幼少編

屑上司になるまで

一話 唐突な転生



 ーーふにふに、ふにふに……


 ふと、なにか暖かく柔らかい物に包まれ、頬を擽られる感触に違和感を覚えて意識が浮上する。どうやら、眠り込んでしまったようだ。

 目を閉じたまま、ふわふわと安心する感覚にしばし身を委ねた。どうにも気だるく、動く気が起きない。眠気は不思議と感じず、ただぼうっとしていたい。

 そうしていると、再び何かが頬を擽った。


 (なんだ……さっきから鬱陶しいな……)


 一体誰が自分の頬を触っているのか、少し苛立ちながらそう思っていると、誠はハッとした。

 自分は一人暮らしのはずである。自宅に親は居らず、そもそも単身者向けマンションであったのだ。それにーー


 (俺……さっき……)


 ぼんやりとしていた意識が冷水を浴びたように覚めていった。

 蘇る記憶には、漫画のワンシーン。そして、最後に聞こえたルクスの声。

 かき消えていた恐怖が、誠の胸中に再び広がり始めた。


 (アレは一体何だったんだ。俺は、気絶してたのか……?)


 ルクス・ステラーー誠の推し。

 彼は確かに、誠を見ていた。

 本来動くはずのない絵が動き、声をかけてくるなんてホラー展開は予想していなかった。

 誠は、体を強張らせる。

 そして、自分の置かれている状況に異常事態は続いてるのだと確信した。

 視界に広がるのは見覚えのない一室。

 高級ホテルのような品のある調度品が飾られ、大理石の床がつるりとした光を反射する。

 奥に見える扉はバリアフリーなのか、目にしたことがないほど大きい。それも両扉だった。

 ソファやテーブル、花瓶など、この部屋にあるものすべてが高価なものだと一目でわかる。

 明らかに、誠の自宅ではない。

 

 「ーーあら、おきたのね? ふふふ……おはよう、私の


 そのとき、しっとりとした声が誠に投げられた。

 次いで、視界いっぱいに映る、巨大な一人の女性。

 誠に向かって手を伸ばし、美しい笑みを浮かべて見つめている。


 (誰だこの人……つーか大きすぎねえか……!?)


 ツヤツヤとした黒く長い髪に白い肌。青い瞳。そのコントラストが美しく、きれいな女性だ。

 ぼうっと眺めていると、女性は誠の頬をツンツンと指でつついた。

 なぜだか、妙に視界がおかしい。女性が異様に大きく見えるし、自分がとても小さな存在のように思える。

 いったい、どういうことだろうと誠は自分の手を見た。


 「あう? (は?)」


 ーーゴツゴツとした男の手は、そこにない。

 あるのは、小さな紅葉のような弱々しい手……。


 (まってくれ今とんでもない声を出さなかったか俺……!!)


 カッと目を見開いた。

 

 「……どうしたのかしら、おててが気になるの?」

 「あおうああまあえ(頼むから待って)」


 少しだけでいいから頭を整理する時間をくれと誠は切実に願う。

 とっさに女性へ返した言葉は、あうあうと要領を得ない未知の言語となって発せられた。

 なぜか声が甲高い。変声期を終え、しれなりに低くなった自分の声ではない。

 

 (嘘だろ誰か嘘だって言ってくれよ……)


 ダラダラと全身を冷たい汗が流れ始める。気づきたくないことに気づいてしまった。

 自分を包む温かい何かは、眼の前の女性の腕であったということを。

 そして、自分は女性に抱えられるほど小さく、言葉も話せない存在だということを。

 そう、それはつまりーー。


 「あうあぃい……?(赤ちゃん?)」


 ーー自分は、赤ん坊になっているのではないか。

 愕然として、誠は自分の手のひらを見つめた。ふっくらもちもちとした、紅葉のような手。構内を舌で探ると、歯が生えていないことがわかる。

 それらの事実をゆっくりと咀嚼して、脳に刻み込んだ。

 バクバクと跳ねる心臓を落ち着かすように、そっと息を吸ってーー……


 「あいあぅあぁいんッーー!?(アカチャン!?)」


 吐くことなく、叫んでしまった。

 

 (俺、アカチャンになってんのォッ!?)


 到底落ち着いて受け入れることのできない事実だ。

 

 「うふふ、元気がいいことね。さすが私たちの子といったところかしら」

 

 女性はしとやかな笑みを浮かべて誠を見ていた。



**



 その時、のっそりと女性の背後から、少し日に焼けて骨ばった腕が回され、抱き上げられる。

 視線を向けると、野性味を感じさせ、とても見覚えのある顔を持った男が、満面の笑みを浮かべて誠を見つめていた。

 誠は、思わずまじまじと見つめる。とても見覚えがあるのだ。

 

 「アーテル? 帰ってきたなら声をかけてくださいな。この子も、とてもびっくりしているわ」

 「悪いな。ようやく我が子と妻に会えると思ったら待ちきれなかった」

 「もう……」

 (アーテル……? どっかで聞いたような……)


 記憶にどこか引っかかりを覚えるその名前、その顔。

 ぐぐぐっと誠は眉間にしわを寄せて考え込む。

 つい最近、それこそ直近で目にしたはずだ。


 「まったく、名門ドクトゥス家の当主が聞いて呆れますよ」

 「外ではちゃんとするさ。家でくらい、ありのままで居たっていいだろう?」

 「……うふふ、冗談よ。あなたはあなたらしくいればいいわ。それに、私だってドクトゥスの人間ですもの。もちろん、この子も」


 頭上で交わされる会話から情報収集する。

 ドクトゥス。それが家名らしい。

 赤ちゃんになってしまた現状から推測するに、転生したのだろう。おそらく、男女はこの身体の両親。

 つまり、ドクトゥスは自分の苗字だ。

 ドクトゥスーー……。 


 (ドクトゥス……? え、嘘だろ? アーテルにドクトゥスって……ーーアーテル・ドクトゥスぅうう!?)


 誠は、導き出された答えにぶわりと冷や汗をかく。

 バクバクと早鐘を打つ心臓は、誠の焦燥感と恐怖を表しているようだった。

 アーテル・ドクトゥス。それは、誠の推しであるルクス・ステラの実父である。

 

 (いや……いやいやいや! さすがに無いだろ! 同姓同名なんて探せばどこにだってーー)


 そう考えながら、誠はアーテルの顔を凝視した。

 

 (……たしかに……こんな顔立ちっぽいけど……)


 推しを老けさせ、野性味を足せばそっくりだろうその顔立ち。

 漫画で描かれたアーテルの雰囲気と瓜二つだ。


 「そうだな。お前も、コイツーーノックスにも重たいものを背負わせる」

 「家族ですもの。荷物は一緒に背負うのが当然ではなくて?」

 「ハハハハ! ほんと、肝が座ってるよ。きっとノックスもお前のそんなところを受け継いでんだろうな」


 誠は耳を疑った。

 いま、この二人は何を話しているのだろうと。 


 (今…俺のことって言ったかこの人……?)

 「あら、もう自分の名前がわかってるのかしらね。ピタッと固まっちゃった」

 「ほーん、流石俺の子だな! にしても、この生意気な眼は俺譲りかー?」

 「うふふ、きれいなターコイズブルーね」


 情報量が多く、固まってしまった誠をよそに、夫婦は和気藹々としていた。

 

 「コイツの将来は俺の跡を継いで、ウンブラの総司令かもなー」

 「……もしかしたら教師だったり」

 「お、自分の職業を勧めるのか?」

 「あなたこそ」

 「まあ、そこは本人に任せる。スカイケアもウンブラだけじゃねえしな。やりたいことやらしてぇとは思ってるよ」

 「じゃあ、ノックスがウンブラに就きたいと言ったら?」

 「その時のために事前に教育するさ。後になって困らないように」

 「それは経験談?」

 「ああ。就任当時は死ぬほど大変だったからな」

 

 誠は悟った。聞き覚えのある地名、父親の顔、そしてーースカイケアという機関の名前。

 これは紛れもない現実だと、そう確信してしまった。

 わなわなと唇が震える。


 (俺……俺……)


 視界がぼんやりと滲み出し、大きく息を吸った。

 そして、誠はーーいや、


 (LIBER《リベル》の、それも、ルクス・ステラ《推し》の屑上司ーーノックス・ドクトゥスに転生したってことじゃねえかァアアーッ!!)

 「ホンギャァアアー!!」


 ノックス・ドクトゥスは泣き出した。

 怪獣のような叫び声を上げて、手足をばたつかせる。


 「お? すっげえ泣き声だなー」

 「お眠なのかもしれないわね」


 盛大に泣きわめきながら、誠ーー基ノックスは思った。


 (推しの上司になりたいとは言ったが、屑上司本人に成り代わりたいなんて言ってねえよーッ!!)


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