2

「都会は文化へのアクセスが良くて良いわね」

 大きなキャスケットのひさしを上げて、チエロは劇場の屋根を見上げた。

 天飼が無い女性経験のもと、チエロの機嫌を取るために頭を絞って考えた方法は、映画を見せることだった。しかしチエロに映画鑑賞の趣味はなく、ではどうするかと悩んでいたところ、今度はチエロの方からオーケストラを鑑賞したいと言い出したのである。

『天界でもオーケストラはメジャーな娯楽だ』

 とパスカルが補足したことが後押しとなり、今回の観劇が決まった。

 チエロは普段着ていた天使のローブでなく、いかにも現代風のファッションを身に纏っていた。さすがに悪魔狩りの装束で日中から町中を歩き回るわけにもいかず、天飼が服を用意することとなったのである。チエロを家に残して服屋に赴き、パスカルの指示で彼女が好みそうな服を見繕うのは困難だったが、買い与えられた服を着たチエロは上機嫌だった。

 天使の輪と翼を隠したチエロは、それなりに市井の人々の中に溶け込めていた。

「良かったわね、ドレスコードのない劇場で。あんたみたいなくたびれた私服でも入れるってことでしょ」

「まぁ……そうなるな」

 天飼はといえば着古した普段着のままである。加えて首には呪いの鎖が巻かれているのであり、外見はなかなかに奇抜だった。よれた私服に首を一周する鎖である。ドッグランに放たれた蜥蜴とかげのようだった。

 そんな客でも拒まず受け入れるのが今回の公演だということである。

 劇場で行われる予定なのは、市民楽団の定期公演であった。というか、当日に急遽チケットをとれるような公演がこれしかなかったのである。その日の朝になって探し、見つかったのは十八時開演のもの。公演があるだけありがたい。

 アマチュアの公演で物足りるのかと天飼はチエロに尋ねたが、チエロ曰く、オーケストラであればなんでも良いらしかった。そこに拘りはないようである。

「しかし、オーケストラとは……人生で初めて来るな」

 天飼は劇場の立て看板を見上げて呟く。そしてから二人で劇場の中に入った。

 館内は冷房が行き届いており、夏の暑さを忘れさせる。夕方であるのに、それなりに人が入っていた。一般的な映画館よりは少し狭い程度のホールである。天飼とチエロはホールの中段ほどに並んで座った。

「あんた、こういう公演は聴いたことある?」

「ないな。人生で初めてだ」

「そう」

 チエロは幕の下りた劇場に向き直る。

「それじゃあ、良い経験になるわね」



 やがて幕が上がった。十数人の楽団メンバーがそれぞれの楽器を構えている。オーケストラなのだから当然である。天飼は楽器の種類に疎いので、一際大きな楽器がチューバであろうかということしか分からなかった。

 代表と思しき女性が開演の挨拶をする。女性が礼をすると奏者たちも各々頭を下げ、会場が拍手に包まれる。

 挨拶の後、早速一曲目が披露された。

 様々な楽器が鳴らされる。当たり前だ。それがオーケストラというものである。

 アマチュアの演奏ではあるが、天飼にはその良し悪しが分からない。黙って聴いていればそれなりなものに感じられる。しかしそもそもとしてこういった公演に興味がないので、金を払ってまでこれを聴きたいかと問われれば、首を横に振るだろうと思った。

 一曲が長く、どのような情景を表現しようとしているのかも分からない。総じて暇である。

「………………」

 公演中、天飼は何度か、チエロの横顔を見た。チエロは目を閉じて音楽を聴いている。演者を見なくても良いのかと思ったが、これが彼女のスタイルなのだろう。

 天使の輪を帽子の中に押し込み、黙って演奏を鑑賞しているチエロは、今だけは天使には見えなかった。普通の人間のように見える。

 剣を持って怪物相手に立ちまわる戦士の面影は無い。年相応の少女のような落ち着きだ。

 一曲目が終わる。会場は拍手。チエロもそこで目を開いて、満足そうに手を叩いた。

 一曲終わる毎に代表の女性が表に立ち、次の曲の題名やテーマ、描いている情景を教えてくれる。解説を聞いたとて天飼には理解できなかったが、そういうものなのだろうと思うにとどめておいた。

「———次の曲ですが、私は歌唱を担当します。えぇ、フルートから持ち替えてですね———」

 女性が次の曲のパートや歌詞の意味について説明する。曰く、彼女は歌唱担当とのことだった。

「オーケストラって楽器だけじゃないんだな」

「普通に歌唱もコーラスもあるわよ。ホントに初めてなのね」

 天飼が問うとチエロは呆れたように答える。

 そして、次の楽曲が始まった。先ほどまでフルートを担当していた女性が、今度は舞台の中央に立って歌唱していた。何語かは分からない。英語だろうか。

 女性のふくよかな高音はマイクなどに頼らずとも、ホール全体に響き渡る。たった一人の人間が出しているとは思えない、なかなかの声量だった。流石に訓練しているだけのことはある。

「………………」

 天飼は少し身じろぎした。シートが揺れる。その振動は隣席のチエロには伝わっていないようだ。

 脳の奥に、微かな頭痛の気配を感じる。

 女性の高音は楽団員の演奏に負けない音量である。確か先ほどの曲の解説では、敵国に向け草原を駆ける騎兵隊をイメージした楽曲だと言っていた。

 天飼はチエロの方をチラと見る。チエロはやはり目を閉じて鑑賞している。

 ついで壇上の歌手を見る。

 縦に大きく開けられた口の中には、口紅に縁どられた、吸い込まれてしまいそうな暗闇がある。中段の席からもそれは巨大な存在感を放っているように見えた。

 天飼はゆっくりと立ち上がり、背を丸めてホールを後にした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る