4
ひんやりと冷たい冷蔵庫が、うっすらと駆動音を立てている。
「こいつの冷蔵庫、マジで何にも入ってないな……」
天飼の部屋に帰投したチエロは、真っ先に冷蔵庫を漁っていた。しかし冷蔵庫はほとんど空っぽであり、空腹を満たせるようなものは何もなかった。
天飼の常の食事はスーパーの弁当や酒であるということはここまでの暮らしで分かっていた。天飼は自炊をしないので、食材が冷蔵庫に溜まることはないのである。
「くっそ~私無一文なんだよな……弓で猪でも狩りに行くか……?」
チエロが考え込んでいると、部屋の外から、カンカンと階段を登る足音が聞こえてきた。
ドアが開かれる音。
「うおっ、何してんだお前」
天飼が帰宅した。チエロは冷蔵庫の前に座って考え込んでいる。
「あんた、冷蔵庫に何にも入ってないのね」
「金が無いからな。とりあえず閉めるぞ。電気代が勿体ない」
天飼は冷蔵庫をバタリと閉める。廊下が少し暗くなった。
「ねぇ、あんた買い物とか行かないの?」
「明日の朝行こうと思っていたが……腹でも減ったのか?」
「別に」
『チエロは今悪魔に呪われていてな。空腹に苛まれているんだ』
「あーもう言わなくていいからっ」
天飼は床に置いていた上着と財布をもう一度拾い上げた。
「えっ今行くの?」
「腹減ってるんだろ? 買い出ししてくるぞ」
「夜は店がやってないって言ってたじゃない」
「スーパーなら二十四時間やってる所もある。大丈夫だ」
「………………」
チエロは不服そうに口ごもる。
「……どうした」
「……夜勤で疲れてるんじゃないの? 休まないの?」
「疲れてるよ。だが」
天飼は靴を履いて玄関の扉を開ける。
「お前の頼みより優先するべきことではない」
言い、天飼は再び外に出て行った。
「……ほんっと、よく分からないわね」
何の反論もされずに命令を聞かれてしまうと、逆にこちらが我儘な子供のようではないか。チエロは天飼に上を取られたような気がしてくる
(気を遣われると、こっちが悪者みたいじゃない)
チエロは忌々し気にドアから目を逸らした。
黄色く瑞々しい、一房のバナナである。
「……なんで?」
「バナナは嫌いか?」
「なんで私の好きな食べ物を知ってんの。パスカル、教えた?」
『尋ねられたからな』
チエロはハンモックの前の小さな食卓に載ったそれを見つめる。真っ黄色のバナナは、天界で採れるものと遜色なさそうに見えた。
「じゃ、その呪いとやらが治らなかったら言ってくれ。また買いに行くから」
そう言って、天飼は衝立の向こうに行ってしまった。
「………………」
チエロはバナナを一本むしると、皮を剥いて食べた。甘くてなめらかだ。久々に味のするものを口に入れたからか、殊更美味しく感じる。
それに、全身に緩く纏わりついていた空腹感も、少しずつ薄れていくような気がした。
『呪いはどうだ? 消えたか?』
「うん……多分?」
『やはり教会から祝福を届けるより、こちらの方が簡便だったな』
チエロは二本目に手を伸ばす。
「どうして私がバナナ好きだって知ってたの?」
パスカルは事も無げに言う。
『天界でも地上でも採れる食べ物がバナナくらいしか思いつかなかったんだ。それに天使は基本的に甘い物が好きだからな』
あの芋虫悪魔がいなければ、この味も感じることができなかったというわけか。そう考えると奇妙な巡り合わせだ。
『そういえば、ごたごたしていて伝え忘れていたが』
バナナを食べるチエロを見て、パスカルが言う。
『悪魔の呪い攻撃には、最大限警戒して戦うようにしろ。今回の悪魔は強くなかったから良かったが———』
「うん」
『強い悪魔は、より強い呪いを使う。特に数十年生きているような大悪魔の使う呪いは、天部でも解呪方法を見つけられていないものもある。不治の呪いに侵されれば治せないからな。気をつけるように』
「……善処するわ」
天界にも呪われた天使はいる。その現実はチエロもよく知っていた。神の膝元である天界であっても消滅しない呪いは概して脅威度の高いもので、それに侵された天使の惨状は推して知るべきものだった。
衝立の奥からは天飼の寝息が聞こえる。チエロはバナナの皮をゴミ袋に捨てると、ハンモックの上に胡坐で納まった。
今日の悪魔の呪いが解呪できないものだったらと思うと、中々に面倒くさそうである。ずっと腹が鳴り続ける呪いなど……。
不用意に悪魔の攻撃を受けたのは失敗だった。しかし強大な呪いを用いる悪魔などはきっと、見た目からして悍ましいことになっているはずである。あんな図体だけの芋虫悪魔が強大な呪いを用いるわけはないという先入観がチエロにはあったのだ。
ヤバい見てくれの悪魔が現れたら警戒しよう。チエロはそう考えながら目を閉じた。
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