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 飛べもしないのに、走っている間に翼をバタバタと動かしてしまう。それだけ焦っているということだ。これが幻肢というものだろうか。

 今宵の悪魔が出現した場所は、巨大な立体駐車場のようだった。商業施設に併設されたものであり、夜間は車が停まっていない。鉄骨やミラーが赤い光を乱反射し、城のような様相である。

 人払いの結界を敷く。目の前の建物は大きく、それを覆うだけの巨大な結界となった。これだけ大きい結界は久々に作った。

「さて、どんな化物がいるのかしら!」

チエロは地獄の口のような赤い光の奔流に飛び込む。車用の坂路を十階ほど駆け上がると、開けた屋上に出た。

 数十メートル四方のコンクリートの空間、その中央には巨大な魔法陣。

 そしてその上に、悪魔がいた。

 全長は八メートルほどであろうか。今までの悪魔よりずっと大きい。

 上半身は裸の女のような形状である。腕がある。首がある。頭がある。大きな角が二本生えていた。もっとも、形状が人間に近いだけでその大きさは、頭だけで一メートル近くあるような巨体である。

 対して下半身は、とぐろを巻いた大蛇のようである。半身を覆う鱗は本体の大きさに比例して、一枚一枚がいちいち巨大だった。

「両乳丸出しで、いかにも色欲の悪魔って感じね」

『当たりだ。来るぞ!』

 色欲の悪魔は自らを狩りに来た天使を見とめると、甲高い金切声を上げて突撃してくる。

第二大剣・解放セカンダスエスパーダ・リベレーション!」

 チエロは白い魔法陣から、身の丈ほどもある大剣を抜き放った。大きく振りかぶる。

「デカブツには、得物もデカくなくっちゃなぁ!」

 悪魔の突進に合わせ、思いっきり大剣を振り抜く。剣は虹色の軌跡を描き、悪魔の頭をしっかりと捉えた。刀身と悪魔の角が激突し、耳を劈く金属音が響く。

 角がミリミリと鳴き、ヒビが走る。

(よしっ、これなら……)

 悪魔の角を叩き折ろうとしてチエロがさらに魔力を込めた瞬間、

『下がれチエロ!』

「⁉」

 パスカルが叫ぶ。

 それと同時に、今度は大剣の方にも亀裂が入った。

「ちょ、噓でしょっ⁉」

 チエロが怯んだ隙に、悪魔は両腕を地に着け、這いずるように突進してくる。チエロは踏ん張ろうとしたが、脆くなった大剣は悪魔の巨体を支えきれなかった。

 悪魔が咆哮を上げる。それと同時に発散される膨大な魔力。

 大剣が、粉々に砕け散った。

「くそっ」

 猛進してくる悪魔を、チエロは間一髪で躱す。角が脇腹を掠め、肉が少し避けた。血が飛ぶ。

 チエロは攻撃を躱したついでに跳躍し、宙返りして塔屋の上に着地した。

『大丈夫か』

「軽傷、でも、武器が砕かれるなんてね」

 立ち止まった悪魔が振り返る。片角が欠けていたが、特にダメージにはなっていなさそうだ。

第一魔刃・跳梁プリムスエスパーダ・ドローイング

 剣がダメなら遠距離武器である。チエロは弓を取り出した。

『使えないと言っていただろう』

「あれだけマトがデカけりゃ、なんとかなるでしょ」

 悪魔、再び突撃。チエロはギリギリまで我慢して、悪魔が塔屋に激突する直前で跳躍した。

 轟音とともに、コンクリートが粉砕される。鉄の扉が紙のようにひしゃげるのが見えた。チエロは空中で宙返りして、天地逆さになって弓を引き絞る。飛び散る瓦礫がスローに見えた。集中できている。滞空時間を少しでも伸ばすために羽ばたいていたかもしれない。飛べもしないのに。

