第五章:クロッシング・トライアングル/01
第五章:クロッシング・トライアングル
「ねえお兄ちゃん、なにしてんの?」
それから、更に一週間が経過したある日のことだった。
午前の休み時間、自分の席で窓枠に肘を掛けながら、独り読書をしていた戒斗に琴音が話しかけてきていた。
「何って、見たまんまの読書だよ」
と、戒斗は読んでいた文庫本から視線を上げる。
開けた窓から吹き込んでくる風に、ふわりと揺れたページが捲れないよう指で押さえながら、戒斗はすぐ前に居る琴音と目を合わせた。
「なんだよ、俺が本読んでちゃおかしいか?」
「うーん、そう言われればそうかも」
「おいおい……」
「だってさ、お兄ちゃんって本読むイメージなかったし。昔はそんなに読むタイプじゃなかったよね?」
椅子に前後逆になって座りながら覗き込んで言う琴音に、戒斗は「……まあな」と、また文庫本に視線を落としながら頷く。
「姉ちゃんがしょっちゅう読んでたからな。その影響なのかもしれん」
「あー、そういえばお姉さん居たね。確か……
と、琴音はニコニコしながら言うのだが。戒斗はスッと目を細めると。
「…………今は、どこに居るか分からないんだ」
少しだけシリアスな声で、ポツリとそう呟いた。
「……ごめん、変なこと聞いちゃった?」
「いや、いいんだ。事実だしな」
「じゃ、じゃあさっ! 弟くんも居たよね? 名前は……そうだ、
琴音としてみれば、話題を変えようとしての発言だったのかも知れない。
だが……戒斗は目を細めたまま、表情に微かな影を落として。
「――――ずっと前に死んだよ、弟は」
そう、小さな声で呟いていた。
「……ホントにごめん、変なことばっかり聞いちゃってるね私」
「気にしなくていい、いつかは言おうと思ってたことだ」
「でも……!」
「本当に、気にしないでくれ。それよりお前は普段あまり読まないのか?」
戒斗は敢えて話を逸らすように琴音に訊く。今の話はあくまで戒斗の中ではもうとっくに区切りがついていること。彼女にはこれ以上、気にしないで欲しかった……だから戒斗は自分から話題を変えていた。
訊かれた琴音は「んー?」と唇の下に手を当てて少し思案し。
「……言われてみれば、あんまり本って読まないかも。学術書とか論文とかは別だけどさ、小説とかは最近めっきり読まなくなっちゃったなー」
「だったら、何冊か貸してやろうか?」
「ううん、いいよ別に。教えてくれれば電子で買っちゃうから」
「そうか? 折角なら電子より紙の本を読んだ方が良いと思うが」
「電子書籍の方が便利じゃない? どこでも読めるし」
「手軽なのはその通りだし、理解はするが……出来るだけ紙の本で読んだ方が良いと俺は思ってる。確かな存在感とか、紙の匂いとか、ページを指先でめくる感覚……っていうのかな。そういうのは、やっぱり大事にしたいだろ?」
ま、今のも姉ちゃんの受け売りなんだがな――――。
言って、戒斗はパタンと栞を挟んだ本を閉じる。
「…………でしたら、私に何冊か貸して頂けませんか?」
と、その時になって横から話に入ってきたのは――遥だった。
琴音の隣席に座っていた彼女が、二人の方に振り向きながら言う。戒斗は「ん?」ときょとんとして、
「貸す分には構わないが、どうした藪から棒に?」
「いえ……以前から戒斗が読まれている本、私も興味があるタイトルでしたから。貸して頂けるというのなら、是非に」
「へえ、意外だな」
「これでも、昔は好きでよく読んでいましたから。……尤も、最近はそんな暇もなかったのですが」
「ならいい機会かもな。後で何冊か見繕って貸してやるよ」
「ふふっ、楽しみにしています」
振り向いた遥の浮かべる表情は、いつも通りの薄い無表情。
でも、不思議と戒斗には――――ほんの微かにだが、彼女が笑っているようにも見えていた。
普通の人なら気付かない、ほんの些細な変化に気付いただけかもしれない。現に琴音はそんな遥の違いに気付いた様子はない。
(小さな違いに気が付くのは、その相手に興味がある証拠――――か)
そこで戒斗が思い出したのは、かつて姉に――
『――――表情でも、仕草でも。ほんの小さな変化に気付くというのは、その相手に興味がある何よりの証拠よ。これは将来きっと役に立つわ。だからよく覚えておきなさい、戒斗』
もしかしたら、自分でも気付かぬ内に少しだけ彼女に興味が湧いているのかも知れない。どうしてだかは分からないが……戒斗は姉に言われたことを思い出しながら、ふとそう考えていた。
(長月遥……不思議な女の子だな、君は)
「……? 戒斗、私の顔になにか付いていますか……?」
「いや、そういうわけじゃない。ボーっとしてただけだ」
「あーっ、お兄ちゃんってば遥ちゃんのことジーっと見つめちゃってー。なになに、遥ちゃんに興味あるのー?」
「……そうなんですか?」
「だから違うってのに!」
と、こんな風に賑やかに過ごしていれば、チャイムの音色が鳴り響いて――次の授業が始まろうとしていた。
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