第18話

 腹の中に不完全燃焼の何かを抱えたまま、食事は進む。

 そうして気付けば空になった食器は下げられて、目の前には艶やかに光るさくらんぼ。


 昴に引き取られて初めて口にできた果物で、英智の好物だった。

 透明なパックの中で赤と桃色の中間で艶々と輝く小さな果実が並んでいる様子は宝石のようで、まずそのキラキラした姿に興奮し、食べればみずみずしい甘さに感動したものだ。

 そしてそれは毎年変わらない。

 果物で何が一番好き? と聞かれたら、迷わず「さくらんぼ」と答えるだろう。


 「いつもは佐藤錦を買うんだが、今日のこれは貰い物で、紅秀峰って品種らしい」


 「……佐藤錦より甘いし、ちょっと固め?」


 かじって思わず頬を緩めると、それを見た昴が自分の皿から一掴みさくらんぼを掴んで英智の皿に入れる。

 いつもならありがたくいただくけれど、甘やかされていることを自覚した今となっては、それを素直に受け取っていいものか悩む。


 その英智の悩みに気づいた昴が、「俺はこれだけでいい」と言って笑った。


 「山形の知り合いが最近力を入れてる品種だって送ってきたのを小原さんが食べたがって、英智が来る前に二人でさんざ食べたあとだ。さすがに飽きた」


 それは半分本当で、半分嘘だろうと英智は思った。

 今までなら、昴がそう言うのだからと彼が言った言葉をそのまま信じて甘い果実を素直に食べただろう。


 「うまくなかったか?」


 「……」


 答えに迷う。

 おいしかったと素直に言えば、彼は自分の皿に残ったさくらんぼも英智に渡してくれるだろう。これは何年も繰り返されてきたことだから、きっと間違いないはずだ。

 だけど逆に、あまり好きではないと答えたら、昴はいったいどうするだろうか。


 英智の好きそうなものを先回りに出してくれているのだろう彼の好意を無下にするようなことを、英智は言ったことがない。

 いつだって昴が出してくれるものは英智の好みにぴったり当てはまっていて、でなければ、彼は英智の微妙な表情から、これも先回りして出したものをさっと引っ込めてしまう。そして二度と出てこない。


 だから英智は昴がくれたものに対して〝好き〟と言ったことはあっても、〝嫌い〟とわざわざ口に出したことがない。


 昴が自分の皿からさくらんぼをくれたことからして、たぶん彼は英智の表情を見て紅秀峰というさくらんぼを好んでいると読み取ったはずだ。

 なのに〝好きじゃない〟と言ったらどうするだろう。


 おそらくだが、無理に食べなくていいと言って皿を引っ込めるような気がする。


 「あの、これは、あんまり……前のやつの方が、好き、かな……」


 昴に対して初めて嘘をついた。

 わざわざ出してくれたもの。昴の好意に対してそうやって試すようなことを言った自分に、強烈な嫌悪感がわく。同時に、昴に嫌われてしまうのではないかという不安も。


 だけどもしかしたら、いつもの顔とは違う顔が見られるんじゃないかという期待もあった。

 けれど、


 「――そうか」


 と、昴は英智の嘘に対して特に反応せず、ただうなずいただけだった。


 昴の「そうか」の前には沈黙があった。

 その一瞬で英智の表情を読んで、嘘をついていると気づいたはずなのに。


 昴はなずいたあと、英智の目を見て笑った。


 「佐藤錦のほうがちょっと酸味があるからな。英智はそっちのほうが好みか」


 「……う、ん」


 「山形の連中には佐藤錦を送れと言っておく。今日のところはそれで勘弁してくれ」


 「……うん」


 嫌いじゃないんだろう?

 昴の言葉にうなずくと、それじゃあ……と、彼は自分の皿を英智の前に寄こした。


 「食べきれなかったら残していいぞ」


 思わずじっと昴の顔を見つめると、彼はいつも通りだった。


 「…………」


 負けた。と、思った。


 彼は英智の嘘を見破った。

 そして結局、甘やかされた。


 嫌いだと言ったら皿を引っ込めるかと思ったのに、英智が実は佐藤錦より紅秀峰が好きだと気がついたうえで、その嘘に乗っかって、さらに自分の皿を英智に寄こした。

 英智の言葉が嘘ならば、きっともっと食べたいだろうからと。


 「昴さん、あの……」


 嘘を暴かれることもなく、食欲も満たされ、いつも通り甘やかされた。


 その事実にぐっと喉が詰まる、何も知らないふりをして、ありがとうと言うべきか、嘘をついてごめんなさいと謝るべきか迷う。

 その一瞬の逡巡の隙に、昴のスマートフォンが鳴った。プライベート用ではなく、仕事用の呼び出し音だ。


 「悪い」


 突然の音に少し眉をひそめた昴は、英智に断わってから立ち上がる。そのことに英智は驚いた。


 昴はいつも家にいる時は仕事用のスマホをマナーモードにしている。メールやメッセージは頻繁に届くようだが、着信はあまりない。

 さらに昴がその電話に出ることは、今まででも数えるほどしかなかった。


 だというのに、昴はキッチンに置いてあったスマホを取り上げると、液晶画面に浮かんだ名前を見てさらに眉間にしわを寄せた。

 その顔は昼に事務所で見た仕事用の顔だ。めずらしいというよりも、家でその顔を見るのは初めてだった。なにせ事務所でだって今日初めて見たのだから。


 少し離れたとキッチンで話す昴の声は、英智に遠慮して控えめにしているせいで聞き取りづらい。けれど、口の端をつり上げて笑った声はしっかり聞き取れた。


 「どうしました? ……宗片さん」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る