気の向くまま
皇太子はのんびりと馬の背で揺られていた。周りを見渡すと長閑な丘陵が広がっている。小麦が青々と育ち始めている。ハビエル王国は農業国と言われているだけはある。
今居るところはつい最近までは王家の直轄地だったところで、ハビエル王国救国の英雄である魔女アストリット・ベルゲングリューンの父親が侯爵という爵位を得るときに国王ルシアノ・ハビエルから賜った領地だ。娘である魔女のお陰で得た領地とはいえ、領民による新領主への評価は異常に高い。王家の直轄地だったころに比べ、税率が低く、直轄地の時は得られなかった職業の選択の自由もある。今までは男は農業だけ、そして女は家事だけと決められていたが、魔女の父親である侯爵の名において発布された布告では男も女も共に好きなやりたい職業を選べるようになっていた。侯爵の跡取り息子であるヒルデブレヒト・ベルゲングリューンがその妻となった美しい令嬢とこの領地の領都であるベゴーニャ地方の商業都市アコスタに住み始めてからというもの、領都に華やかな人々や商家、職人たちが王都から移り住むようになり、町が活気づいていった。
この地に来た貴族というものは、皆ハビエル王国の王宮で役人をしている者の息子や娘たちで、ベルナール帝国の出身の亡命貴族の中で、初の領地持ち貴族となったベルゲングリューン家に誘われて侯爵家の役人としてやってきた者たちだった。
またこの地にやってきた商家も、ベルゲングリューン家所縁の商家であり、魔女の家族という威光も手伝い、将来の発展を見込めると踏んだ商家が分家を造り店を構えることになったためだ。
町は貴族たちの住む地区、商人たちの商業区、職人たちの住む職人街、平民の住む地区、そして外部からの旅行者たち用の宿舎街とに柵で分けられていたが、宿舎街以外は厳格に分けられた訳ではなく、領都の者たちは身分を問わずに自由に行き来していた。
ちなみに宿舎街は警邏隊という庶民で構成された町の治安を取り扱う警察機構で管理され、揉め事も一手に引き受けて処理をしている。宿舎街の中心は高級宿で、領都郊外に近くなればなるほど安い宿となっていくが、街の中心と郊外近くの治安は、思うより差はないと言われている。
領都民の領主に対する評判はあの魔女の家族という贔屓目を差し引いたとしても、非常に高く、感じられた。領地の民は心から領主に心を寄せたらしく、あのとか、例のとかで冗談めかして話すときにも嫌悪感を示す者は皆無だった。
短期間で悪意を示す者がいないのは相当善い行いをしたのだろう。そして多分、何かの時には救国の英雄である魔女が助けに来ると思われているからに違いない。この領地を手に入れるのは、本当に魔女の力を考えなければ簡単だろうが、家族に手を出そうとしたときの魔女の怒りを向けられることへの恐れから攻撃をためらうことだろう。
何もしないでいても、馬は静かに脚を進めていたが、時折脚を止める。そのようなときには鐙で腹を軽く小突くと、馬は大人しくまた歩み始める。後ろに続く長剣を腰に佩いた護衛たちも合わせて馬をのんびり進めている。ただ護衛たちが跨っている馬たちがその進む速度に好んで従っているとは限らない。事実脚を高く上げるようにして、もっと早く進みたいとアピールするものもいた。しかし、護衛の馬がいくら早く進みたがっても、護衛が守るべき主人の馬は、一目で分かるようにのんびり進んでいる。そのため、護衛たちは何とか馬を宥めるしかない。護衛の馬は鼻を鳴らしたりして、結局はイライラと銜を咬んだり、あるいは歯をむき出す馬もいる。
「ハビエル王国は小麦の植え替えの時か?青々としている」
皇太子が隣りに並び馬を進める護衛に話しかけた。
「・・・ちょうどその時期になりますな」
「今ハビエル王国はヴァリラ連邦国内に侵攻し、領土を席巻していると聞く。その進軍を支えているのはこの糧食になる農産物ということだな」
「・・・そうでしょうな」
「帝国でも小麦は作っているが、ここまでの面積では作っていないな。ハビエルは兵が飢えることにならなくて良いな」
「・・・帝国の兵は侵攻で飢えることもしばしばありますからな、死ぬことはありませんが」
「そうだ、対陣時に耕作をさせる兵の部隊を作ったらどうであろうな。戦闘もこなすが、主に耕作し糧食を確保するための兵は糧食の不安も減らせる。もちろん速攻では無理だが、長対陣の場合は積極的に行ってみれば良いかもしれん」
「・・・殿下の思うがままになさいませ」
皇太子がほぼ一方的に話し、護衛はただただ不敬にならないように相槌を打つだけだ。
