第一話
冬が終わって、しかし春というにはまだ少し早い晩だった。
長く続いていた雨がようやく止んだ夜空には、まだ灰色がかった雲が垂れ込めている。星はもちろん月も隠れていて、街灯りもない一帯は冷たい闇に包まれていた。
その闇の中に、微かな光があった。
雨の名残でぬかるんだ道沿いに、ぽつんと立つレンガ造りの一軒家。その窓にかかったカーテンの隙間から、一筋の光が漏れ出していた。
それは静かに燃える火だ。花瓶がある以外には飾りつけもなく、壁から壁にわたされた紐にいくつも衣服のぶらさがった部屋、その壁面に組み込まれた暖炉の火。
安楽椅子に腰掛けながら、フルエット・スピエルドルフはその暖かな火にあたっていた。二本ずつの三つ編みとロールヘアに結わえた長い紫の髪が、つややかな黒のゴシックドレスの振袖が、安楽椅子と一緒になって揺れる。
テーブルに置いたランプの光に輝く金色の瞳は、手元の新聞記事、その一角に向けられていた。黒レースの手袋に包まれた細い指先が、文字をなぞる。
とある村に人狼が現れ、村人が数名犠牲になったという。目撃者によれば、血のこびりついたような赤黒い毛並みが特徴的らしい。そこから取ってか、記事では『血狂い』などと呼ばれていた。後半には、事件前に目撃されたという不審な男の姿絵が、人狼のものと共に掲載されている。
記事に目は向けたまま、フルエットは小さなため息をこぼした。
「どうせ襲うなら、私にしておけばいいものを」
そのまま次の記事に視線を移した時、水の跳ねる音を聞いた気がした。
「……うん?」
視線が血狂いの記事に戻る。奴が出た村は、この家からはだいぶ距離がある。事件が記事になるまでのタイムラグを考慮しても、まだこの辺りに着きはしないだろう。ならばこの辺りに潜む異類かとも思ったが、それにしては後が静かだ。窓が割れる気配もないし。
このまま知らん顔しつつ警戒していた方が安全だろうが、好奇心が勝った。よしんば異類だったとしても、命の心配はしなくてもいいし、今は命以外に心配するべきものもない。つまり心配要らない。
ランプを手に取り、窓に近寄る。さっと一気にカーテンを引いて外を見やった。
窓の向こうの闇の中に、地面に横たわる輪郭を見た気がする。
もっとよく見ようと窓を開けると、遠く聞こえたフクロウ鳴き声と一緒に、夜気が部屋の中へと流れ込んだ。雨に洗われた夜の冷たさに背筋を震わせながら、フルエットはランプを闇に突き立てるように身を乗り出した。
投げかけた光の向こうの闇に目をこらすと、水たまりに誰かが倒れているのが見える。
――行き倒れ?
ランプを目印代わりに窓際へ置き、玄関へ駆け出す。壁に提げてある、外出用の頑丈なランタンを手に取って外へ出た。
暖炉の部屋の外へまわる。――居た。ランプの投げかける光の下、さっきと同じように水たまりの上にぶっ倒れた人影がある。
仰向けにぶっ倒れたそいつは、垂れ目で幼げな顔立ちをした少年だった。そのわりに背は高く、フルエットより一まわりほどは大きいだろうか。
「これは……」
少年の身体を頭からつま先まで眺め、フルエットは思わず顔をしかめる。
ひどい有様だった。
肩まである髪は、血と泥にまみれて元の色がよくわからない。顔はそういうフェイスペイントかと思うほどに、あざと血と火傷で青と赤に塗りつぶされている。着ている服は布袋に手と首を通す穴を空けただけのような代物で、こいつもやはり血と泥でぐちゃぐちゃだ。その穴から投げ出された腕は、右には肘から手首まで走り大きな切り傷、左にはいくつもの擦り傷や切り傷とやはり傷だらけ。乾いた血が、水たまりに溶けて、今まさに出血しているようにも見える。
そして極めつけは、足首。輪っか状の何かの跡が、くっきりと刻まれていた。足枷でもつけられていなければ、こうはなるまい。
まとめると監禁されて暴行を受け、どうにかここまで逃げてきて意識を失った。そう思わざるを得ないような状態だ。
「だが、イルーニュの治安はここまで……しかし、この辺りに他の街は……」
もっと遠くから逃げてきたのだろうか? だとすると、この間までの雨の中をずっと?
