第12話
「瀬下だろうが小原さんだろうが、英智の将来像に俺の許可なんかいらないが」
「昴さん!」
「お帰り、英智」
部屋の奥、衝立の向こうからクリアファイルに書類をしまいつつ現れたのは、英智が敬愛する養い親だ。
グレーカラーのスーツに身を包み、姿勢よく立つその姿は全くヤクザに見えない。
ヤクザにしか見えない刑事とチャラチャラしたチンピラに挟まれると、因縁を付けられてしまった憐れなエリートサラリーマンか、自分たちが犯した罪を無罪にしろと無理難題を押し付けられそうになっている若き弁護士かと思ってしまう。
「電話終わったかよ? 飯田の馬鹿はなんだって?」
「事務所で飲むコーヒーの銘柄を変えろっていう、くだらなすぎて刑事さんにする話しじゃありませんよ」
この事務所のトップを嘲り口の端だけで笑って問いかける小原に、昴も唇だけをつり上げて笑う。
奇麗なアーモンド形をした目は全く笑っていないどころか、色素の薄い瞳の瞳孔が苛烈な光を放って開く。
それを見て、英智は動揺して目を見張った。
養い親が仕事をしている時の表情を初めて見たからだ。
「なんでもコピ・ルアクを常飲したいんだそうで」
「あァ? コピ……? なんだそりゃ」
「猫のウンコから取り出したコーヒーだよ。猫ぷん出身のくせにアホみたいに高けえの。小原さん知んねーの?」
首を傾げた小原に、瀬下が小馬鹿にしたように言う。しかし瀬下の説明も雑だ。
コーヒー好きな英智としてはもっと突っ込んだ説明をしたいところだが、瀬下の言葉に昴が微笑んだのを見て黙る。
昴と初めて会った寒い日に彼がくれた温かい飲み物が缶コーヒーだったから、英智の中でそれが特別な飲み物になっているだけのことで、特にコーヒーマニアというわけでもない。
昴も一応は上司にあたる飯田の言い分を、どうでもいいと思っている様子だった。
「飯田さん、ぜってー味わかんねえよ」
「味わいてえのは高いもんを飲んでるって気分だろうさ。なんとかと煙は天辺が好きだからよ」
吐き捨てた小原は、肩をすくめて続けた。
「実際、野郎は自分の掘った墓穴に片足どころか肩まで突っ込んでるっつうことを、お前はわかってんだろうな?」
「耳が早いですねえ、小原刑事」
昴の苦笑交じりの答えを聞いて、小原の瞳が薄黄色のレンズの奥で尖る。
「ウチの連中は天辺好きの馬鹿がどんなヘマしたかは知らねえが、松榮会の宗片に目ェつけられたってのは把握してる。調子づいた連中が近いうちここに様子を見に来んのも、時間の問題だぜ?」
小原の言葉を聞いて、苦笑していた昴の口元が吊り上がったまま止まった。口元も瞳も笑みの形をしているはずなのに、まるで感情だけが抜き取られたように凍りついて冷たく尖る。
その変化を見て、英智は昴が良くない思い、嫌な思いをしていると判断した。
眉間にしわを寄せた英智が小原に対して足を一歩踏み出そうとして、しかし、隣で二人の様子を見ていた瀬下に止められた。
反射的に揺れる金髪を睨みつける。けれど瀬下は、英智の行く手を阻んだ足のつま先をピクリとも動かさなかった。それどころか瀬下は棒付きアメの包装を丁寧に剥きつつ、厳しくなってしまった英智の視線をへらっと笑って受け流す。
そして動きを止められて腹立たしい気持ちになった英智の耳元に唇を寄せ、瀬下は子供をなだめるように囁いた。
「大人の会話に口挟んじゃダメだよ?」
「……」
「坊ちゃんは黙って見ときな?」
声の響きは柔らかいのに、瀬下の英智を見る目はずいぶんと硬い。
坊ちゃんは事件知らねえっつってたじゃん? と、そう語る瀬下の視線を受けて、英智は黙り込む。
確かに、知らなかった。
それは事件のことだけではなく、黙れと言われたことの意味もかわからない。
だって人前でめったに自分の感情をあらわにしない昴の瞳が、目に見えて険しくなったのだ。小原と話していてそうなったのなら、原因は小原ではないのか。
その原因を排除するのは、昴が英智にとって嫌なものを排除しようとしてくれるのと同じことなのではないのか。
昴を害するものに否を突きつけることを、なぜ止められなければならない?
