第三話『刺した』(3,500文字)

 かんせんが回っている。

 床と壁が白いタイル張りの、誰もいないトイレ。

 このトイレ内には、個室トイレだけが何個か、並んでいる。

 換気扇の羽が回っている音が、奥の方から響いてくる。


 天井では、白い蛍光灯が光っていて、ここのタイルの床や壁を、無音で照らしている。

 照らされたタイルに汚れはなく、白い。

 回る換気扇は、寒い空気を吐き出している。


 そんな寒いトイレ内には、四つの個室トイレが並んでいる。

 その個室たちのうち、トイレ内の最奥にある一つの個室トイレ。そこだけ、扉が閉じていた。

 そんな閉じた個室トイレの中からは、なんの音も聞こえてこない。


 静かなトイレ内で、換気扇が回り続ける。

 蛍光灯も、無音で白く光っている。


 すると、その閉じた個室の扉が、ゆっくりと開いた。

 扉のちょうつがいが、キイと静かにきしむ。

 中から革靴の硬い靴音がして、トイレ内に響く。


 個室から出てきたのは、血まみれになったナオだった。

 出てきた彼女は、いつも通り黒いスーツに茶色のコートを羽織っていたが、そのどれもが、赤黒い血でずぶ濡れになっていた。


 白いタイルの床が、血まみれのナオから滴り落ちる血によって、ポタポタと赤くなっていく。


 ナオの羽織っている茶色のコートは赤い血に濡れ、そのすそからは、赤い血がポタポタと滴り落ちている。

 ナオの髪も血をかぶって濡れており、髪にからまった赤い血が、彼女の白い肌のほおへと垂れ、そこから白い首筋を伝っている。


 ナオから滴った血で濡れた床が、蛍光灯に照らされている。


 そんな血まみれのナオは、開いた個室トイレのドアの前に、息を荒げて立っていた。

 ナオの荒い呼吸に、彼女の薄い肩がせわしなく上下し、血を被ったその髪から、血が汗のように赤く滴る。

 ナオの震えた呼吸が、静かなトイレに響いている。

 ナオはあえぐような呼吸をして、涙ぐみながら、その開いた個室トイレの中を、隈のある目で見ていた。

 ナオのその目は怯えきっていて、涙で赤くなっている。

 その、怯えきったナオの視線の先。


 個室トイレの中には、血まみれの死体があった。

 若い女の人の死体が、個室内の壁に、力なく横たわっていた。

 その女の人の身体中は、赤黒い血にまみれており、そこには深い刺し傷がいくつもあった。

 傷でズタズタになっている胸や腹部から、赤黒い血がドクドクと溢れ出し、白いタイルの床へ、赤い血だまりを広げている。


 個室内の白い壁も、跳ねた血で赤く濡れており、その壁の隅には、女の人の血でできた手形が、赤くついている。

 白い便器も、赤い水を被って真っ赤だ。


 女の人の死体は、そんな血まみれの中でうずくまるようにして倒れたまま、無言で、動き出さない。

 死体の、その長い黒髪が、赤黒い血に濡れている。


 そんな死体が横たわっている、赤黒い個室内が、蛍光灯に白く照らされている。


 床の血だまりが、ナオの足元にまで広がってくる。

 扉の前に立つナオの黒い革靴が、広がってきた血だまりにひたされ、赤く濡れる。


 そんな赤黒い個室内を、怯えきった目で見つめているナオ。

 その、血まみれで震えている手元には、血に濡れたナイフが、弱く握られていた。


 ナオの髪から赤い血が滴り、頬についた涙と混ざって首筋を伝い、血が服の中を濡らす。

 荒い息をして肩を震わせるナオは、思わずその場に吐き出しそうになった。

 手から落ちたナイフの刃が、蛍光灯の白い光を浴びて、銀色に輝いた。



「おーいこう。いるか?」

 なかが女子トイレの外で、そうナオへ呼びかける。

 ここは、あるホテル内の廊下のその奥にある、自販機やトイレなどがある狭いスペース。

 なかはそこで、終わりのナオを待っていた。

「おーいこう。いねえのか?」


 呼びかけても、女子トイレの中からは何も返ってこない。


 なかは女子トイレの入り口前で、「死んだかな」と小さく呟くと、ポケットからタバコを取り出し、口に咥えた。

 するとトイレの中から

「ぁっ、はい、ぃいます」

と、ナオの震えた声が、弱く聞こえてきた。

 なかは小さく「なんだ生きてんのか」と呟くと、タバコを口から離してナオへ

「女はったな?」

と呼びかけた。

 女子トイレの中からは、

「はい…」

と、小さな声が聞こえてきた。


 そうして少しすると、女子トイレの中から、ナオが出てきた。

 出てきた彼女は、変わらず血まみれだった。

 小さな肩がビクビクと震えていて、目も涙で赤くうるんでいる。

 なかは、そんな血まみれで赤いナオを見下げて「うお…」と小さく言った後に、

「…ここホテルだし、パッと部屋のシャワー浴びてこいよ。そのまま歩いていいから」

と言った。

 ナオは、まだ震えている血まみれの手で涙をぬぐうと「…はい」と小さく言って、そのまま廊下へ歩き出した。



 ナオがホテルの廊下で血まみれのまま歩いていると、そこで死体の清掃業者とすれ違った。

 五人ほどで列になって歩いている彼ら業者は、いつも通りの清掃用具や、肉切り包丁を持っていた。

 そんな業者らはナオへ

「こんにちは」

などと会釈した。

 するとナオも血まみれのまま

「…こんにちは」

と、うつむき加減に返した。

 血に濡れて水分を含んだナオの髪から、赤い血がポトリと滴った。



 ホテルの一室に入って扉を閉めると、ナオはその室内の風呂場の前で、血まみれの服を脱ぎ出した。

 血まみれのトレンチコートをハンガーにかけ、血に濡れたネクタイをほどき、ナオはスーツを脱いでいく。

 布の擦れる音と、ナオの荒い呼吸が部屋に聞こえる。


 ナオは血まみれのトレンチコートのポケットから、リボルバー拳銃と銃弾を取り出してそこらへ置き、スーツのシャツのボタンを外す。

 そのスーツの白いシャツも、真っ赤に濡れている。それに触れたナオの手が、洗ったのにまた血に濡れる。

 ナオは隈のある目でシャツのボタンを見つめ、一つ一つ、それを指で外していく。

 手が震えるからか力が入らず、ナオはシャツのボタンを外すのに時間がかかった。

 そのナオの目はまだ、涙で少し赤い。


 そうして、ナオはとうとうボタンを全て外すと、その血まみれのシャツを脱ぎ、洗濯カゴへ入れた。

 そして、シャツの下に着ていた黒のインナーを脱ぐため、ナオはそれへ手をかけた。

 が、ナオは思わず、インナーから手を離した。

 黒いインナーは返り血を含んで、赤黒くなっていた。

 それに触れたナオの手が、溢れるほどの血で濡れている。

 血に濡れて冷たいインナーが、ナオの素肌にはりつく。

 ナオは思わず気分が悪くなり、そのまま部屋の中のトイレへ行って、吐いてしまった。



 風呂場のドアを閉めた。

 シャワーの音が、ホテルの狭い風呂場に響く。

 蛇口をひねったナオは、まだ冷たいシャワーの水を浴びて、血を洗い流し始めた。

 風呂場の床に、透明な水が小さく跳ねる。

 風呂場の鏡には、裸のナオの痩せた身体が映っている。その細すぎる腕や、まだ震えている白い肩、柔らかい髪などが、赤い返り血で濡れている。


 シャワーの水はまだ冷たく、寒い。

 ナオの、ろっこつの浮かぶほどに痩せている薄い身体が、冷たいシャワーの水をかぶり、少し鳥肌立って震える。

 ナオは隈のある目を指で擦り、血に濡れている身体を水で流す。


 冷たい水がナオの身体を伝い、赤い血を洗い流していく。

 風呂場の床にたまる水が、血の薄まったピンク色だ。ナオの身体から滴る水も、赤みがかった色をしている。

 そんな赤い水にナオの素足がかり、さらに冷たい。

 ナオはずっと、震えていた。



「んじゃこれ、明日の仕事な」

 風呂から上がったナオへ、なかは封筒を渡した。

 風呂上がり、有り合わせのジャージを着たナオは、なかから封筒を受け取った。

 封筒の中には、明日殺される人の写真などが入っていた。



 女子トイレの方から、業者の振るう肉切り包丁の音が、ゴンと鈍く聞こえてくる。


 なかは喫煙室でタバコを吸って、そこでナオ以外の部下と電話をしていた。

「──り損ねた? お前殺し屋だろうが、ちゃんとやれよ。──すいませんじゃねえよお前、手間かけさせやがって──」


 そんな荒っぽい声が聞こえてくる中、ナオはうつむいて、廊下にあった小さなベンチに座り、自販機で買った小さいりんごジュースへ、そっと口をつけた。


 ホテルの廊下では、ここの館内BGMであろうピアノ曲が、天井のスピーカーから、ループ再生されている。

 ナオの手は未だに小さく震えていて、手に持ったペットボトルの中身も揺れている。

 飲んだジュースは、味がしなかった。



 その日の夜。

 マンションの自室のベッドで眠ろうとしたナオだったが、まだ眠れずにいた。

 暗い、電気を消した部屋の中で、ナオの隈のある目が、ずっと覚めている。

 ベッドの中で小さく丸まっているナオの、その痛む頭の中にはずっと、女の人を刺し殺した時の感覚が残ったままだった。

 そんな、暗いナオの部屋の机には、受け取った封筒が置いてある。


 明日も、仕事だ。

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