いや、今はそれどころではない。憶測を並べ詮索するより先に、手当てをしなければ。
まずは水たまりからどかさなければと、ランタンを置いて少年の身体に触れる。案の定、ひどく熱い。しかもただ熱いのではなく、にじみ出るようなじっとりとした嫌な熱さだ。
「お、重い……っ!」
自分より大きいうえに意識のない身体を、ほとんど引きずるみたいに水たまりからどけた。ドレスを泥で汚して、ぜいぜい肩で息をしながら、目の中に入りそうになった汗をぬぐう。そんな姿を笑うように、フクロウの鳴き声がまたどこから聞こえた気がする。
「こ……これでよし。次は医者か……!」
最寄りのイルーニュの街までは、自動二輪で三十分ほど。今すぐ向かえば、きっと間に合う。二輪をしまってある小屋に向かおうとして、しかしフルエットははたと足を止めた。
月明かりもない夜闇の中、雨の名残でぬかるんだ道を、意識のない重傷の人間をサイドカーに乗せて、無事に街までたどり着けるだろうか。事故でも起こそうものなら、その時点で少年はおしまいだ。
より安全な択を取るなら、医者に来てもらうべきだろう。どのみちフルエットは街に行かなければならないから、少年を家まで運ぶ必要が出てくるが。まさか野ざらしにしたまま、医者を呼びに行くわけにはいくまい。
「こんなことなら、電話を引いておくべきだったな」
ひとりごちながら、フルエットは少年を抱え起こそうとした。ドレスや髪が泥で汚れるが、今はそんなこと気にしている場合ではない。少年の肩の下に身体を潜り込ませ、なんとか立ち上がろうとした時だった。
視線を感じた。
それは捕食者の視線だった。フルエットがこれまで生きてきて、何度も感じてきたもの。
とっさに少年の身体を突き飛ばした瞬間、フルエットの右胸は鋭い何かに斬り裂かれていた。
「ぐあっ……!」
激痛、鮮血、ドレスが真っ赤に染まる。斬られた際の衝撃でよろめき倒れ込んだ直後、ひとまわりほど大きな影が彼女に覆いかぶさった。
ずぶり。
尖った何かが、切り裂かれた右胸に突き刺さる。
フルエットの口から、熱い血の塊がごぼりとあふれ出した。めまいを起こしてぐるぐるまわる視界の中に、爛々と輝く目をフルエットは見た。
大きな目に、羽毛で覆われた身体。二の腕のあたりから生えた大きな翼。彼女を襲ったそいつは、フクロウのような姿をした異類だった。長い雨で狩りができずに餓えたのが、フルエットの血を嗅ぎ付けたらしい。
「えほっ、がっ、ぁ……!」
文字通りくちばしを突っ込まれたまま、フルエットはかすむ視界で少年の方を見た。
おい、君。
痛みと失血のせいだろうか。言葉はほとんど、まともな声にならなかった。それでも少年に届けばと、フルエットは震える唇を動かした。目を覚ませしてくれ、逃げてくれ。私の巻き添えにならないでくれ。
やがて一瞬、視界がまともな像を結んだ時。
少年の姿は、既にそこになくなっていた。
夜の闇を、淡い緑の閃光が切り裂く。
直後、フクロウの異類が地面を転がっていた。二度ほど地面の上を跳ねた後、フクロウはすぐさま起き上がった。
「かはっ、がっ……!」
フルエットは驚愕の声の代わりに、血混じりのかすれた吐息をこぼした。栓をする格好になっていたくちばしが抜けたことで、胸元からの出血が激しさを増す。まるで壊れた噴水だ。
かすむ視界に、フルエットはフクロウと対峙する影を見た。
