第4話
その人は、自分のことを〝すばる〟と言った。
それと一緒に「名前は?」と聞かれたが、〝なまえ〟という言葉の意味が、自分にはよくわからなかった。
けれども自分のことを〝みゆう〟と呼ぶ母親が、浅黒い肌の男のことを〝まあくん〟と呼ぶように、その人は〝すばる〟と呼ばれるのだろう。
きっとそういうのを〝なまえ〟と言うのだ、ということはなんとなくわかった。
だから〝みゆう〟と〝まあくん〟が自分を呼ぶ時の〝なまえ〟をその人に言うと、怖い顔をして黙り込んでしまった。
その顔を見て、自分は〝すばる〟の気に入らないことをしてしまったのだろうかと震えた。
きっと〝なまえ〟とは、自分が考えたこととは違ったのだろう。自分は間違えたのだ。
だから〝すばる〟は怒ったのだ。
けれどじっとこちらを見てくる〝すばる〟の顔は怖くても、母親が浅黒い肌の男に殴られたあと痛いのを我慢するのと同じ顔をしていた。
誰にも殴られていないし、蹴られてもいない。煙草の火を押し付けられたりもしていない。なのになぜ〝すばる〟がそんな顔をするのかわからない。
不思議に思って〝すばる〟を見ていたら、彼は何かを呟いて立ち上がった。
もうひとつあの熱い缶をくれたあと、「少し待ってろ」と言った。
〝待て〟という言葉の意味は知っている。
浅黒い肌の男が気まぐれにパンをくれる時、一日中そのパンの前で座って待ったことがある。
外に放り出されたら、その場でずっとドアが開くのを待たなくてはいけない。
〝待て〟という馴染みのある命令を、すぐさま理解してうなずけたことで、自分の頬が少し熱を持ったのがわかった。誰もいない部屋の中で、ゴミ箱の中からハムの切れ端を見つけた時みたいな気分だ。
アパートへ歩いて行った〝すばる〟が帰ってくるのを待ちながら、手に持った缶の中身をゆっくりと飲む。
苦くて熱くて痛いけれど、苦くなくて熱くもなくて全然痛くないこれは、浅黒い肌の男がくれたまるまる一枚のパンより腹を満たしてくれるような気がする。
満腹になる感覚と似ているが、何かがちょっと違うようだった。
それがなんなのかはよくわからない。
そして相変わらず体の中から何かがぽろぽろとこぼれ落ちていくような感じもするけれど、不思議と怖くはない。
「すばる……」
ひりひりする唇を少しだけ開けて、その人の〝なまえ〟を言ってみる。
その瞬間、自分の体の中からゆっくりと流れていた何かは急に速さを変えたような気がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます