第2話
その人は、アパートの冷たい廊下で突っ立った子供を見て、少しだけ寒そうな顔をした。
真冬の深夜に子供がパジャマ姿でぼーっと立っていることの異常さを、今なら理解できる。
そう、今ならば。
手足の感覚が無くなったり痛みを感じていたのは寒さのせいだったということが、今ならわかる。夏に部屋へ閉じ込められた時に意識が朦朧として吐き気がしたのは、熱中症で死ぬ一歩手前だったのだということを、今は知っている。
だけど自分は当時、〝あたたかい〟という単語すら知らなかった。
そして〝つめたい〟という言葉も知らなかったから、その人がどうしてそんな……殴られたあとの擦り傷に汗が染みた時のような、ぴりっとした顔をするのかわからなかった。
けれどもその時の自分にとって一番重要なことは、少ない星明りを受けてつるんと銀色に輝くドアノブが回る瞬間を待つことだったから、その人が「温かいものでも飲むか」と言いながら、わずかに眉をしかめたわけを考えることなんてしなかった。
反応を示さない子供に対して、その人はべつに「一緒においで」と誘ったわけではなかった。
手を引いて連れていこうとしたわけでもない。
ただ寒さに辟易とした顔をして「俺は飲みたい」と続け、「お前も飲むだろ」と疑問符のつかない断定口調でそう言っただけだった。
〝あたたかいもの〟という言葉の意味はわからなかった。そういう言葉を聞いたことがなかったからだ。
だけど〝飲む〟という言葉の意味は理解できた。
それから母親と浅黒い肌の男が何かを強い口調で言った場合、それにうなずかなければ痛い思いをするということも、経験からわかっていた。
自分が今しなければならないことはドアが開くのをその場で待ち続けることなのだが、その人の断定口調に従わず、殴られることも嫌だった。
浅黒い肌の男よりは細い体のその人は、けれど母親よりは大きい。寒さから固く握りしめられた拳は尖っていた。
殴られたら、きっと痛い。
その人について自分が理解できたのは、そのくらいだった。
だけど、だからこそ、踵を返しアパートの階段を下っていくその人の背中を追いかけた。痛いのは嫌だったから。
少し迷ったけれど投げつけられた靴を履いて足音を忍ばせ階段を降りると、その人はぴりっとした顔のままこちらを見た。
そのまま無言でアパートの前にある大きな広場へ向かうその人の背中は、拳と同じでなんだか鋭く尖って見えた。
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