5

『チエロ———お前まさか、天飼を殺したのか!!!』

 天界からパスカルの怒号が聞こえる。チエロは短剣をしまおうとしていた手を止めた。

 足元には天飼の血が流れてくる。悪魔の血に比べて人間の血は温いんだなぁと、チエロは場違いに穏やかな感想を抱いた。

『天界に戻れる直前だったんだぞ! なぜこんな愚行を———』

 パスカルが頭を抱えている様子が目に浮かぶようである。天界からはパスカルの他にも様々な者の声が聞こえてきた。きっと彼の席の周りに多くの職員が集っているのだろう。それだけ非常事態だということだ。事件を起こしたのは私なんだけど。

 パスカルは周囲の者と早口に話していたが、やがてハッと気づきを得たかのように数秒黙った。

 そしてチエロに向かって叫んでくる。

『チエロお前まさか———天飼を天界に送るために⁉』

「———天界地上法第二一条……人間に危害を加えた天使は地獄に堕ちる」

 チエロは呟く。足元の血のぬめりを確かめるように爪先で床を摺り、天井を見上げた。年季の入った木目が見えた。

「そして第二一条の二、天使に殺害された人間は天界行きとする、だったわよね」

『馬鹿な! 天飼を茜鐘に会わせるために、殺したというのか!』

「私に六法を送ったのは間違いだったんじゃない? 頭良くなっちゃったよ」

 パスカルが机を叩く。鈍い殴打の音が聞こえてきた。パスカルは数回、机を叩いた後、荒れた息を強引に整え———

『——————愚かな』

 やっと、言葉を吐いた。

「えぇ、私は愚かね」

 天界との通信が、徐々に乱れてきた。

 天飼の殺害をもって、チエロは完全に堕天したのだ。地獄の関係者となってしまえば、天界とコンタクトを取ることができなくなるのである。

 チエロがローブから手鏡をだして頭上を確認すれば、ヘイローは粉々に砕け散っていた。

 羽の付け根がムズムズとする。軽く羽ばたてみると、夥しい量の抜け毛が舞った。血痕の広がる床一面に、新雪が降ったかのようにチエロの羽が積もる。天飼の死体の上にも、積もる。

 翼を身体の前面に曲げて見てみれば、白い羽はほとんどが抜け落ちていた。チエロが天使でなくなったからだ。羽毛を失った羽は赤黒い骨が露出しており、貧相な見た目だ。

 天使としてのアイデンティティが急速に失われていく。天界との通信ももうギリギリだ。

「パスカル、まだ聞こえてるかしら?」

『———な———ん———』

 酷いノイズ。

「私は地獄に堕ちちゃうわ。その前に、一つお願い」

 チエロの足元に、深紅の光を放つ魔法陣が出現する。地獄からのお迎えだ。

 魔法陣に吸い込まれつつ、チエロは通信を続ける。

「天飼はもう天界にいるかしら? 天飼を茜鐘の元に案内してあげて」

『——————ま——————チ——————』

 パスカルは必死にチエロの名を叫んでいたが、それでチエロの堕天が止まるわけでもない。

 ノイズまみれの通信は、ついに完全に途絶えた。

「………………ごめんね。馬鹿な天使で」

 結果としてパスカルに大いに迷惑をかけてしまう形になった。それはチエロの望むところではなかったが、天飼にあのような道を示すにはこれしか方法がなかったのだ。

 チエロは足元の魔法陣に沈んでゆく。首元まで沈降したところで、床に横たわる天飼の死体と目が合った。今までで最も生気がない顔をしていたが、今までで最も晴れやかな顔のようにも見える。

 その光景を最後に、チエロは完全に魔法陣に飲み込まれた。何も見えない。圧倒的な黒が周囲に広がっていた。これは地獄へ向かう通路なのだろうか。

 それとも、ここが既に地獄なのだろうか。

 掠れ行く意識の中、チエロは取りとめもなく考える。


(天使の本能は、人間を守ること、か———)


(普通に考えたら、悪魔を狩って人間を守ることがそうなんだけど———)


(破綻している人間を、天界に送るために殺すことは、天使の本能———?)


(それとも———)


(いや、そうに決まってる。でなきゃ、そんなこと思いつかない)


(そんなこと……———)


 意識が絶える。寸前、チエロは宙に揺蕩っているような浮遊感を覚えた。


(あぁ———)


(羽、散っちゃったんだもんな———)


(自分の選択を、後悔はしてないけど———)


「最期にあと一回だけ、空を飛べりゃ良かったのになぁ……——————」


 無限に広がる闇の中、チエロはひとひらの白い羽を見た気がした。


〈了〉

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

だてんのいちげき!~堕天使チエロは天界に戻りたい~ 黒田忽奈 @KKgrandine

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