第3話
アパートの目の前にある広場の存在は知ってはいたが、ドアの前から一歩でも動いたことがバレると母親や浅黒い肌の男に力いっぱい殴られるので、何度も外に放りだされていてもそこに足を踏み入れたことがなかった。
葉っぱが全て落ちて丸裸になった木々。掃除で取りこぼした枯れ葉が風でカサカサと音を立てて砂の上を滑っていく。
ドアが開くのを待ちながら見下ろしていた広場に、自分がいる。
そのことになんだか不思議な感情を抱きながら、その人が少し奥のほうにあるベンチへ向かって歩いていくのを追いかける。
顔がついた大きな何か……(当時、自分はその広場に公園と名前がついていることも、その何かがゾウの形をした大きなすべり台であることも知らなかった)の横を通り過ぎ、ザクザクと音がする砂を踏んでベンチに辿り着いたその人は、子供が追いつくのをじっと待っていた。
彼は浅黒い肌の男のように、グズだと怒ったりはしなかった。
だけどその顔はぴりっとした顔から明らかなしかめっ面になっていたから、そのあとに飛んでくる拳の痛みを想像してひゅっと喉が鳴った。
浅黒い肌の男が持ってくる、真っ赤な粒の入った銀色のシートを束ねる輪ゴムがぴんと張った時のような、そんな雰囲気が辺りに漂う。
銀色のシートは触ると殴られるものの筆頭で、多すぎるそれを束ねるオレンジ色の輪ゴムはいつも引っ張られすぎて細く白くなってしまっている。
それがぷつんと切れたとき、母と男の怒りをぶつけられるのはいつも自分だ。
その時に自分がそれに触っていなかったとしても、思い出すのも嫌なくらい痛い思いをすることになるのだ。
けれどその人はベンチに座るようにと背を軽く押し、無言で着ていたコートをぎゅっと縮こまった肩にかけてくれた。
「……っ」
それでその瞬間、じわりと何かが体の中から抜けた。
ぎゅっと押し潰されて固まっていた何かが、ぶかぶかのコートの中でほどけていく感覚だ。
輪ゴムが切れて銀のシートがばらまかれるような感じにも似ているけれど、それよりもっとゆっくりした動きのように思えた。
自分の中身の何かがじわじわと、そして恐る恐るゆっくりと滲み出していくようだった。
何かわからないものがこぼれ落ちていくようなその感覚に、とまどう。
自分ことなのに、これがいったいどういう現象なのかがわからない。
殴られたあと血が出たならどうすればいいのかわかるのに、自分の中からいったい何が漏れ出ているのかわからないから混乱する。
とまどって、混乱して、体の中から何かが抜けていくのとは逆に、体はどうしたらいいのかわからなくて硬直した。
その人がベンチの側にあった光を放つ機械(今なら自動販売機だとわかる)から落ちた缶を取り出して、触れるとビリッと痛むほど熱いそれを持たせてくれた時には、どうしたらいいのかわからなすぎてさらに固まってしまった。
その硬直をどう思ったのか。その人は自分が飲んでいた缶を子供の頬に当てると「飲め」と、言った。「火傷しないように気をつけろよ」とも。
〝飲め〟という命令は知っていた。そして従わないと殴られるということも理解していた。
だけど、〝やけど〟や、そのあとに続いた言葉の意味を知らなかった。
母親や浅黒い肌の男は自分の物を汚されるのを嫌っていて、うっかり彼らの服を汚してしまったときには強烈な蹴りを食らうことも知っていたから、恐る恐る、その人の服を汚さないように注意しながら缶に口を付けた。
苦い飲み物だった。
そして熱かった。
だけど、熱くはなかった。
真夏の昼間に裸足でベランダに出されたときみたいな痛みが舌に走ったけれど、でも、痛くはなかった。
よくわからない感覚だった。
熱いけれど熱くはなく、痛いけれど痛くはない。
その熱くて痛い飲み物がお腹の中に流れていくと同時に、自分の中にあった何かが、その人に向かって流れていくような気がした。
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