或る男の告白
1
怯えきった天飼を、チエロはなんとか家まで連れ帰った。燃え盛る工場を後にする帰路、天飼は絶えずうわ言のように、止めてくれ止めてくれと呻いていた。
背後には朝焼けより苛烈に燃え上がる工場。緊急車両のサイレンが町中に鳴り響いていた。
帰宅して早速、チエロは天飼を座らせ、自分はその対面に座した。
「天飼、あなた、あの悪魔に会ったことがあるのね?」
「止めてくれ止めてくれ止めてくれ……」
「……三十年前、あなたはどこで何をしていたのかしら」
「止めてくれ止めてくれ止めてくれ止めてくれ止めてくれ止めてくれ止めてくれ止めてくれ止めてくれ」
「………………」
チエロは天を仰いだ。
「どうしよう。バグっちゃった」
『恐らく天飼はあの悪魔に対して何らかのトラウマを抱えているんだ。刺激しない方が良い』
天飼は部屋の隅にうずくまっている。チエロは憐れな天飼の背にとりあえず布団をかけてやり、自分はハンモックに腰掛けた。天飼を監視できるように、衝立を少しずらしておく。
パスカルは相変わらず資料を捲ったり忙しそうにキーボードを叩いたりしている。大悪魔との戦闘の報告をまとめるのに必死なのだろう。
「ねぇ、パスカル」
チエロは確かめたいことがあり、パスカルに問いかけた。
『何だ』
「あの色欲の悪魔が前回地上に現れたのは、三十年前なのよね」
『そうだ。天使一名が殉職した』
「そのとき、あの悪魔をどうやって地獄に追い払ったのかしら?」
『天使との戦いで、かの悪魔もそれなりに負傷したんだ。悪魔はしばらくの間地上に残存していたが、複数の人間を襲った後に自分から地獄へと逃げ帰っていったとされている』
パスカルの不確かな物言いが、チエロには引っかかった。
「……されている? 確証はないの?」
『現場に天使がいなかったからな。実のところ、天使が殉職したあとの悪魔の行動は明らかになっていないんだ。状況からそう推察できるというだけで、実際は被害に遭った人間の詳細などが不明となっている』
チエロは震えている天飼に視線をやる。彼の、色欲の悪魔を見た際の怯えようは半端ではなかった。むしろチエロが悪魔の亡骸を彼に見せてしまったことで、あの発作のような症状のトリガーが弾かれたかのようにも思えるのである。
「もしかしなくてもさ、天飼は三十年前にあの悪魔に襲われてるんじゃないかしら。あいつ今三十九歳なんでしょ? だからそうね、九歳のときに」
チエロはずっと思っていたことを口にした。
『可能性は高いだろうな。あれだけの大悪魔なら存在数も限られているから、他人の空似という可能性も少ないだろう。同一の悪魔に襲われたケースは十分に考えられる』
パスカルも同意見のようである。
つまり天飼は幼少期に悪魔に襲われ、そのトラウマを抱えて今まで生きてきたのだ。そして今回、トラウマの元凶たる悪魔に再び相対して、あのようなパニックを起こしているということだ。
「まさか天飼が悪魔被害者だったなんてね」
『思えば奴の言動には不自然な点があったな。天使を見ても、天使が悪魔と戦っていると知っても、奴には驚きがなかった。大抵の人間は天使を見ただけで腰を抜かすんだがな』
パスカルが椅子にもたれる音が聞こえる。
『つまり天飼は、ハナから天使の存在も悪魔の存在も知っていたというわけだ』
パスカルは打鍵の手を止め、そう結論づけた。
『実は、チエロが堕天したときからずっと、気になっていたことがあるんだ』
「? 何よ」
パスカルは「聞き苦しい話だったらすまない」と前置きをして、続けた。
『天飼がお前に乱暴を働いたときのことだ。チエロお前、あのとき天飼に抵抗できなかったのか?』
「何急に……抵抗なんてできなかったわよ。咄嗟のことだったし、天飼はすんごい力で……」
言いかけて、チエロは気がついた。
確かに、言われてみればおかしな話である。
天使であるチエロが、ただの人間である天飼に抵抗できなかった?
「あのときの天飼、すごい力だったわ。天使を無理やり押さえつけるなんて、まるで人間じゃないみたい。ねぇパスカル、あれって何だったの? 心当たりがあるの?」
『恐らくだが……天飼は三十年前に色欲の悪魔に遭遇して、そこで呪われたんだ』
「………………」
呪い。その言葉に、チエロは沈黙する。
『色欲の悪魔が用いる呪いは、人間の性欲の暴走だ。呪われた人間は性欲が数百倍に膨れ上がり、自分の性的欲求を抑えられなくなる。そして手当たり次第に姦淫を働くようになるんだ』
「………………」
『そして自分の意のままに性行為を進めるために、行為の際には強力に肉体が強化されるという効果もある。あれだけの大悪魔の呪いなんだ。人間が天使を超える膂力を得たとしても、不思議ではないな』
それに天飼は、毎晩のように自慰行為に耽っていた。どれだけ疲れていても、時間に余裕がなくても、相当量を吐き出していることが観察できた。歳の割に旺盛であるとパスカルは思っていたが、天飼が色欲の悪魔に呪われていたと考えればそれも納得である。彼は暴走する己の性欲を必死に処理していたのだ。
「……本人に話、聞いてみる?」
チエロは提案した。パスカルと話し込んでいるうちに、いつの間にか天飼のうわ言が聞こえなくなっていたのである。少しは落ち着いたのかもしれない。
『そうだな。またパニックにさせないよう、慎重に言葉を選べよ』
「分かった」
チエロは布団を被っている天飼の傍に寄り、座った。
「……少しは落ち着いたかしら?」
「………………」
「あなたが悪魔に呪われているなら、私たちでなんとかできるかもしれない」
チエロは天飼に優しく語りかける。
本当は大悪魔の呪いを解呪する方法はないかもしれないのだが、ここは気休めだとしても解呪の可能性を示しておいた方が良い。
チエロは続ける。
「それにあの悪魔、今回ぶっ殺したけど、今までの行動にはまだ謎が多いわ。あなたの証言が糸口になるかもしれない。覚えていることがあったら教えてくれる?」
言われ、天飼はハッと目を見開いた。
「……お……俺は……」
天飼の腕がブルブルと震える。天飼はその腕で、チエロの両肩をがっしりと掴んだ。
「ちょ、ちょっと?」
いつぞやに似た感覚。チエロは羽の付け根にぞわりとした感覚を覚えた。
「俺は人殺しだ。俺は人殺しだ。俺は人殺しだ。俺は」
「———天飼」
天飼は血管の這う腕でチエロの肩を握りしめる。鬼気迫る瞳は漆黒で、悪魔よりも悍ましい。チエロは思わず身震いした。
そして天飼は告白した。
「あの悪魔のせいだ。俺は今まで十五人も殺した」
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