第5話

 それからしばらくして、やっぱり痛みを我慢するような顔をして帰ってきた〝すばる〟は、しゃがんで手を伸ばし、ささやくような小さな声で言った。


 「えいち。これがおまえの名前だ」


 「……」


 ――えいち。

 聞き覚えがあった。


 母親と、母親によく似た女の人の三人で暮らしていた時に何度か呼ばれていた気がする。あの浅黒い肌の男が、母親と一緒に住みだす前のことだ。うっすらと覚えがあった。

 母親に似た女の人がいつの間にかいなくなってから呼ばれなくなったけれど、その人は自分を〝えいち〟と呼んでいたように思う。


 「えいち」


 そう言って、〝すばる〟は自分の頭に触れる。


 痛みもなく頭に触られたのは初めてだった。

 ゴミ箱の中のハムの切れ端よりも、浅黒い肌の男がもったいぶってくれたパンよりも、それははるかに良いものだった。


 「……」


 自分の中身がすごい速さで〝すばる〟に向かって流れ出す。

 そして流れていくのと同時に、〝すばる〟が手を置いた頭から何かじわりとしたものが流れ込んでくるようだった。

 それを感じるとどくんどくんと体の中で何かが鳴って、痺れるような痛みが走るけれど、やっぱり全然痛くない。


 あのアパートのドアの前で、〝すばる〟は「温かいものでも飲むか」と言った。

 自分は〝あたたかいもの〟の意味がよくわからなかったけれど、たぶんこれが、〝あたたかいもの〟なんだろうと思った。


 〝すばる〟がなんてことない顔をしてくれたもの全部が。

 コートや、飲み物や、なまえや、触れた手や。そういうものが全部、〝あたたかいもの〟というのだろうと理解した。


 その時初めて、自分は〝あたたかい〟という言葉の意味を知ったのだ。

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