「陛下に上奏してみよう。私が出撃時にその耕作兵部隊を連れて行けるように、農場に派遣し耕作を覚えさせる。・・・陛下は嫌とは言われまい」
「・・・そうでしょうな」
皇太子に話しかけられている護衛は、話に相槌を打ちながらも周囲に注意を向けており、物陰や物音にも一瞬反応をしている。腰の長剣を引き抜いてはいないが、常に臨戦状態になっていた。
ベルナール帝国の皇太子ローレンツ・アルムホルトは、実のところ周囲の状況を理解して居ないときがよくある。皇太子は自分の考えに没頭していることが多く、そう言うときの彼は行動が鈍いと思われている。ただ、皇太子はもし万が一危険が迫っているときには、いち早く至高の渦から抜け出すことができ、そして次の行動も早い。ただ、往々にして皇太子はいつも頭の中で色々なことを考えており、対処に遅くなることが多い。不意打ちでの初撃に成功すれば、皇太子は打倒されてしまうだろう。そうならないようにするために、皇太子の護衛はいかにして皇太子への不意打ちを防ぐかに重きを置いていた。
先程から皇太子への等閑なりな返答をしている者は、護衛としての戦闘経験が深く、幼少期から護衛を務めているものだった。この護衛が護衛隊の隊長を務めており、隠れて護衛をするものもいる皇太子の護衛隊全体を統率している。皇太子の護衛隊は帝国内でも一二を争う護衛隊であり、皇太子が命からがら逃亡したことは今までにはない。
「そうだ。・・・そなたもそろそろ身を固めねばならないのではないか?ディーター」
どうやら、皇太子の思考は耕作兵から家族、家族から婚姻、婚姻から独り身、独り身からディーターと思考が行ったようだ。
「・・・そうですか・・・」
考えに詰まった皇太子護衛隊隊長であるディーター・イェリネクは力なく返すのが精一杯だった。皇太子の反対側で馬に揺られていた護衛隊の隊員であるフェリネク・バーデンがクスリと笑うのが横目で見えた。
「そなたは中々の見栄えなのだから、女どもが近寄ってくるのであろう?護衛隊のゲアリンデ・ゼンケルがよく嘆いていたぞ。女どもに囲まれて命令が出せなくなり、私の護衛を出来なくなるのが困ると言っていた」
カラカラ笑いながら皇太子が続けると、護衛は思わず呟いてしまった。
「あいつめ・・・」
「ゲアリンデを責めるなよ、ディーター。ゲアリンデは真面目な女性だ。ディーターにも遊び心があることなど、思いもよらんのだ」
「・・・余計なことをお聞かせいたしまして、お耳汚しでございました。・・・ゼンケル卿には殿下にはそのようなことを伝えないように申し渡しておきますので、お許しください」
「ああ、許す。だが案外面白いものだな、人の醜聞というものは。特に私に関係する者のものは」
護衛は皇都以外では皇太子が思うがままのことを言えと厳命するのでいつものように軽めの口調で言う。特に何かを意識して言ったわけではない。
「・・・そのようなことを言われますとあなたの婚約者様に告げ口をしますよ、殿下。・・・魔女の痕跡を追いかけていると知れたらお困りになるのではありませんか?」
その言葉を聞き、皇太子が言い淀んだ。ディーターとフェリネクが訝し気な表情になる。
「・・・ああ、まあ、そうだな・・・」
「・・・」
「・・・」
護衛二人は皇太子の左右から顔を見合わせた。
「・・・まあ、・・・その、なんだ・・・、フリーデリンデ・レージンガー侯爵令嬢とは話が合わなくてな、・・・話すのが苦痛なのだ」
「・・・レージンガー侯爵は内政貴族の重鎮ですが、その令嬢は政治には興味がないと言われるのですか」
ディーターの言葉に、フェリネクも頷く。
「・・・それは難儀ですね・・・」
皇太子の護衛隊なのだから、隊長のディーター以外も皇太子の話を聞いている。皇太子の興味は帝国国内だけではなく色々について向いているのだが、婚約者の令嬢はあまり皇太子のような視野を持っていないらしいと、フェリネクも察しがつき、思わず呟いてしまった。
「・・・話が合わないのだから、向こうも避けているし、私も避けているしな・・・」
「・・・左様でしたか・・・」
それから暫く無言のまま一行は道を進む。
陽が中天に登りかけた時、時間に気が付いたように皇太子は道の彼方を見つめた。
「ああ、少々時間が過ぎたな。急ごうか」
そして皇太子はのんびり進んでいた馬の手綱を掴み直す。
「・・・かしこまりました」
護衛がそう答えると、皇太子がのろのろ進んでいた馬の腹を強めに鐙で蹴る。驚いた馬が前に飛び出す。
皇太子が走り出すとその後に護衛たちの馬が続いた。
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