第四章:日常の中に潜むもの/03

「うん、うん……ふふっ、そうなの」

 その頃、とあるマンションの一室では――琴音がベッドにごろんと寝転がりながら、誰かと楽しそうに電話をしている最中だった。

 一人暮らしにはちょっと広すぎる部屋の中、寝間着でリラックスしながら話す相手は、遠く離れた実家に居る彼女の母親だ。戒斗たちが決意を新たにしているとはつゆ知らず、琴音は何も変わらない一日の終わりを楽しく過ごしていた。

「そうそう、戒斗お兄ちゃんがウチのクラスに来たの。……うん、隣の家に住んでたあの子だよ。嬉しかったなぁ……でもびっくりしちゃった。まさか同じクラスに転入してくるなんて思わなかったからさー」

 楽しい会話は、いつしか彼の話題になっていて。琴音は今日まで彼と過ごした日々のことを、笑顔で電話越しの母親に話す。

「それでね、お兄ちゃんが来るちょっと前に遥ちゃんっても転入してきたんだけど、そのとも仲良くなれたんだー。最近じゃいっつもお兄ちゃんと遥ちゃんの三人で遊んでるかな。

 ……えっ? いやいやいや! お兄ちゃんとはそんな関係じゃないって! そりゃあ……さ、そうなれたらなーって思わなくもないけれど、でも会えたばっかりだし、まだ早すぎるよ」

 ベッドの上をゴロゴロと右に左に転がりながら、どこか恥ずかしそうに、でも満更じゃなさそうな顔で言う琴音。

「……ん、大学のこと? それなら大丈夫だよ? 卒業まではちゃーんとこっちで通うつもりだし、研究室に戻るのはそれからでも遅くないからって教授も言ってくれた。うん……うん。だからさ、卒業までは花の学生生活をちゃーんと楽しもうかなって」

 ――――日本へは、あくまで短期留学なのだ。

 といっても、学園をちゃんと卒業するまでの間はこっちに居られる。短期留学というには割と長い期間だが……それでも卒業すれば、大学のあるイギリスに戻らなきゃならない。

 それもいいかな、と今までの琴音は思っていた。日本に戻ってきたのは故郷が恋しかったからとか、そういう理由も勿論だけど……一番はやっぱり、17歳らしい学生生活を、学園での青春を送ってみたかったから。

 だから、卒業してイギリスに帰ることになっても、それはそれでいいやと思っていた。

 ――――彼と、また出会う日が来るまでは。

 こんな場所で、こんなタイミングで彼と……戒斗と、お兄ちゃんと再会できるなんて想像もしていなかった。

 もちろん、再会できて凄く嬉しい。戒斗や遥と一緒に過ごしてきたこの一週間、びっくりするほど楽しい毎日の連続だった。

 ……でも、同時に考えてしまうのだ。

 もしも卒業したら――イギリスに帰ったら、また彼と離れ離れになってしまうんじゃないかって。

 それが、ほんの少しだけ琴音の心に小さな棘を刺していた。意識しなければ気付けないほどの、ほんの小さな棘を。

 だからこそ、電話の向こうの母親に向かってそう言う琴音の顔には、ほんの僅かな影色が差していた。

(……でも、そんなのは今考えることじゃないよね)

 同時に、そうも思う。こんなのは今考えるべきことじゃない。そんな面倒なことは一旦横に置いておいて……今はお兄ちゃんとまた会えた喜びを噛みしめて、この楽しい日々を目いっぱい楽しまなきゃって。

「ふふっ、そうだね。……うん、そろそろ寝るよ。また電話するから。それじゃあ……おやすみっ」

 そう思いながら、琴音は電話を切る。

 電話の切れたスマートフォンを傍らに放って、うーんと伸びをする琴音。

 そんな彼女の頭からはもう、つい数秒前までよぎっていた不安は消えていた。心に刺さった小さな棘の痛みも、すっかり忘れてしまっていた。

 代わりに思うことは、明日は何をしよう、二人とどこに行って遊ぼう。そんな楽しいことばかり考えるのが、今は楽しくて楽しくて仕方ない。

「さーて、今度はお兄ちゃんたちをどこに連れて行こっかな……♪」

 ベッドに寝転がりながら、自然と琴音は笑みを零していた。

 ――――明日も、素敵な一日でありますように。

 音もなく忍び寄る魔の手にも、人知れず戦う二人の決意も知らぬまま。ただ楽しい明日への期待を胸に、琴音はそっと目を閉じるのだった。





(第四章『日常の中に潜むもの』了)

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