第10話
流れていく景色を、車内からぼんやり見つめる。
窓から見える桜並木はすっかり緑の葉が茂っている。空からの日差しは直線的でギラギラしていて、道を行く人々は木陰を選んで歩いている通る。暑さはあるが、木の葉を揺らす風があるので真夏よりは過ごしやすい。
ダッシュボードにフィギュアがたくさん転がっているこの車は、瀬下の物なのだろう。
美少女を模したもの、ネズミの国の黄色いクマ、猫をペットにするリボンをしたネコ、仮面のライダー、腕が伸びた麦わら帽子の少年……とある喫茶店の店内を再現したミニチュア、手のひらに乗るほど小さなギターやカメラやラジオ。それら全てが雑に置かれ、車がカーブするたびにざざーっと横に滑り出す。
フィギュアに対する愛の多寡はいまいちよくわからないが、所有者の雰囲気によく似て車内はとても賑やかだ。
「ねーねー坊ちゃーん」
「……なんですか?」
「ちょっとくらい寄り道しようよ。育ちざかりの高校二年生、牛丼とか恋しくなんねえ?」
牛丼屋のオレンジ色の看板が滑るように窓の外を流れていった。
それを残念そうに……サングラスなので目の表情はわからないが、全体的な雰囲気としては確かに残念そうに肩を落としながら瀬下が言う。
「いいえ」
むしろ昴さんが恋しい。昴さんが足りない。
……そんなことは、もちろん口が裂けても言えないが。
「まじで? オレがそんくらいのころはしょっちゅう飢えてなんか食ってたけどなー」
「……」
「あ! もしかして牛丼の腹じゃないだけ? ラーメンとかどーよ?」
「必要ありません」
「うっそだろぉ? ラーメンにも心開かないとか! 坊ちゃんちゃんと食欲ある?」
「人並みには」
「ヒトナミニハ!」
必要以上に遅くもなく、スピードを出し過ぎるわけでもなく、ゆったりと余裕を持った運転で車は進む。
人を乗せて走ることに慣れた運転だと英智は思った。
「オレうるさい? でも慣れてねー。これからしばらく坊ちゃんの送迎はオレがすっからさあ」
「これから……瀬下さんが?」
「そだよ。よろしこー」
「あ、はい。よろしくお願いします」
両手をハンドルに置いたまま、こちらに顎先を向けてちょこんと頭を下げる瀬下につられて、英智も頭を下げる。そのあとで、そういえば……と、彼の前任者の顔を思い浮かべて口を開いた。
「津田沼さんはどうしたんですか?」
「津田沼ァ? 気になんの? 仲良かった?」
「いえ、そうでもないですけど……」
瀬下に答えたように特に仲が良かったわけではないが、自分が中学に入った時からの運転手だったからそれなりに話すこともあった。
そして瀬下よりはお喋りじゃないぶん、付き合いやすかったと思う。お互い寡黙だったので年単位の付き合いの割にあまり個人的なことは知らないが、沈黙の車内が気詰まりだと感じたことはない。
今日の朝までお互いの間に何かトラブルや、わだかまりが残るような出来事もなかったはずだ。それなのに突然、今日の帰りから別の人間が運転手を担当しますというのは、他人に対してさして興味がわかない性分の英智もさすがに少し気になった。
なによりも、電話で話す機会もあったのに、昴が運転手の交代だけ告げて津田沼について何も言わなかったことが気にかかる。
「俺が聞いてもいい話ですか?」
あの育ての親は仕事柄とても慎重だ。自分は普通だと答えたけれど、鞠花の言うように息子に対して少し過保護気味なところもあるので、英智に関することでもあえて話さないことがある。
それは必要なことだし、承知もしている。昴がそう判断したのなら英智に全く否やはないのだが、やはり少し寂しいというか、教えてくれなくて悔しいと思うこともある。
「いんじゃね? べつに桜井さんに止められてもねーし?」
右に曲がれという機械の声に従ってゆっくりハンドルを切りながら、「ま、そんな深刻な話でもないよ」と、瀬下はのんびり話し出す。
「うちのカイシャに平沢ってチンカス野郎がいんだけど、そいつが別の組が仕切るホストクラブ襲撃して売り上げ横取りしたんだわ。んでそのとばっちりうけて、津田沼は今日の昼くらいに入院。親父さんがちょー激怒したっつうだけの簡単な話だし?」
それは深刻な話だし、簡単な話でもないのではないだろうか。
「あ、親父さんっつってもアレよ? 飯田さんじゃなくて、もーひとつかふたつ上のほうの偉い親父さんよ?」
「それは、昴さんは大変なんじゃ……」
「そりゃもー。その組のシマにはちょっと前にも身の程知らずの野心を持ったマヌケが勝手に商売の手ェ広げたせいで、親父さんがけっこうな金で手打ちにしたばっかのとこだし。さすがに二度目はねーよ」
あの事件だよー。と言われても、英智はそれを知らない。
思い返してみると、そう言えば少し前に昴は忙しそうにしていた。
何かあったのだろうかと心配していたが、昴は英智の前では何事もないかのように涼しい顔で過ごしていたし、英智も突っ込んでは聞かなかった。昴が言わないのなら、聞かなくていいことなのだと思っていたから。
その先、十キロメートル先右方向です。と、カーナビにプログラムされた女性の声が言う。
サングラス越しにちらりと道を確認した瀬下は、ヘラッと笑いながら話を続けた。
「あん時も桜井さんけっこう大変そうだったけど、今回は金じゃ済まないだろうからもっと大変だわ。平沢の粗末な首いっこじゃ向こうさんも納得しねえと思うし」
「……」
「組長である飯田さんはマヌケだしー?」
ざざっとダッシュボードの上でフィギュアが滑る。
その音に反応して顔を上げると、フロントガラスの向こう側では昴が待つ事務所への見覚えのある道が続いていた。
「もしかして坊ちゃん、なんも知らなかった?」
「……」
軽く溜め息をつく音が聞こえ、思わずその金髪を睨みつける。
確かに英智は知らない。
そんな話は聞いていない。前にあった事件のことも、平沢とやらが起こした事件も、教えてもらっていない。
けれど、それは昴が教えなくていいと判断したことなのだ。
昴が教えてくれることは全部が正しく、温かく、優しい。
対して昴以外が知らせてくるものはいつだって、つらくて痛くて苦しいものばかりだった。
そして昴は、英智がそういうものに触れることを嫌がっているのだと思う。
こうして登下校を車でさせるのは、暴力的な気配の濃い昴の周りから少しでも隔離しようという意味合いも強いのだろう。あの人は優しいから。
だから英智はそれを知らなくたっていい。知らないことが当然で、よけいな詮索をすべきではない。昴が忙しそうにしていると気がついていても、英智はその理由を聞かなかった。
それでいい。それが正しい。
「そんなわけで事務所めっさバタバタしてんのね。だから落ち着くまでどっかで時間潰そうと思ってたんだけど、……ま、知らなかったんならしょうがねえか」
昴が英智に教える必要はないと判断したということは、英智が知ってはいけないことなのだ。
それが正しいはずなのに、瀬下のその言葉が無意識のうちに胸に刺さった。
痛い。――と、思った。
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