第7話 あなたの愛に生かされる

 美波様とふたりで一緒に教室の床をはき、窓をふき、机の位置をととのえる。掃除はまもなく終わった。


「ふう、ようやくきれいになりましたね」


 額にうっすら浮かんだ汗を、シャツの袖でぬぐう。


 やれやれ。どうしてわたしがこんな目に? と思わなくもないけれど、きれいになった教室を見わたすと、しぜんと達成感もこみ上げてくる。


 気づけば、美波様が柔らかい笑みを浮かべ、わたしに温かい眼差しを注いでいた。


「な、なんですか、美波様? わたしの顔になにかついていますか?」


「うふふ。なんだか今日は日奈乃に助けてもらいっぱなしだなって」


 美波様がうれしそうに笑みを深める。


「べ、別に。当然のことをしたまでです」


 しぜんと頬が熱くなる。


 わたしは照れくささをごまかすように、さらに続けた。


「美波様がひとりでノートを運んでいたり、ひとりで教室の掃除をしたりしているのを見かけたら、誰だって手伝うに決まっているじゃないですか」


「あら、そんなことはないわ。今日、日奈乃がわたくしにしてくれたことは、誰にとっても当たり前ではないもの。日奈乃にしかできない、特別なことよ」


 美波様がうれしそうに声を弾ませる。


 うう~っ。わたし、あまり褒められるのに慣れていないから、褒められるとかえって顔から火が出そうなくらい恥ずかしくなるんだよね。


 でも、困っている人がいたら助けるのは当然だし、それが美波様ならなおさらだ。


 それにしても――。


 もし、仮に、ほかのお姉様方が美波様の優しさにつけこんで都合よく利用しているのだとしたら……。そんなのぜったいに許せない!


 わたしはいら立ちを抑えつつ、美波様に疑問をぶつけてみた。


「美波様はどうしてそんなに他人に尽くせるんですか? それこそ、自分を犠牲にしてまで」


 美波様が言う『愛を与える』という理念がどういうものかは分からない。


 けれども、たいへんな仕事をひとりで抱えこんで、それこそ我が身を犠牲にしてまで他人に尽くして、それでいったい何が得られるというのだろう?


 美波様と初めてチャペルで出会った時のことを思い出す。


 あの夕暮れ時、美波様は長椅子にくずれるように横になって、静かに眠っていた。


 それって、もしかして、他人に尽くすあまり、疲れ果ててしまったからじゃないの?


 しかし、美波様は首を横にふる。


「いいえ、犠牲ではないわ。むしろ打算と言うべきかしら」


「打算?」


 『打算』って、どういう意味だっけ? たしか、得をするか損をするかを計算する、みたいな意味だったよね?


 でも、ひとりでノートを運んだり掃除をしたりって、すごく損していない?


「おばあ様がね、おっしゃるの――『愛』は与えていると、やがてちゃんと返ってくるんですって。だから、わたくしは、人に尽くせる時は尽くしていたいと思うの。そうしていれば、いずれ誰かがわたくしに尽くしてくれるかもしれないでしょう? 言わば『優しさ貯金』といったところかしら」


「『優しさ貯金』?」


「ええ、そうよ。先に誰かに優しくしておけば、あとで誰かが優しくしてくれるかもしれないでしょう? それも、わたくしが優しくしたよりも何倍も利子をつけて、いっぱいいっぱい優しくね。だから『優しさ貯金』」


 美波様はおかしそうにくすっと笑う。


 けれども、美波様が利用されていると思っているわたしには、少しも笑えない。


「でも、誰も美波様に優しくしてくれないじゃないですか。愛なんて、ちっとも返ってこないじゃないですか」


 重いノートをひとりで運んでいても、誰も助けに来ない。


 広い教室をひとりで掃除していても、誰も手伝ってくれない。


 むしろ、美波様に仕事を押しつけているようで、そんなのぜんぜん納得がいかないっ!


 美波様が誰かに優しくすればするほど、かえって周りの先輩方はそれに甘えて、任せるばかりでどこかへ離れて行ってしまう。


 それって、すごく孤独で疲れることじゃないの? 


 それこそ、放課後にひとりチャペルで眠りこけてしまうくらいに。


「あら、ちゃんと返ってきたじゃない」


「どこにです?」


 わたしは辺りを見回した。


 悔しいくらい教室には誰もいなくて、誰も美波様に優しくなんかしてくれない。美波様はこんなにも優しく尽くしてくれているというのに。


 すごく悲しい気持ちになってきて、思わず泣きそうになる。


 そんなわたしの頬を、美波様の両手が温かく包みこんだ。



――えっ?



 驚いて見上げると、美波様が慈愛に満ちたような笑みをわたしに向けていた。


「こうして、わたくしの元に日奈乃が現れてくれた。そして、わたくしを労わり、ためらいもせずに力を貸してくれた。ねっ、愛はちゃんとは返ってきたでしょう?」


 美波様が瞳をかがやかせ、勝ち誇ったように笑みを深める。


 美波様の手に触れられた頬が、かああっ! と熱をおびてきた。


「べっ、べつにわたしは美波様に愛を返そうとか、そんなつもりはぜんぜんなくてっ」


「もちろん、そうでしょうね。でも、誰かに愛を与えていたら、ちゃんと見ていてくれた人がいて、優しい手を差しのべ、愛を返してくれた人がいた――わたくしにとっては、それが真実なの」


 美波様がわたしの身体に腕を回し、ぎゅっと抱きすくめる。


「ありがとう、日奈乃。今日一日わたくしに尽くし、わたくしを救ってくれて。あなたの愛に、わたくしは今日という日を生かされた」


 美波様の温もりに、ささやくような声の響きに、顔がますます沸騰したみたいに熱くなる。


 今、鏡で自分の顔を見たら、真夏のトマトみたいに真っ赤に染まっているかもっ!


「みっ、美波様!?」


「ご、ごめんなさい。わたくしったら」


 美波様が、ふいに我に返ったのか、あわててわたしの身体を離してくれた。


 ふ~っ、助かった。あのままの状態が続いたら、わたし、のぼせ上ってひっくり返っていたかも。


 美波様が気まずさをごまかすように、こぼん、と咳ばらいする。


「おばあ様はね、『愛は見返りを求めないものだ』っておっしゃるのだけど、わたくしにはまだむずかしくて。わたくしはつい見返りを求めてしまう。誰かに優しくする代わりに、誰かから優しくしてほしいと願ってしまうし、愛する代わりに愛してほしいとも期待してしまう。わたくしもまだまだ子供ね」


 美波様は困ったように微笑をこぼし、肩をすくめる。


 けれども、その微笑みはどこか悲しげで、さみしそうにも見えて。


「……美波様?」


「うん? なにかしら?」


「い、いえっ。やっぱり、なんでもありません」


 えへへ、とわたしはとっさにごまかした。


 けれども、美波様のはかなげな微笑みは、いつまでもわたしの胸に引っかかって消えずにいるのだった。

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