第15話
「なんも知らねえから運転手は頭の中身さらすことになったんだ。乳母日傘も程々にしねえと……物の道理が判らねえ歳ってわけじゃねえだろう」
小原は〝誰〟とは言わなかった。
ただ、横でその言葉を聞いていた瀬下が、アメの匂いが混じった甘い息を吐いた。笑ったのだろう。
その人工的な甘い匂いが、英智の首にゆるゆると纏わりついてくる。
「……俺には責任があるんですよ。幸せになってもらわなきゃ困るんです」
「おめえなあ……。甘やかしていつまでも子ども扱いしてると、いざってときに身を守れねえし、焦って良くねえことも考え始めるぞ」
あきれたように言う小原の、その正面にいる昴もまた、主語を誰とは言わなかった。
言葉の裏や底にある意味をすくい取るのは苦手だが、それでもそれは自分のことであるのはわかった。自分のせいで昴は小原に責められていて、さらにそれを承知で昴は自分を甘やかしているのであろうと。
昴の発した〝責任〟という言葉が、瀬下の吐いたアメの甘い匂いを纏って英智の周りで重く淀む。
責任。
養い親としての、子供に対しての責任。
子供を幸せにするという責任。義務。
引き取ったからには。という言葉が、昴の言った言葉の中に含まれている。
それがなんとなくわかった。
「おめえはさっき責任とか言ってたが、なァ桜井よ。そういうの、わかって動いてんだろうな?」
「……ずいぶんと、知ったふうな口を利くじゃありませんか」
昴は微笑んだまま、ゆっくりとした動きで小原の目を見返した。
暗闇の中で光る星のように、その目の光は切っ先が鋭い。彼のその名が表わすような、空気の乾燥した冬の空に見える星のようだった。
「責任がどうこうと言うのなら、小原さんだって危うい橋を渡っている最中じゃないですか。いつだって引き返せるなんて、夢みたいなことをおっしゃるわけではないでしょう?」
「じゃあ聞くが、航海予定に船頭の登山も想定してんだろうな」
「前提が間違っているんですよ。俺の船、俺の航海です。#あの話__・__#には飯田さんは何も噛んじゃいないし、小舟が空母に向ってきたところで呑まれるのがオチ。全く問題ありません」
落ち着いた口調でゆっくりと、互いを威圧しながら話す二人のこんな姿は、英智の記憶の中にない。
小原はいつも飄々としていた。ヤクザの事務所にいるというのにまるで自室かのようにソファに寝そべっていた。スポーツ新聞を読んで煎餅をかじり茶を飲んで、たまに彼の娘と同じような邪悪な笑みを浮かべて英智をからかう姿しか知らない。
昴にいたってはそもそも英智のいる側では仕事の話など、その雰囲気すら見せなかった。
その二人が話す内容と言うのも同級生の父親と話す当たり障りのないものばかりで、仲の良さは知れても剣呑さは微塵も感じなかった。
全く知らない二人を見た。
昴が英智の前でこんなにも冷たい雰囲気を纏ったことなど一度としてない。安アパートで初めて出会った時でさえ、言葉は乱暴でも英智への態度は穏やかだった。
――誰だって人に見せるツラの皮の一枚や二枚、付け替えて生きてるもんでしょうよ。
瀬下が言っていた言葉がすごくズキズキと心をえぐる。
けれど、でも。
その、本来の仕事をしているときの冷たい雰囲気が、英智の中で初めて会った時の冬の夜を思い起こさせた。
あの時の冷たい風を纏い、唇の端をつり上げる氷のような笑みに背中がぞくぞくしてしまった。
自分には見せてくれない顔を、もっとのぞいてみたい。……と、そんなことを思ってしまった。
親としてみせる、ちょっと過保護気味の優しい顔だけじゃない顔を。
つまり彼が〝見せてもいい〟と判断した顔だけじゃなくて、彼が気付かぬうちにぽろっと見せてしまった顔が見たいと思った。
たとえばそれが、夜な夜な夢の中で自分を困らせる顔……英智に組み敷かれ、親と子では触れ合ってはいけない場所に触れ、その奥へと英智自身の欲望を突き入れた時の昴の乱れた顔であれば、きっと満足するだろう。
自分の知らない昴の顔に、今までその表情を見せてもらえなかったという悔しさと悲しみはもちろん感じているけれど、それ以上に昴の中身を暴き立てたいという薄暗い欲望が膨らんだ。
けれどこの欲はもう、昴に対してここ最近ずっと感じていて、自分では制御できない飢えだった。
そんな飢えを覚えること自体が間違いなのだということは、もちろん知っていた。
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