 射る。光の矢が悪魔の背中に突き刺さる。ギリギリ人間体の部分だ。

 悪魔が悲鳴を上げる。体積比的には小さな矢であったが、やはり天使の魔力のこもった攻撃は悪魔に効きやすい。

 チエロは余裕を持って足から着地した。

『効いているぞ』

「訓練場のマトも、こんだけデカけりゃなっ!!!」

 チエロは続けざまに三本の矢を放った。大雑把な狙いだったが、巨大な悪魔に対してこの近距離である。悪魔の腕やら尻尾やらに矢が突き刺さる。また悲鳴。弓を番えているので耳を塞げない。鼓膜が破れそうだ。

 激した悪魔がまた突撃してくる。チエロは真正面に仁王立ちして弓を引いた。

「くたばれ、クソ蛇がよぉ!」

 そして、迫る巨躯に一矢を放った。

 弓の速度と、猛進する悪魔。合わさった速度が破壊力となり、矢尻が悪魔の角に突き刺さった。先ほど欠けた方の角である。

 その一撃が決定打となり、角に亀裂が走った。粉々に砕け散る。白い魔力が傷口に迸り、悪魔は腕で頭を押さえて絶叫した。

「うっさ。偶然急所だったのかしら」

 悪魔はのたうち回り、ずるずるとチエロから距離をとる。チエロは弓を納めると今度は短剣を取り出し、ゆっくりと悪魔に近づいた。

 悪魔は結界の縁まで辿り着いてしまい、見えない壁に縋るように張り付いた。

「残念だったわね。それ以上は逃げられないわ。悪魔は結界から出られない———」

 言いかけ、チエロは異変に気付いた。パスカルが息を呑む気配もする。

 悪魔は逃げようとしているのではない。

 結界に張り付いた悪魔は急激に魔力を放ち、長い尻尾を鞭のようにしならせた。

 巨大な尻尾が空を裂き、結界に叩きつけられる。結界には赤黒いヒビが走り、バキバキと天蓋まで迸った。

 結界が、破られる。

「ちょっとぉ⁉」

 チエロは驚愕した。今まで、天使の決壊を破壊できるほどの力を持った悪魔など見たことがなかった。そもそも、結界の破壊を試みた悪魔すらいなかったのだ。

 漆黒の結界は決壊し、濃灰色の夜空が露わになる。三日月が見えた。悪魔は立体駐車場から飛び降り、どこかへ猛進していった。

「まずい、人を食いにいく気だ!」

 チエロも追って飛び降りる。十数メートルを降下し、着地と同時に駆け出した。

「結界を破れる悪魔なんて、初めて見たわ。そんな個体、今までいたかしら」

『……少ないが、いなかったわけではない。いずれも強大な個体だった』

 パスカルの声は少し畏怖を含んでいた。チエロは彼がそのような調子なのを初めて感じた。それだけ、今回の悪魔はヤバい相手だということだ。

『あの悪魔……結界の弱点を知っていたようだ』

 パスカルが呟く。

「弱点? 結界にそんなのあるの?」

『結界は魔力による術式だ。構造上、他の部分より脆くなっている点があるんだ。そこを集中攻撃すれば、結界は内側から破壊することができる』

「知らなかった……」

『知らないのも無理はない。そもそも結界は強靭なものだ。弱点があったとて、簡単に破れるものではない』

「でもあの悪魔は破っていった」

『恐らくあの悪魔は、三十年前にこの地区を担当していた天使を打ち倒した個体だ』

 チエロは黙った。足だけ動かす。

『結界の弱点を知っていたのも、かつての天使との交戦経験があったからだろう』

 悪魔は巨大だった。あれだけの存在感である。相応の寿命を誇っていても、なんら不思議なことではなかった。

『三十年という時を経たせいで、かつてより知能も魔力も増大しているだろう。決して無理をするな、チエロ』

「……知れたことっ!」

 チエロは走行の速度を上げる。ひたすらに悪魔を追いかける。飛べない翼がはためいた。

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