第17話 わたしの知らないお姉様
翌朝。
まだ誰もいない早朝のグラウンドに、わたしはジャージ姿で立っていた。
青い空から降りそそぐ淡い朝日と、澄んだ空気がすがすがしい。
わたしは一度大きく深呼吸をすると、全速力でグラウンドを走り出した。
――わたしは負けない! 夏姫様になんか、ぜったいに負けるもんかっ!
心の中でそう叫んで、一生懸命ひた走る。
もうっ、どうしてわたしがこんなことまでしなくちゃいけないの! 運動だって、それほど得意なわけじゃないのに~っ!
黙々と走っていると、そんな不満がどんどん胸の中でふくれ上がってきた。
でも、そうかといって何もしないでただ負けるのは悔しいし、じっとしているくらいなら思い切り走り出したい――そんな衝動に突き動かされて、わたしはひたすら走り続けた。
グラウンドを一周して立ち止まり、前かがみになりながら、乱れた息をなんとかととのえる。
胸が痛くて、息が苦しい。けれども、いやな苦しみじゃない。いや、苦しいには決まっているのだけれど、美波様の優しい笑顔を思い浮かべながら走っていると、
「よーし、もう一周行くぞーっ」
さわやかな朝の空を見上げながら、自分をはげますようにつぶやいて、ふたたび走り出そうとスタートラインに立つ。
すると、予想だにしない乱入者がいきなり姿を現した。
「抜けがけなんてさせないわよ、日奈乃!」
「ええっ、夏姫様!? なんでっ!?」
なんとジャージ姿の夏姫様が、わたしのとなりに並び立ち、まさにスタートを切ろうと身構えているではないか!
「ど、どうして夏姫様がこんな時間にグラウンドにいるんです?」
「それはこっちのセリフよ! 眠い目をこすりながら学校に来てみれば、日奈乃がすでに練習しているんだもの。おかげで眠気が吹っ飛んだわっ!」
「いっそ、そのまま眠っていてほしかったかも」
「なにか言った?」
「い、いえっ、なにも!」
わたしはブンブンと首を横にふった。朝から夏姫様のきげんを損ねてしまって、一日中恨まれでもしたらたいへんだ。
「さあ、勝負よ日奈乃! よーいドン!」
「あっ! いきなりズルい!」
わたしをスタートラインに置き去りにして、ものすごい勢いでダッシュする夏姫様。わたしもまた、あわてて夏姫様の背中を追いかけて走り出す。
追いつけそうで追いつけない距離がもどかしい。
わたしと夏姫様との差は、縮まるどころか、むしろしだいに広がっていって、ますます絶望的な気持ちに突き落とされる。
――これが一年生と二年生の実力のちがいなの?
わたしは、夏姫様と自分との間に、どうがんばっても超えることのできない高い壁があるのを感じて、暗い気分に沈んでいった。
それでも、わたしは簡単にあきらめるわけにはいかない。
だって、もし部対抗リレーで夏姫様に負けてしまったら、わたしは美波様から離れなくちゃいけなくなってしまうんだもの……。そんなの、ぜったいにいやだ!
悔しさのあまり、目尻に熱いものがこみ上げてくる。わたしは今にも泣き出しそうになるのを必死にこらえ、夏姫様の背中を追いかけ続ける。
……けれども、結局わたしはただの一度も夏姫様に追いつくことなく、ついに力尽き、グラウンドに倒れこんだ。
「はぁ……はぁ……っ。こんなにも息が苦しくなったの、生まれて初めてかも……」
グラウンドに背をつけ大の字になって、むなしいほど高い空を見上げる。
たちまち視界が涙でゆがみ、わたしは腕で顔をおおい、声を殺して泣いた。
夏姫様が先日チャペルで声高に叫んだ願いごとが、わたしの耳の奥でよみがえる。
――「どうか、そこにいる早坂日奈乃を倒すことができますように!」
まさにわたしは徹底的に打ちのめされた。
まだ入学して間もないわたしが、二年生のお姉様である夏姫様に勝とうだなんて、はじめから無理だったんだ……。
きっと本番でも、この悲劇がくり返される。そうなったら、いよいよわたしは美波様をあきらめなくちゃいけない……。
わたしの世界がしだいに灰色に染まっていく。わたしは暗い気持ちにすっかり支配されて、涙をこらえることができなかった。
「ハァ、ハァ……ほら、泣くんじゃないの。これじゃ、まるで私が悪いことをしているみたいじゃない」
夏姫様がグラウンドに寝そべるわたしの上半身を起こし、ハンドタオルを貸してくれた。わたしはいじけたように体育座りになって、夏姫様のハンドタオルに顔をうずめる。
「日奈乃が負けずぎらいだということは、よ~く分かったわ。あなたのその根性だけは認めてあげる。日奈乃は立派よ。美波さんを慕って、こんなにもがんばったんだもの。日奈乃はえらいわ。ただ、相手が悪かっただけよ」
夏姫様はまるで年下の妹を気づかいなだめるかのように、優しい声をかけてくれる。
わたしはますますみじめな気持ちになって、いっそう涙があふれてきた。
「日奈乃の辛い気持ちは私にもよく分かるわ。私だって、ここ最近はずっと辛かったもの。でも、安心なさい。美波さんのことは、この私がちゃんと支えてみせるから」
「……どうして?」
わたしは声をしぼり出すようにして、夏姫様にたずねた。
「どうして、夏姫様はそんなにも美波様には自分が必要だって、言い張れるんです? 美波様がひとりで仕事を抱えこんで困っていたって、なにもしなかったくせに……」
わたしはこれまでひそかに積み重ねてきた思いを、ついに夏姫様にぶつけた。
重いノートの束を、細い腕でひとりで運んでいた美波様。
誰もいない放課後の教室で、ひとりで黙々と掃除をしていた美波様。
そんなふうに美波様ひとりにたいへんな仕事を押しつけ、ちっとも手を貸そうともしないで、どうして自分が必要だなんて言えるのだろう?
ほんとうに必要とされたかったら、夏姫様自身から美波様を手伝ってあげればよかったのに。
夏姫様はため息をつき、それから、さみしげな目でわたしを見つめた。
「あなたは何も知らないのね。どうして美波さんがあんなにもひとりで仕事をしたがるのか。誰かに尽くしたがるのか。――そして、初等部のころにどんな悲しい出来事にみまわれたのか。何もかもね」
夏姫様の声が、わたしの耳に切なく響く。
わたしは話の続きを聞きたかった。
夏姫様がいったい何を知っていて、わたしが何を知らないのか――その答えを夏姫様に問いただしたかった。
けれども、時間が経つにつれて登校する生徒も増え、いつしかわたしたちの周りにも人の輪ができていた。
その輪の中から、ついに美波様が血相を変えてわたしの元へと駆けつけてきた。
「日奈乃、大丈夫!?」
わたしを気づかう美波様の声が、かえって胸に痛々しく突き刺さる。
わたしはふたたびハンドタオルに顔をうずめ、少しも美波様を見ることができなかった。
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