第14話

 無意識にまだドアノブを引こうとしていた英智と、それを阻止する瀬下の爪先が作ったドアの隙間の向こう側で、低い声の応酬が続く。


 「いつもみてえに堅気やうちの連中相手のやんちゃなら、まあ多少の目溢しもあっただろうが……今回ばかりは相手が悪りい。この大事な時期に、二回続けて松榮会の顔に泥を塗るなんざ、フォローのしようもねえだろう」


 「ヘマの内容は知らないと、そうおっしゃったのは小原さんじゃなかったですか」


 「うち警察の連中の大体は、知らねえよ。襲撃が飯田主導だったってこともな」


 「……なるほど」


 腕を組み、昴が視線を下げた。

 焦げ茶に近い色のまつ毛が瞳の中に影を作り、強烈な光を放っていた視線が一時緩んだ。ただ、緩んだところで力強さは変わらない。


 「小原さんが何を懸念されているかはわかりましたが、心配されるような問題は起こっちゃいませんよ。松榮会とうちの隅田組の会長同士はゴルフ大会で腕を競う間柄。良好な関係だってことは、そちらも周知の事実でしょうに」


 「ヤクザの伝統行事が仲良しの証拠になるか、ボケ。お互いが縄張りの拡大を目論んで、境界線で睨み合ってるっつうのが事実だろうが」


 そうそ。それで功を焦ったバカが、松榮会の宗片組にちょっかいかけたんだった。

 小原の言葉に、隣で黙っていた瀬下がぽそっと呟いた。


 そして「バカだよねー」と、人を見下す笑みを浮かべたまま、英智に視線を向けて続けた。


 「なあ、いまだにこの場から動かないってことは、腹くくったっつーことよな?」


 ツラの皮を付け替える。その意味はよくわかった。

 人によって態度を変えることは、大なり小なり誰だってしていることだろう。もちろん英智だってしているし、仕事を持つ大人であればその〝ツラの皮〟はたくさんあるのだろうということも理解はする。


 だけど理解と納得とは別なのだ。昴には英智が見たことがない表情がきっとまだまだあるだろうことが、英智は震えるほど許せない。英智への裏切りであるとすら思ってしまう。

 だから今この瞬間、その一端を覗き見ていることに、微かな興奮と満足感を覚えている。


 「……」


 なあ? と、無言でさっきの言葉の答えを促すようにこちらを見てくる瀬下に対し、どちらも選べずぐらぐら揺れた。

 喉に刺さった小さな棘。イラクサの刺毛しもうのように大した棘じゃないのに毒を孕んで、じわじわと英智の視界に違和感を生じさせる。


 自分の意思で閉められないドアがその答えなのかもしれないと、昴の声に意識を向けながらも、瀬下を見返す英智の視線がゆっくりと床に落ちた。


 自分の中の荒れた気持ちに戸惑う英智を置いて、二人の大人の会話は進んでいく。


 「――ここも、端とはいえ境界線だろ」


 「いやいや。境界線とはいえ、旨みの少ない平和な土地です。価値としちゃあゴミみたいなもんだって、うちの飯田はよく言っていますよ。あちらさんも不良債権を押し付けられたかないでしょうし、差し上げたって突っ返されるのがオチですよ」


 「お前がそのゴミみてえな場所でかなりの額を上に収めてるって、うちが知ってるくれえだ。協定も境界線も友誼も無視して色気出してくるには十分だろ」


 買いかぶりすぎですよ。と昴は笑う。

 その言葉に、小原はがりがりと頭を掻きながら嫌そうに口を歪めた。


 「宗片だぞ、桜井。宗片だ」


 お前も知らねえってわけじゃねえだろう。

 顔をしかめ、口を歪めたまま小原は続ける。


 「宗片が元は舎弟頭が堅気の女と作った子供だってんで、うちの連中には軽く見てる奴も多いがよ。やつの組の規模は小せえが一応は直系筋だし、なにより本人の才覚が松榮会の古参連中よかよっぽど上だ。このご時世で大陸からの新興勢力を退けたあげく逆に搾り取ったって話が本当なら、お前んとこの泥船なんぞ簡単に沈められるだろうさ」


 小原のその言葉で、英智はようやく昴がどんな相手と睨み合っているのかを知り、瀬下が渋い顔をしていた意味も知る。


 組織犯罪対策課の刑事が言うのなら、その話は事実なのだろう。

 昴の上司である飯田という男とは数度会っただけだが、小原の言う宗片という極道に張り合えそうな才覚のある人物、という感じは全く受けなかったのを覚えている。


 宗片の経営するホストクラブを襲ったというのは事実であるし、ということは、やはり昴は……昴のいる飯田組は、かなり危うい立場なのだろうか。


 しかし、ドアの向こうで昴は納得したように笑った。

 追い詰められているようには見えない。むしろ愉快そうでもあった。


 「ああ、小原さんが買ってるのは宗片のほうでしたか」


 「だから、刑事が極道買ってどうすんだっつうの。でもまあ、俺ァあの野郎とサシで向かい合いたくはねえな」


 ヒラヒラと手を振って、小原はまた嫌そうに眉を寄せる。

 歪んだ唇もそのままで、全身で嫌悪を表現した強面の刑事は、小原のそのめずらしい様子に微かに目を見開いた昴に対して静かに語りかけた。


 「宗片って男は容赦しねえし、登山好きの船頭はお前ほど義理を気にしねえ。保身のためなら乗組員ごと舟を海に置き去りに逃げるだろうし、必要ならおかで待つ船員の家族だって喜んで崖から突き落とすだろうさ」


 実際……と、小原は苦々しい様子で続けた。


 「現にお前んとこの運転手津田沼は意識不明で入院してんだろうが」


 薄黄色のレンズの下で、小原の眼光が鋭く尖る。

 刺々しい視線にさらされて、昴の眉がぴくりと動いた。


 「襲撃にゃ全然関係ねえのに、襲撃の足役だったっつって当座凌ぎにアイアンで頭カチ割って宗片に差し出したっつう話じゃねえか。宗片との話し合いの時、その場に飯田と一緒にいたっつうだけで」


 その話に驚いて、英智は瀬下を仰ぎ見た。

 英智の視線に肩をすくめ、瀬下は「だから言ったじゃん、飯田さんクソほどバカだって」と、あきれたように笑った。

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