瀬下を睨む英智を置いて、昴と小原の会話は進む。
「こういう話はしたかないんですよ。息子の前で、息子の同級生の父親とする話ではないでしょう?」
「そのよしみで忠告してんだよ俺ァ。お前の坊主に鞠花もなついてるし、坊主がガリガリだったころから知ってんだからよ」
よくもまあ、こんなに立派に育ったもんだ。と、小原は一瞬懐かしそうに目を細めた。
初めて会った時のことを思い出しているのだろう。
確かに英智が小原と初めて会った時、英智は彼の言う通りに骨が浮くほどに痩せていた。
初めて昴に会った日から二年後の話だ。母親から離れ施設で暮らしていた英智はべつに食べていないというわけではなかったのに、なぜか栄養が回っていないかのように細いままだった。
しかし小原と一緒に施設を訪れた昴に引き取られてからは、それまでの貧弱さが嘘のように背が伸びて筋肉もしっかりつき、今では昴の背を超えた。
貧弱な土壌で育った野菜のようにひょろひょろと背丈ばかりが伸びるような成長ではなく、撒かれた肥料からしっかり栄養を吸い、大地に根差した成長だ。
今ではその高い身長としっかりついた筋肉で知らず知らずのうちに周囲を威圧してしまって、学校では恐れられているらしい。英智自身は己を地味だと思っているのだが。
怖がられるのは目つきの悪さも理由のひとつでもある。さらにその筋の人らしい容貌だった津田沼と、一目見て緊張感を呼び起こす黒い車の威圧感との相乗効果で、学校でも話しかけてくるのは目の前にいる小原の娘、鞠花くらいだ。
英智の頼りない子供時代を知っている小原は、自分を見下すほどに大きくなった娘の同級生を薄黄色のレンズ越しに見つめて眉を寄せた。
「英智、少し外で待っててくれ」
小原が何かを言おうと息を吸ったその一瞬前に、昴が口を開いた。トランプをくるりとひっくり返すように、己が纏う絵柄を一瞬で変えている。
英智に対するその表情は柔らかく、小原と相対して瞳を鋭くしていたあの様子はもうない。
「夕飯の買い物して帰るか。何が食いたい?」
昴はその言葉で、小原とのこの会話を英智には聞かせたくないということを教えてくる。
聞きたいことはいろいろあった。けれど昴が英智の浮かべる表情に対して何も言わず、外で待っていろと英智を遠ざけるのなら、それは英智が知らなくていいことなのだろう。
「……しょうが焼きが食べたいです」
「わかった。商店街の肉屋に寄ろう。瀬下、運転頼むぞ」
「了解でーす。んじゃ坊ちゃん、先に行ってましょっか」
「車で待ってろ、な?」
昴の〝待て〟に応えることはいつでも得意だ。苦痛なんてひとつもない。
公園のベンチで待っていたら、彼は失っていた名前をくれた。それから二年待てと言われて、言われた通りに待っていたら、今度は新しく〝桜井〟という名字をくれて、昴は英智の父親になってくれた。
待った先に昴が英智に与えてくれるものは、どれをとっても良いものばかりだったから。
昴の〝待て〟にうなずいて、英智は観葉植物の横を通り過ぎてドアに向かう。後ろからついてくるのは、瀬下のスニーカーの音だ。本人同様、瀬下の足音は派手である。
英智は足音を立てない。それは昴に会う前からの癖だった。
「待ってます」
ドアノブに手をかけ振り返って言うと、昴は頬を緩めた。
力の入っていないその表情は、英智の見慣れた顔だった。そうやって微笑まれるだけで、少し前に英智の中に生じたような混乱や戸惑いはいつもであればすっと晴れていく。
けれど今日はなぜか、心の中にうっすらと霧がかかったようにいっこうに晴れてくれない。
その微妙な心中のせいで、英智が浮かべる表情も晴れない。
昴もそれを見て、少しだけ目を伏せた。
そんな養い親と子供の様子を見て、強面の刑事と派手な顔立ちのチンピラがそろって顔をしかめたことには、英智は気づかなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます