2
三十年前、この町を悪魔が襲った。
凡百の悪魔とは違う、巨大な魔力を持った大悪魔である。悪魔の討伐に降臨した天使は激戦を繰り広げたが、ついに悪魔に敗れた。
しかし天使を退けた悪魔も、相応に傷を負った。悪魔は自らの本拠地である地獄に帰るための魔力すらなく、人間を捕食しようと考えた。
深夜二時。討伐されることのない悪魔は、五つの家庭を皆殺しにし、十四人の人間を喰らった。
その五つの家庭のうち、最初に犠牲になった家の名は、天飼家といった。
家で眠っていた少年が目を覚ますと、黒煙が部屋を埋め尽くしていた。室内に立ち込める煙に喉が焦げる。息ができない。
少年は隣のベッドで眠っていた妹を叩き起こすと、一緒になって体勢を低くし、なんとか部屋を這い出た。少年たちの部屋は二階にあった。
少年たちが階段から一階の様子を見ると、そこは火の海だった。
階下のリビングからは、赤々とした炎の光を反射した、巨大な黒い尾がはみ出ている。その尾が不気味にうねったかと思えば今度は、悪魔が身をよじらせてリビングから出、階段の上の少年たちを見上げてきた。
少年はゾッとした。悪魔の上半身は人間体であった。
そしてその口元からは、親の着ていた寝巻の生地が垂れていたのである。
生地には夥しい量の血痕があった。
「ぎゃあああああああ!」
「うわぁああああああ!」
少年と妹は絶叫した。急いで廊下の逆側へと走った。背後からは悪魔が狭い階段を強引に這い上がってくる音がする。木造の家がギシギシと嫌な音を立てた。
少年と妹は廊下の窓から外へと飛び出した。庭の植込みの上に落ち、そのまま必死に走った。どこへ逃げれば良いのかも分からなかったが、とにかく家から遠ざかるように走った。
少年が背後を見れば、町は業火である。犠牲になった家は一軒だけではないようだ。夜空を赤く染め上げるほどの大火はこの世のものとは思えない。人々の叫びとサイレンの音が響く町は、まさに地獄のような様相だった。
「お兄ちゃん早く逃げよう!」
「う、うん……」
少年は妹に急かされ、また走りだそうとする。しかしその足は、恐怖によって竦んだ。
背後の燃え盛る業火の中、なお怪しく輝く一対の光があった。紫色のその光は炎の中であっても強く輝いており、先の悪魔の眼光であると知れた。少年はその双眸の威圧感に圧され、身動きが取れなくなってしまったのである。
悪魔の双眸が、一際強く輝く。奈落の底のような大口を開き、悪魔が甲高い声で叫んだ。神経におろし金を押し当てられているような、狂気的な叫び声が一帯を埋め尽くす。
その瞬間、少年は自分の心臓が、見えない何かに射貫かれたのを感じた。生半可な恐怖ではない。心臓を直に悪魔に握られているかのような、動脈にナイフを突き立てられているかのような、明確な死の予感。少年は全身から滝のような汗が噴き出るのを感じた。息ができなくなる。
悪魔は少年を睨み続けていたが、炎の中から出てくることはなかった。しだいに悪魔の眼光は、炎に包まれて見えなくなる。やがてズルズルと、悪魔の蛇状の下半身が地面をする音がしたかと思うと、その音はどこかへと遠ざかっていった。別の家を襲いに行ったのかもしれない。
ともかくとして、少年とその妹は悪魔に見逃されたようである。二人は燃え盛る町を背に走った。
二人は町はずれの河川敷に逃げ込んだ。鉄橋の下に二人で身を寄せ合う。恐怖と走り続けた疲労から二人は憔悴していた。身体の震えが止まらない。
町は未だ燃えている。しかし河川敷まで離れればその火の粉は飛んでこず、街灯もない橋の下は暗闇に包まれていた。
「……これから、どうなっちゃうんだろう」
妹が呟く。心の中が、未曾有の出来事に遭った衝撃で混乱していた。親は死んだ。家は焼け落ちた。子供二人が残されて、どうやって生きていけばよいのか分からない。
「ねぇお兄ちゃん、私たち、これから……」
言葉は涙に埋もれる。嗚咽の声が漏れた。
少年は妹を慰めたいと思った。大丈夫だと、不安はないと、自分が守ってやると、兄としてそう言葉をかけたかった。
しかし、できなかった。少年は膝を抱える妹の横で、同じように膝を抱えているしかなかった。
先ほど悪魔に見入られてから、身体の中が熱いのだ。炎の中を走ってきたためではない。脳の芯の部分が熱を持っているかのようだった。全身の血が沸き立っているかのように脈動し、落ち着けることができない。
加えて、横で泣く妹の存在が、その熱を加速させているように思えた。
(ダメだ。ここで僕が正気を失ったら、妹はどうなるんだ。この子を守ってやれるのは僕だけだ。しっかりしなければ———)
しかし、生まれて十年も経っていない子供の頼りない精神では、大悪魔の呪いを前に、理性を保っていられるはずもなかった。
(僕が———)
(僕が———)
(僕が——————)
………………
横で泣く妹の、赤くはれた頬が、涙を湛えた瞳が、熱を持った薄桃色の腿が、堪らなく扇情的に感じられる。
視界に、先の悪魔の紫色の双眸がフラッシュバックする。少年は知る由もなかったが、かの大悪魔のクラスは“色欲”だった。
少年の脳は限界だった。
少年は妹に襲いかかった。
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