3

 次の出勤の時間になっても、思考はうろうろと収まりが悪かった。

「……じゃあ俺は仕事に行ってくる」

「あらそう。今日は早いのね」

「……まぁな」

 いつものくたびれた足どりで、天飼は家を出ていこうとする。チエロはハンモックで六法を流し読みしつつ、少し目線を上げる。

 くたびれた背中が見えた。別に天飼は常に覇気がない姿をしていたが、今日は格別に萎れているように見えた。季節の去った鬼灯のようである。

「……なんか、偉くなれるかもしれないんでしょ?」

「……何で知ってる。見たな、あの書類」

「ごめん」

 言葉では言いつつ、チエロはまったく悪びれる素振りを見せない。

「……あれは断ろうと思っている」

 天飼は靴紐を結んでおり、振り返らない。

「なんでよ。偉くなった方が良いんじゃない? 他人なんて見下ろしてナンボよ」

『昇進は、他人より優位になることが本質ではないぞ』

 パスカルがたまらず口を挟んできた。

「……俺は……」

 天飼は立ち上がり、鞄の肩紐をかけなおすと、部屋の方に向き直った。

「俺は人の上に立てるような器じゃない。ここが丁度良いんだ。いや、ここですら、与えられすぎなんだ」

 夕日を逆光として受け、天飼の顔は良く見えない。チエロは天飼の顔の、目があるであろう場所を見つめた。

「……出る」

 ドアが閉じられた。階段を下る足音は次第に小さくなり、聞こえなくなった。

「……まぁ、人の上に立てる器じゃないってのは、そうよね。私が人間ならあいつは今頃強制性交等罪で豚箱行き」

 天飼の自尊心が異常に低いのは理解できる。今この場にチエロが居候していることが最大の証拠である。これは彼なりの償いだった。

 しかしチエロはこのとき思い至った。

 そもそもハナから健常な人間であったのなら、部屋に入ってきた天使を問答無用で凌辱するようなことをするだろうか。

 自分が地上に来る前の天飼の自尊心は知らない。しかし、天飼は自分が来てからこうなったのではなく、元からどこか大きく歪んだ人間だったのではないか?

 チエロは本を閉じ、首だけを動かして部屋を見回す。チエロが住むようになってからは掃除がなされているが、それ以前のこの部屋は相当不衛生だった。家族はなく、近所付き合いもない。食事は割り引かれた総菜や弁当。そして酒。そんな部屋に天飼はずっと住んでいたのだ。

 あと数体の悪魔を狩れば、チエロは天界に帰れる。しかしその後、この部屋はきっと汚い部屋に逆戻りするだろう。天飼はあとどれくらい生きるだろうか。二十年だろうか。三十年だろうか。それとも四十年?

 その間ずっと?



 部屋に明かりがない。埃っぽい大気を通過した月明かりが、開け放たれた窓から流れ込んできている。灰色の光は、室内のチエロの翼を撫でるように照らしていた。

(今日で三十体目……)

 パスカルの話では、チエロが飛行能力を取り戻すのはもう秒読みとのことだった。あと一、二体の悪魔を狩れば、チエロの堕天の罪は雪がれる。天界に帰れる日も近い。

 チエロは少し肩を回したり、胴を捻じったりして準備運動をした。特に効果は期待していない、暇つぶしの動作である。もう何度やったか分からない動きだった。

「ねぇパスカル、まだ悪魔の場所は分からないの?」

『……もう少し待て』

 何度問うても、パスカルの返事はこれであった。『悪魔の反応がある』とチエロが起こされたのはもう一時間も前になる。常であれば準備運動でもしていればその間に反応の場所が特定されるのだが、今夜は一向にそれがなかった。

「ねぇパスカル、どんな状況かだけでも教えてもらえないかしら」

 チエロはたまらず尋ねた。パスカルが打鍵する音が止まる。

『……今回の悪魔、町全体に弱い反応をまき散らしているようだ。通常であれば一ヵ所は反応の強い場所があってそこに悪魔が出現するんだが』

「反応が広すぎてどこに出てくるか分からないのね」

『そういうことだ。さすがに出現する直前には反応が最大化するから場所が分かると思うんだが……』

「じゃあ私、その弱い反応の範囲内を巡回しときましょうか? そしたら悪魔がパッと出てきてもピュって行けるでしょ」

『……そうか、そういう手もあるか。よし、それで行こう』

 パスカルは『思い至らなかった』という風である。理知的な彼にしては珍しかった。パスカルは普段の仕事では全くミスをしないが、このような不測の事態には弱いのかもしれない。

「ま、私としても身体を動かしてた方が準備になるわ」

 チエロは窓から部屋を飛び出した。この程度の高さなら、羽ばたかなくても着地できる。チエロはあてもなく町中を放浪しはじめた。


「……私が天界に戻ったら、この地域は別の天使が担当するのよね」

 警邏の片手間、チエロはパスカルに話しかける。

『そうだな』

「私の後には、誰がここを担当するの?」

『今は伝える余裕がない。後で言う』

 忙しいパスカルの返答はそっけない。しょうがないことだ。チエロは寝静まった住宅街の中、車道の真ん中を歩いた。

 家々は無限に無機質な表面を晒している。この黒い壁の中に数百人の人間が格納されているとは、夜景を見ているだけでは俄かには信じがたかった。これで朝になればワラワラと人間が出てくるから面白い。

 魔力は良好。今日は視力も良い方だ。これで飛行能力もあったなら、大抵の悪魔に勝てるだろう。

 深夜。人間の気配は稀にしか感じられない。時おり遠くから車の音が聞こえてくる程度である。

「……じゃあ私の前任は誰だったの?」

『それも後で伝える』

 打鍵の音。パスカルは雑談に付き合う余裕すらないようだった。

「ここの担当だった有名天使とかいないのかしら」

『有名とは違うが、殉職者はいる』

「えぇ~……」

 作業の片手間で、パスカルは何とはなしに言った。天使が悪魔に敗れることは多くはない。それ故、稀にある敗北はメジャーな記憶に残りやすいのだろう。作業中に無意識に口にしてしまうほどに。

『受験でも頻出の事件だった……三十年前の———』

 言いかけ、パスカルは口を閉じる。

「? どうしたのよ」

『反応ありだ! しかし、これは……』

 珍しく、パスカルが動揺している。それだけで、チエロにも事態の深刻さが伝わってきた。彼の背後で、聞いたこともないようなサイレンが鳴っているのが聞こえた。

『この魔力……デカすぎる! 警戒しろチエロ! とんでもないのが来るぞ!』

 パスカルが叫び終わるより前に、チエロも地上でそれを感じた。

 二時の方角、遠目でも分かるほどに鮮烈な赤い光の柱が立ち昇っている。あそこの根元に悪魔の魔法陣があるのだろう。

 そしてその柱を中心に、爆風のような魔力が噴出している。

「ちょっ……何アレ!」

 思わず足が竦む。今までの雑魚悪魔の魔力が十だとしたら、今回の悪魔は百を優に超える。悪魔の魔力量は当然、その個体の強さに直結する。

 まずい気配がした。冷や汗が伝う。

『弱い反応が町中にバラまかれていたんじゃない……町全体を覆うほどの、巨大な魔法陣の出現の予兆だったということか……』

 パスカルが窮したように言う。チエロは既に駆け出していた。

『応援を要請したが……現着まで相当以上かかる』

「それまで一人ってことね……」

『無理はするな』

「したくたってできないわよ」

 チエロは天使の脚力で猛烈に夜の町を疾走した。

 夜空は血のような赤に染まっている。

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