第7話

 チャイムが鳴り、ホームルームを終えた担任の元に切羽詰まった顔の生徒が集まりだした。

 補講の予定を告げる担任とそれに悲鳴を上げる生徒たちを横目に、英智えいちは淡々と鞄に教科書を詰め込んで席を立つ。

 英智は結構成績が良い。その名の漢字が表わす通り、頭に知識を詰め込むのが好きだった。


 「えーちくん、今日も帰んのはやいね」


 横からにゅっと顔を出した女子がにこにこと笑いかけてきた。

 くりっとした大きな目は英智と同じ高校二年生とは思えない無邪気さで輝き、ふっふっふとわざとらしく笑い声を上げながら奇麗に整えられた爪が英智の肩をつついてくる。


 背も高くどちらかというと顔も怖いと言われるほうが多い英智にこうしてかまってくるのは、指先に力を入れて肩の肉を強めに押してくるこの遠慮のない女子くらいしかいない。思ったよりも強い指の力に、長く伸ばした爪が折れないか心配になる。


 「……鞠花まりかさんは、今日も寄り道?」


 ロッカーへ放り込むため別にしてあった教科書を片手に、肩に鞄をかけながら視線を下げる。

 なんせ目の前でにこにこしている同級生は、180㎝ある英智より30㎝ほど背丈が足りない。英智の胸くらいでぴこぴこと揺れている栗色のツインテールを、何とはなしに目で追いかけながら首を傾げた。


 「そー。F組の子たちとカラオケ。今日もえーちくんは事務所寄るんでしょ? ダディによろしく言っといて」


 いいけど……とうなずきながら、目の前で仲良しのクラスメイトにバイバーイと手を振っている同級生の父親の顔を思い浮かべる。

 彼女の父親とは、もしかしたら娘の鞠花とよりもよく話をしているかもしれない。


 「そろそろ真っ直ぐ帰ったほうがいい。小原さんも心配する」


 鞠花の母親は彼女が小さい頃に亡くなっている。連日学校から繁華街へと直行する鞠花の奔放さに、男手ひとつで育てる父親の心中はいかばかりか。

 英智の言葉に、しかし彼女はハハッと笑って言った。


 「だいじょぶ! うちのダディはえーちくんの桜井さんと違って放任主義だし」


 「昴さんも普通だと思うけど」


 鞠花は英智の言葉にぴょこっと肩をすくめると、大げさに口をへの字に曲げた。

 どうやら大昔に流行ったアヒル口のつもりらしいが、どれだけ練習しても達磨に書かれた太字のへの字にしか見えないのが悲しい。本人にはもちろん言えないけれど。


 「それはどうかなー」


 昴さんって超心配性じゃん。と付け足して、今まさに英智の制服の胸ポケットで震えたスマートフォンの存在に気づくと、どんぐり眼をさらに大きく開いて勝ち誇ったように胸を反らした。


 「ほら!」


 英智のスマホに電話をかけてくる人間は少ない。というか、着信履歴には目の前の鞠花か、彼女の父親の小原か、養い親の名前しかない。という現役高校生にしては寂しすぎる事情を、この背丈の足りない同級生は見抜いている。


 「……どうしたの、昴さん」


 機械の向こうで、若い男の声が笑う。


 冬の寒い夜に初めて会ってから十数年が過ぎた。その間に〝すばる〟というのが〝昴〟という漢字を書き、〝えいち〟という自分の名前が〝英智〟だと知れて、さらに昴は英智に〝桜井〟という昴と同じ名字をくれた。

 〝あたたかい〟という言葉の意味を英智に教えてくれた〝すばる〟は、英智の父親になったのだ。

 現在、昴は三十一歳。高校二年生の息子がいる、ずいぶんと若い父親である。


 『どうかしなきゃ息子に電話もかけたらいけないのか?』


 昴から〝息子〟という単語を聞くたびに、英智の胸はいつもチクリと痛んだ。

 ――息子。

 確かに自分は彼の息子だ。それはその通りなのだけど、心の奥にある暗い願望がその言葉に反発する。

 彼にそう言ってもらえることが、昔はとても誇らしかったというのに。


 英智が頬の内側を噛んだことを知らず、若い父親はゆっくりとした聞きやすい声で話を続けた。


 『いつもの津田沼が来られなくなったから、これから瀬下っていう名前の金髪に迎えが変わったからな』


 津田沼とは昴の部下で、主に英智の登下校の送り迎えをしていた男だ。もはや英智の専属運転手といってもいい。

 今朝の登校も送ってもらったのだが、その時には昴も津田沼も、下校時の運転手の変更については何も言ってなかったはずだ。何があったのだろうかと英智は首を傾げた。


 「せした、さん?」


 『大柄で邪魔くさいかもしれないが、愛想は良いから車内でも間は持つだろう』


 「わかりました」


 普通の高校に通う男子高校生には、はっきり言って迎えなど不要だ。

 無口で不愛想な己の性格と相まって、専属運転手の存在は英知を学校からさらに浮いた存在にさせている。だけど昔から話すことはあまり得意ではないし、社交的な性分でもないから、浮いていたって全く問題はなかった。

 それに運転手が必要だと昴が思ったのなら、英智に異を唱える理由などないのだし。


 『今日も事務所に来るんだろう?』


 「昴さんが、迷惑じゃなければ」


 耳に心地良い低い声が、英智の言葉に小さく笑った。


 『待ってる』


 「……ん」


 昴と繋がりが切れたスマホを握りしめ、少ししてから視線を下にずらすと……ニヤニヤと笑みを浮かべる背の小さい同級生と目が合った。


 「……なに?」


 「べっつにぃ? てか美少女な幼馴染みの笑顔に対してその反応って、えーちくんイカレてる。やばー」


 「いや、そもそも……」


 「なーに?」


 「――……うん」


 達磨そっくりのへの字がニヤニヤしているのは、なんだか邪悪な感じがする。とは、〝かわいい〟に全力投入する幼馴染みには、ちょっと申し訳なくて言えなかった。

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