血の娘と吸血蛾

氷雨@風雅宿

 あれは確か、まだ十歳にもならない頃のことだったと思う。

 フルエット・スピエルドルフは、物音で目を覚ました。天窓から降り注ぐのは月明りだけ、空はまだ暗い。

 大きなベッドの上、隣で眠るぬいぐるみを抱きしめて部屋を見まわす。特に物が倒れたりした様子はない。一番倒れそうな、チェストの上に並べた本も無事だ。

 なら、物音は気のせいだったのだろうか。だけども不安が拭えないのは、昼間に使用人たちの噂話を聞いていたせいかもしれない。少し迷った末、フルエットはベッドの傍らに垂れ下がる紐へ手を伸ばそうとした。

 ――バン!

「っ」

 また音がして、フルエットは身をすくませた。窓の方からだ。

 フルエットの部屋の窓は、内側を分厚い木の板と閂で塞がれていた。招かれざる来訪者を阻むために据えられたソレには、炎の様に波打つ大きな十字が刻印されている。

 それを見つめたまま、というより目を離せなくなったまま、少女はベッド脇の紐を手探りでつかむ。

 次の瞬間、木の板に穴が開いた。十字の刻印の右上あたりに、人の頭が入りそうな穴が。

ガラスが割れて木が裂ける音に混ざって、少女は悲鳴をあげていた。

 紐をつかんだ姿勢のまま固まってしまったフルエットの目が、穴の向こうから男が頭を突き出すのを見る。じろりと部屋を見まわす男と目があって、少女の喉はあえぐような音を立てた。

 男が鼻をひくつかせる。穴から吹き込んだ夜気が、獣臭さを帯びた。

「ああ……やっぱり。極上ものの匂いだ」

 呟いた男の頭が、メキメキと音を立てて形を変え始める。あっという間に狼のソレに変化していく様は、グロテスクな粘土細工のよう。牙の並んだ口元から粘つく涎がだらりと滴って、獣臭さにすえた悪臭が混ざる。

 動けないで居るフルエットの唇から、震えた声が漏れた。

「い、るい」

 異類。

 動物、虫、あるいは植物。とにかく人とそれ以外を混ぜ合わせたような、もしくはそれらの生き物を無理やり人の輪郭に押し込めたような姿をした者たち。しばし餓えて、時に手慰みや興味本位で人を襲う化け物。それらを、人々は異類と呼んでいた。

 特に狼の異類は、人狼とも呼ばれひときわ恐れられていた。異類としても稀な、人と異類の姿を自由に行き来できる性質からくる神出鬼没さと、特に好んで人を喰う獰猛さを持ち合わせているために。

 狼の頭が、穴の向こうに引っ込む。その瞬間、フルエットの身体は動くようになった。というよりは、緊張が限界を迎えて脱力したと言うべきかもしれない。そのまま、ほとんど倒れるみたいにして紐を引いていた。

 震える腕でぬいぐるみを抱きしめ、

 木の板が閂ごと吹き飛んだ。

 ぬいぐるみが潰れるくらいに、フルエットの小さな身体が強くこわばって縮こまる。

動けないままバルコニーを凝視するフルエットの視線の先には、ガラスも板もなくなった窓を悠々と乗り越える異形が居た。頭だけでなく、全身が狼の姿となった男が。

「あ……あぁ……」

 フルエットは、震えながらぬいぐるみを抱きしめることしかできない。

 そんな彼女をなぶるように、人狼は飛びかかる姿勢を取った。ナイフのような爪を一本ずつじっくりと床の絨毯に食い込ませ、ゆっくりと身体を沈めて狙いを定め――。

 部屋の扉が蹴破られる。

「そこまでにしてもらえるかしら」

 続く声に、フルエットの身体の震えはぴたりとおさまった。自由を取り戻した身体が、弾かれたように振り返る。

「母様!」

 肩マントを羽織り、一本の剣を携えた女性――フルエットの母様が、そこに立っていた。報せがあってすぐに駆けつけてきたのだろう、マントの下はネグリジェ姿で、腰まで届く黒髪は寝る前に緩く結わえた時のままだ。

