3
「何してんのよ、こんなところで」
「……お前こそ、何やってるんだ」
目の前の扉の上部、天井との隙間に空いた空間から、チエロが身を乗り出していた。
「男子トイレだぞ。誰かに見られたらどうする」
「結界張っちゃった」
「やれやれ……」
チエロは身をよじって天井と扉の隙間に身体を滑り込ませ、個室の内側に降りたった。
天飼が腕時計を確認すると、公演は終わっている時間だった。
「いつからここにいたの?」
チエロが見下ろしてくる。天飼は便座に座ったまま答える。
「……四曲目くらいからか」
チエロは男子トイレの構造が珍しいのか、辺りをきょろきょろと見回している。
「どうして、ここが分かった?」
「別に、公演が終わってから会場を隅々まで探して、最後が男子トイレだっただけよ」
チエロは帽子からはみ出た桃色の髪を弄ぶ。
「俺以外の男が個室に入ってたらどうするつもりだったんだ」
「……十五分くらいトイレの前で待ってたんだけど、出入りの帳尻は合ってたわ。他のどこにも、あんたはいなかった」
「……そうか」
「曲がお気に召さなかったのかしら」
天飼は俯いたままである。
「……なんか、悪かったわね」
「………………?」
聞き慣れた声から聞き慣れない意の言葉を聞いて、天飼は思わずチエロの顔を見た。
「なんだか、苦手なことに付き合わせちゃったみたい。服まで買ってもらって」
こいつにも、謝るという行為ができたのか。天飼は意外に思った。
「別に、俺のことは気にするな。お前の気が晴れたのなら、それで良いんだ」
元からチエロやパスカルの提案に対して、天飼に拒否権はないのである。粛々と従うほかないのだ。
それに。チエロの謝るという言動は、強欲の呪いの解呪が成功されたことを示していた。
今日ここに来た目的が果たされたのなら、それで充分である。天飼はそう思った。
*
「大きい音が苦手なんだ」
会場を出た帰路、天飼は静かに語った。
「大きすぎる音を聞くと、身体が竦んで、頭が痛くなる。そういう身体なんだ。夜勤の工場でも、特例で耳栓を付けて従事させてもらってる」
「……そうなのね」
日は西に傾いており、飲食店や駅の電光掲示板が歓楽的に黒い町を照らしていた。人通りもそれなりである。
「悪かったわね。オーケストラなんて」
「謝るな。このことを説明してなかった俺が悪い……いや、俺が楽しめなかったところで、お前には関係ないだろう。お前はリフレッシュになったか?」
「……まぁ」
天飼には楽団の良し悪しはさっぱり分からなかったが、チエロの耳を満足させるようなレベルではあったようだ。
「なら、良かった」
町はちょうど夕方から闇夜への過渡といったところで、ビルの合間に見える西の空はまだ明るい紫色だが、時期に黒くなるだろう。
「そういや、パスカルが静かだな」
天飼は天界の男がまったく口を挟んでこなかったことに気がついた。いつも細やかに命令してくるぶん、黙るといっそう静かに感じられる。
「あ……本当ね。全然気にならなかったわ」
開演時刻から今まで、ゆうに二時間以上が経っている。天飼とチエロが眠っている間を除いて、パスカルがこれだけの時間黙っていることは今までなかった。
二人がそう思ったところで、二人の脳内に無音が流れ込んでくる。天界の環境音だ。通信が繋がった気配がする。
『……俺の話をしたか』
久方ぶりにパスカルが口を開いた。
パスカルの背後からは、何者かが忙しそうに歩き回る音や、紙を捲る音が聞こえてくる。やはり市役所のようだと天飼は思った。
「あらパスカル、どうして黙っていたの?」
『公演中に俺が通信をかけたら、チエロのリフレッシュにならないだろう』
「真面目ねぇ」
『それに』
「それに?」
『俺も公演を聴いていたら、タダ聴きになってしまうだろう』
「クソ真面目……」
パスカルは『何とでも言え』とでも言うように息を一つ吐いた。
『もし非常事態……例えば悪魔が出現するようなことがあれば連絡したさ。何事も無くて良かった』
「ま、そうね」
何事も無かった、か。パスカルには公演中にあった出来事は何も伝わっていないようだ。つまり、天飼の特性の話が、である。
チエロはそこから、今しがた聞いた天飼の特性について発言することを避けることにした。不用意に天飼の弱点を公開することは憚られた。
「あ!!!」
背後から大声。天飼の肩が跳ねる。天飼とチエロは、ふいに何者かに呼び止められた。チエロは天飼より先に振り返って一歩前に出る。
「天使のお姉ちゃん!」
「あ、いつぞやの少年」
振り返った先にいたのは、数週間前、チエロが家出していた際に公園で出会った少年であった。今日は休日であるから少年もランドセルを背負っていない。
「おいお前、天使ってバレてんのか」
「ちょい黙って……よぉ、久しぶりだな少年、こんな時間にどうした」
「今日サイゼ!」
「そうか。今日サイゼか(サイゼって何だ……?)」
少年は一人のように見えたが、少し離れたところから両親であろう男女がこちらを見ていた。そうでなければこんな時間に小学生が一人で出歩いていないだろう。
チエロは前回の少年との会話を思い出す。
次いで、少年の奥にいる成人男性をチラっと見た。
(お父さんとは仲直りできてるみたいだな……)
そもそもこんな年頃の子供が、そこまで重大な喧嘩をするとも思っていなかったが。
「お姉ちゃん、今日は羽生えてないの?」
「おいお前そこまでバレてんのか」
天飼は堪らず口を挟む。
「あんたは黙ってなさい……えー、こほん。羽っつーのはね、誰にでも軽率に見せられるもんじゃないんだよ」
「えー」
少年は不満げに頬を膨らませる。「見たい」と顔に書いてあった。
背後には両親。当然、息子が見知らぬ大人と話しているので向こうは警戒している。
チエロはここで少年に何か不満を喚かれるとかえってまずいと思い、上着の裾に手を突っ込んで羽の先端を引っ張り出した。日が落ちた町中でも明らかに純白な羽である。
「すげー!」
「声がでけぇっつーの。ハイ、おしまい」
羽をしまう。
天飼は一連のくだりをハラハラしながら見ていた。いつパスカルが小言を飛ばしてくるかと身構えていたが、特に何も言われなかった。
少年はここにきて、チエロの一歩奥にいる天飼に意識が向いたようである。天飼の方を向いた。
じっと見つめてくる。天飼は目を逸らした。子供は苦手だった。
「………………」
少年はチエロと天飼を交互に見つめる。
「……仲直りした?」
そしてチエロに言った。
「……まぁまぁなんじゃないかな。元から仲良くないけどね」
「良かった!」
少年はその後も少しチエロと話した後、背後から親が一歩近づいてきたことを察したチエロが促すことで去っていった。
手を振り終わると、背後の天飼の存在を感じる。
無言。
振り返る。目が合う。
「あの子と会ったのはコンプラを学ぶ前だったから。しょうがないわよ」
「お前……」
あんな喋り方もできたんだな。
天飼はそう言いかけ、不適切だと思いなおして口を噤んだ。
「何よ」
「子供、得意なんだな」
それは素直な気持ちだった。
「まぁ、天界で子供の相手をすることも、なくはないからね」
「天界にも子供っているのか。天使の子供か?」
「いえ、天使は聖火から生まれるから、子供の時期はないわ。ええと、つまり……」
チエロは迷った。このことを天飼に伝えて良いものか。
しかしこの会話を聞いているであろうパスカルは何も言わない。つまり問題ないということだろうか。
「死んで天界に来た人間は、成長しないわ。つまり子供のまま死んだ子の相手をするときがあるってこと」
生々しい。今しがた子供に会ったばかりだから尚更だ。チエロは発言を後悔した。
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