第19話
電話の後、「ちょっと出てくる」と言って、昴はスーツに着替えて出ていった。
後片付けもしなくていいと言われた。
さすがに食器くらいは洗っておこうと思ったけれど、食洗器の使い方がわからないから、さくらんぼが乗っていた皿は流しに置きっぱなしだ。
明日も学校があるんだから、待たずにちゃんと寝ろよ。とも言われた。
その顔は保護者然としていて、今トラブルになっているという宗方というからの電話を取った顔とは明確に区別されていた。
それがすごく悔しくて、カランの取っ手を乱暴に掴んで流しに置いた皿へ勢いよく水を流す。皿の底に溜まっていた水が飛び跳ねながら排水溝に流れていく。
――昴へ嫌な態度をとってしまった自己嫌悪も、下校中からずっと感じている悔しさも、全部同じように排水溝に吸い込まれて消えればいいのに。
しばらくそのまま流れていく水を見ていたら、少しだけ頭が冷えた気がした。顔を上げて流しから視線を外す。いないとわかっていても昴の姿を探してしまうのは、英智が昴に引き取られてから続く癖だった。
昴が仕事に行ってしまえば家の中はがらんと空洞化して、テレビもちっとも面白くない。
読書をする気にもならないし、ゲームは元からあまりしない。ネットで観たいものもない。勉強は今日一日くらいしなくても問題ない。
本当は昴を待っていたいけれど、待つなと言われてしまったし、何もする気が起きない英智は昴の言う通りに、シャワーでも浴びてさっさと寝てしまおうと思った。
「……暑い」
初夏の今夜は蒸し暑かった。
せっかくシャワーを浴びてすっきりした肌に何かを着てまた熱をこもらせるのも嫌だったので、タオルを首にひっかけたまま上半身には何も身に着けず、冷蔵庫へと直行する。冷たい水が飲みたかった。
ちなみに全裸は気が引けるし、止めろと昴に言われているので下は寝間着代わりのハーフパンツをはいている。
そういう昴はバスローブ一枚で風呂から出たあと、寝室で着替えるまでリビングでぼやっとしていたりするのだが。どうも冬でも夏でも風呂上りに汗が引きにくいたちらしい。
べつにバスローブの使い方としては間違っていないし、上半身裸の英智よりよっぽど慎み深い格好であるとは思うのだが、しかし。
下着を付けずに、バスローブ一枚。
養い親に対して欲を抱える身としては、それを横目にじっとしていなければならない状態はちょっとした拷問に近い。
バスローブからチラチラと見え隠れする胸の尖りや、太股の白さが目に痛いのだ。
「……つらい」
冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターを飲み込むと、喉からごくんと大きな音が鳴った。
冷たい水を飲み下すたびに、腹の中に欲が溜まっていくような気がする。さっきキッチンで流しの水が排水溝に流れていくのを見て、少しは煩悩も流れていったと思ったのに。
飲むのを止めれば水が欲望のように感じることも無くなるだろうけれど、風呂上がりの暑さに乾き、満たされない何かは飢えていた。
水をあおる英智の目を、天井にある照明の光が刺してくる。
刺激に滲んだ涙の膜に浮かぶのは養い親の穏やかな笑みだ。それが欲を刺激する。
思い出したバスローブ越しの素肌も欲を煽ってくるけれど、それ以上に火をつけるのはあの優しげな笑みだった。
英智をどこまでも甘やかすような、穏やかで優しげな笑み。
「……昴さん……」
英智は唇についた水滴をぐいっと腕で拭うと、飲み干したペットボトルをゴミ箱に乱暴に捨てた。
空腹から獲物を求め森の中をうろつく獣のように、無意識に目を光らせて向かうのは養い親の部屋。
ドアを開けると、明かりを落とした暗い部屋の中に漂う甘い匂いにひとつ大きく息を吸った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます