あいつら何か言ってきたら、裏呼んでボコるから」
加恋が言うと皆が笑う。わたしもワッフルとコーヒーで両手が塞がったまま笑った。
午後になって、2回目のメンバー交代が行われた。
コアメンバーは朝から働きづめだが、サービスの質を保つためには仕方ない。
2時を過ぎると、ふたたび行列ができはじめた。校内をまわり終えたのでちょっと休憩という時間帯のようだ。
午後から入ったクラスメイトがテンパってうろうろしている。わたしは彼女の肩に手を置いた。
「あそこのテーブル、注文を訊きに行って」
そう耳打ちしていると、背後でシャッター音が聞こえた。
ふりかえると、あの中等科の子がわたしにカメラを向けていた。まわりの3人がくすくす笑っている。
光稀が調理室に向かっている。わたしは彼女に並んで歩いた。
「ねえ、あの子たち、ひょっとして午前中からずっといる?」
「ああ……そういえばそうかも」
光稀が肩越しに中等科の子のテーブルを見る。
わたしは入口に目をやった。行列は午前中のピーク時に匹敵するほどの長さにまで伸びている。
中等科の子たちを居座らせておけば、座れないお客さんが出てくる。顧客第一主義で行くとして、2組の客の利害が対立した場合、どうすればいいのか。
思い出すのは、サブライムがVR事業に進出したときのことだ。サブライム・スフィアは最初の2年間、大赤字だった。社内からは基本無料という料金体系を見直すべきだという声があがった。だがCEOのネオ・ブラッドリーは「この赤字は未来の顧客のための投資なのだ」と言って有料化を許さなかった。
これまでサブライムが手がけてきた新事業はみんなそうだった。驚くほど安い価格で、最初は利益が出ないのだが、最後には業界の覇権を取る。同業他社を潰すためのダンピングだという意見もあるが、顧客の立場からすれば、安くてよいサービスを受けられるのだからありがたい話だ。
サブライム社内の会議では、かならず余分な椅子がひとつ用意され、ダルメシアンの子犬のぬいぐるみがそこに置かれる。このぬいぐるみはネオが子供の頃に飼っていたルイという犬がモデルとなっていて、「顧客」の象徴であるとされる。つまり、顧客がそこにいるつもりで提案や討論をせよというメッセージなのだ。
そのぬいぐるみがなぜ「子犬」であるのか、ネオの伝記にも『トゥー・ビー・サブライム』にも書かれていなかったが、わたしはいま理解した。子犬というのは成長するもの、すなわち「未来」だ。我々が目を向けるべきは未来の顧客なのだ。
だとすれば、いまわたしがすべきことはひとつしかない。
「ちょっとわたし言ってくるよ」
踵を返し、中等科の子たちのテーブルに向かう。
「ねえ、あなたたち――」
わたしが声をかけると、カメラの液晶画面を見て笑っていた中等科の子たちは顔をあげた。
「あなたたち、ずっといるよね」
「はい……」
カメラを持っていた色っぽい子が小さな声で言う。光稀に声をかけたときとは大違いだ。
「そろそろ帰ってくれないかなあ。見てたら、最初の一杯だけであと全然注文してないよね。そういうの困るんだ。他のお客さんも席空くの待ってるからさ。その辺の空気、ちゃんと感じ取ろうね」
「すいません……」
テーブルを囲む4人はいまにも消え入りそうな声を出す。いくらイキっていても所詮は中学生、こちらが強く出たらとたんに弱気になる。
「いちおう学年とクラス教えて? あとで担任の先生に報告させてもらうから。わたしたちもさ、遊びじゃないわけ。ちゃんとしたビジネスを――」
「亜都紗!」
とげとげしい声に呼ばれた。
調理室の方から加恋が大股で歩いてくる。険しい顔をしていて、オールバックの髪とあいまって、カツアゲでもしに来たみたいに見えた。そのうしろから光稀もやってくる。
加恋はわたしのとなりまで来ると、わたしのシャツの袖をつかんだ。
「あんたお客様に向かって何言ってんの?」
「ずっといるから帰ってもらおうと思って」
わたしのことばに中等科の子たちは椅子から腰を浮かせた。
「すいません……わたしたちもう帰ります」
「いいのいいの。まだいてくれてだいじょうぶ」
加恋が彼女たちの肩に触れる。「あの子の言うことは気にしないで」
「いえ、でも……やっぱり帰ります。本当にすいませんでした」
彼女たちはそそくさと席を立つ。あとには空の紙コップ4つが残された。
加恋がそれを片づけはじめた。彼女の顔からは表情が失われ、一切の感情が読み取れない。
「光稀――」
彼女の冷たい声に、光稀が背筋を伸ばす。
「な、何……?」
「お客様をテーブルにご案内して」
「は、はい」
光稀は小走りに入口へと向かう。
「亜都紗はわたしと来て」
加恋の有無を言わさぬ口調に、わたしは黙ってつき従った。
調理室に入ると、彼女は手にしていた紙コップをゴミ袋に放りこんだ。
「ねえ、なんであんなこと言ったの?」
彼女の声が部屋に響き渡る。結良が那海が何事かとこちらに目を向ける。他のクラスの者たちも遠巻きに見ている。
「わたしはただ……回転率が落ちると機会損失になると思って……」
わたしが言うと、加恋が詰め寄ってきた。
「そんな理由? そんだけであの子たちにひどいこと言ったの?」
「そんな理由って……ビジネスでは避けるべきことでしょ」
「ビジネス?」
加恋が調理室を見渡す。「これのどこがビジネス? 遊びでしょ」
「遊びじゃない。お客さんからお金をもらう以上、ビジネスだよ」
わたしは彼女をにらみつける。彼女はこっちが拍子抜けするほどに柔らかく笑った。
「悪いけど、これは遊びだよ。ドリンクもフードも接客も何もかも、ビジネスってレベルには達していない。それでも、今日はお祭りだし、やってるのが高校生だから、お客さんは大目に見てくれてる。だから遊び。でもそれでいい。いまはそれでいいんだ」
「よくない。そんなのは甘えだ」
「甘えでもいいんだよ。わたしはただ、みんな楽しくやれればいいと思ってる。だからあの子たちにも笑顔で帰ってもらいたかった」
そうだ、結局そういうことなのだ。彼女は遊びのつもりでいる。だからビジネスとしてやっているわたしに反発するのだ。
これまでのわたしに対する仕打ちが脳裏によみがえる。改めて腹が立ってくる。
「じゃあそうやって一生遊びでやってろよ!」
わたしの声に調理室が静まりかえった。「あんたはそうやって安っすいスマイル拾ってりゃいいじゃん。わたしはちがう。リーダーとして、もっと先へ行く」
「あの~……」
窓から光稀が顔をのぞかせていた。「ホットツーとワッフルワン……なんだけど……」
加恋が大きく息をつき、まくった袖の折り返しを直すと、手を打ち鳴らした。
「さあ、仕事にもどろう。結良、コーヒー急いで。那海、ワッフルお願いね」
呼ばれた2人はおずおずと、ちらちらわたしの方をうかがいながら作業にかかる。
中庭に向かいかけた加恋が足を止め、ふりかえる。
「何か指示があるなら言ってよ、リーダーさん」
わたしの首がビキビキ音を立てて痛んだ。奥歯を強く嚙みしめているせいだ。
手が震える。エプロンの紐がうまくほどけない。他のクラスの連中がひそひそ囁きあっている。
ようやくほどけて、わたしはエプロンを腰から剥ぎ取り、丸めて床に叩きつけた。
「わたしはおりる。あとはご勝手に」
誰もわたしに目を向けない。ただひとり、窓の向こうの光稀だけが目を丸くしてこちらを見ている。
調理室を飛び出し、廊下を行く。
加恋のクソも、その腰巾着どもも、黙って見ていた光稀も許せない。あいつらの中にフォロワー12万人いる奴がいるか? ストリーマーwikiに単独でページある奴がいるのか? 本当なら這いつくばって相互になってくださいとお願いする立場なのに、生意気にもわたしのリーダーシップにケチをつける。
現実ってやっぱりクソだ。
でもいま目から落ちる涙は何だろう。クソの臭いが目にしみたか。それともクソに対してわずかに持っていた希望を裏切られてのものなのか。
わたしは流れる涙を拭いもせず、祭りに浮かれる無名の無能どもを掻き分けて歩いた。
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