「もう大丈夫だからね」

 フルエットへ柔らかく笑いかけた母様が、板の刻印と同じ波打つ十字の刺繍が施されたマントを翻す。剣の柄に手をかけながら、彼女は一転して鋭い眼差しで人狼に問うた。

「ここ最近、この辺りで暴れてた人狼はあなた?」

 人狼が飛びかかる姿勢を止めて、母様の方へ向き直る。そのまま襲いかかるでもなく、食事前の雑談に興じるような調子で答える。

「うん? ああ、そんなに噂になってたのか。どうりで狩人があちこち居たわけだ」

「……彼らはどうしたの?」

「うん? ほどよく締まってて、悪くなかったぞ」

 でも、と。人狼がフルエットを横目に見た。こぼれる涎に、フルエットは身体を少しこわばらせた。だけど今は、母様が居てくれるから大丈夫だ。

「そこの子供の方がもっと良さそうだ。極上ものだろう、あれは」

「そう。……窓の修繕費は後で請求しに行くから、今は帰ってもらえる?」

 母様の声が、ワントーン低くなっていた。

 人狼は答えない。というより、母様の言葉を理解するのに時間がかかったらしかった。ややあって、首を傾げて。それから、ため息をつくみたく唸り声をあげて、腹をさすった。

「困ったな。今日はもう子供しか入らないんだが」

 瞬間、床に散らばる木片とガラス片が弾け飛んでいた。

 両者の間の距離が消し飛ぶ。フルエットが気づいた時にはもう、人狼は母様の目の前に居る。人狼が母様に喰らいついているように見えて、悲鳴じみた声が漏れた。

 違うと気づいたのは、人狼の喉元へ突きつけられた剣の切っ先が見えたからだ。その剣は、真白の聖火に包まれている。

 今さらのように、放り捨てられた鞘が絨毯の上に落ちた。

「止まってくれてよかったわ。血生臭い場面は、あまり娘に見せたくないもの」

「うん? ちょっと驚いただけだぞ」

 直後、人狼の姿がかき消える。

「かあ、」

 さま、と。母を呼ぶほどの間もなかった。

 呼び終える前に、人狼が母様の前にひざまずいていたからだ。肩を抑えているから、たぶんフルエットからは見えない方の腕を斬り落とされたのだと思う。太く毛むくじゃらの腕が転がっているのが二人の足元にかすかに見えて、フルエットはぬいぐるみに顔をうずめるようにして目を伏せた。

「……うん? なんだ、お前。狩人のくせに、なんで俺よりこんなに速い」

「もう一度言うわ。……今は帰ってもらえる?」

 人狼は無言。しかし割れたガラスを踏む音、そして窓枠がきしむ音が聞こえた。

 するとすぐさま、母様が駆け寄ってくる気配。顔を上げたフルエットは、そのままぎゅっと包み込むように抱きしめられた。身体がじんわりと温かくなって、ぬいぐるみを抱きしめていた手から力が抜ける。

「大丈夫、フルエット? 怪我はしてない?」

「うん、ありがとう母様。でも、狼が逃げたんじゃ……」

「大丈夫、すぐに追いかけるわ。あなたは、今晩はゼフィの所で一緒に寝なさい」

 最後に頭をそっと撫でると、母様は置いていた剣を取って駆け出した。窓枠を飛び越え、バルコニーから飛び降り、月夜の向こうへと消えていく。

 一人残されたフルエットがバルコニーの向こうを眺めていると、扉の方から「フルエット様!」と呼びかける声が。

フルエットとさほど変わらない年恰好の赤髪の少女が、寝間着姿のままで部屋を覗いていた。

「ゼフィ」

「このような服装で失礼します」

 赤髪の少女――ゼフィは、一礼するなり駆け寄ってくる。フルエットが無事なのを確かめると、その顔にパっと笑顔が咲いた。

「ご無事でなによりでした。異類とモリアミス様は……?」

「母様は、異類を追いかけていっちゃった。朝までには帰ってきてくれると思う」

「そうでしたか。ところでフルエット様、この後はどうされるのですか? お部屋がこれでは……」

 窓が全損した部屋を見まわして青い顔をしたゼフィに、フルエットはすこし悪戯っぽく笑う。

「母様がね、今日はゼフィの所で寝なさいって」

「わ、わたくしのところですか!? フルエット様をお連れするには、ふさわしくないかと……」 

 もじもじとうつむいたゼフィ。フルエットはその手を取って、ぎゅっと握る。

「母様が言ってるんだもん、気にしなくていいの。それとも、ゼフィは……わたしと一緒は、いや?」

「ま、まさか! わたくしの身にあまる光栄です!」

 ゼフィが顔を赤くして、はにかみながらぶんぶんと首を振る。

そんな従者の様子に、フルエットはついさっきまで異類に狙われていたことなど忘れたように表情を明るくする。

「じゃあ行こう!」

 するりとベッドから降りると、ゼフィの手を引いて駆け出したのだった。

 

これはまだ、十歳にもならない頃の記憶だ。

護ってくれる人も、手を取る相手も今はもう居ない。

 もう居ないが、それでいい。

 それでいいと、フルエットは思っている。

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