その影は少年と同じ袋のような服を着ていて、しかしそれ以外のすべてが少年と異なっていた。
服を突き破って背中から伸びる、鋭角的な蛾の三角翅。額から伸びているのは、やはり蛾のような触覚。しかし腕や脚は、むしろ甲虫のような外骨格に覆われている。そのうえ左腕は、サソリのハサミのよう。そしてその全ては、透き通るような淡緑色。
その姿は、明らかに異類だった。
フクロウが飛び立つ。小ぶりなナイフほどもある脚の爪を立て、淡緑色の異類へと蹴りかかった。
淡緑色が無造作に払った右腕が、あっさりとその蹴りを弾く。
空中でひっくり返るフクロウ。しかし即座に体勢を、
一閃。
鋭い音が夜を引き裂き、フクロウの翼の先がぼとりと落ちた。一拍遅れて、血を噴き出しながらフクロウの本体が墜落する。
地面の上でもがくフクロウを、淡緑色は追撃しなかった。よく見れば、その身体はふらついていた。しないのではなく、できないのだろう。
負け惜しみのように一声鳴いて、フクロウが逃げていく。それを背に、淡緑色はふらふらした足取りでフルエットに近づいてきた。複眼に血染めのフルエットを映し、大顎をぎちぎちと鳴らして異類は呟く。
「ごめ……おそかっ……」
その声は、妙に悲しげで。
獲物の取り合いかと思ったが、だとするとあまりにも不自然な言葉に疑問を抱く。しかし失血でぼうっとしてきた頭では、それ以上は考えられなかった。
「君は……いったい……?」
かろうじてしぼりだした言葉に答えることなく、淡緑色の異類は倒れた。三角翅と外骨格が消え失せ、ボロボロの手足があらわになる。異類の様相を半ば残した頭には、あどけない垂れ目。まぎれもなく、先ほどの少年だ。
相手が異類だったことなど忘れたように、フルエットは力の入らなくなってきた身体を引きずって少年に這い寄る。震える腕で彼に触れようとした時、まだ残ったままの大顎の間から、細長いものが飛びだすのを見た。
蛾の口吻のような器官が、フルエットめがけて伸びてきたのだ。
しかしその先端は、傷口に触れることはなかった。少年自身の手が、抗うようにその口吻を押しとどめていたから。
その様子を、フルエットは瞳を細めて見つめた。さっきといい今といい、どうやらこの少年はフルエットが知る異類とは違うらしい。なら、このまま死なせるわけにはいかない。寝覚めの悪い思いはしたくない。
だから、やることは決まっていた。例えそれが、少年の抵抗を無下にするものだとしても。
少年を抱きしめる。相変わらずひどく熱いのを感じながら、フルエットは己の傷口に少年の口吻を突き刺した。
「ぅ、ぐっ……」
直後、血が吸い上げられる感覚。そして少年が人間の目を見開き、異類の複眼が揺れた。頭を引いて、口吻を引き抜く。
しかし、そこで限界が来たのだろう。少年はがっくりとうなだれて、動かくなってしまった。まだ残っていた複眼が、大顎が、口吻が、しなびるように消えていく。
その様を興味深げに見つめながら、フルエットは血混じりの咳を繰り返した。そのたびに胸が刺すように痛み、視界がかすむ。久々に血を流し過ぎてしまったらしい。
「……すまないが、医者は間に合いそうになくてね」
すっかり少年の姿に戻った少年の額に触れ、フルエットは血染めの微笑を浮かべた。
直後、彼女の意識はぷっつりと途切れた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます