8
「——————!」
天飼が危険を感じたときには既にチエロは跳躍していた。振りかぶられる短剣が天飼に肉薄する。
『止せチエロ!』
天使の運動能力に人間である天飼が対応できるわけもない。世界が速度を失う。怒りに歪んだチエロの顔がよく見える。目の下の隈が酷いものだった。
天飼は止まった時の中で、己の人生の汚点を見つめる。
(今までの都合が良すぎたんだ)
(あれだけのことをしておいて、何も贖いをしていないのがおかしい)
(これは当然の報いだ———)
凶刃を前に天飼は人生の終わりを悟る。
「………………」
しかし、
いつまで経っても、
チエロの剣が天飼の頭を貫くことはなかった。
「………………?」
天飼はおそるおそる目を開ける。
目の前にはやはりチエロがいる。
しかしその身体は剣を構えたまま静止していた。
『天界地上法第二一条』
声を失った二人の間に、パスカルの静かな声が響く。
『人間に危害を加えた天使は地獄に堕ちる……それ故に我々天界オペレーターには、急迫の危険がある場合に天使の身体の動きを封じる権限が与えられている』
チエロの身体全体には、天飼の首に巻かれているものと同じような、淡く発光する鎖が巻きつけられていた。チエロは身動きがとれなくなり、天飼の眼前に刺し出された短剣も静止している。天飼の前髪から垂れる雨水が剣先に当たり、ピッと切り裂かれた。
「何よ……二人して、私をいじめるの」
剣先がふるふると震える。チエロの声も同じように。
「全部お前のせいだ! 天飼! 返してよ! 私の生活を返してよ!!!」
大粒の涙が流れる。
怒りと悲しみと苦しみと恨みがないまぜになった表情。チエロの顔は雨と涙でひどいものになっていた。
それを間近で見た天飼は、
「………………ぐ」
急に胸を抑え、地に膝をついた。
「……ぐ、ぐあぁあ、あ」
「ちょ、ちょっと、どうしたのよ」
天飼の急変に、チエロは一瞬冷静になる。天飼握っていたは傘の柄も取り落とし、ついには路上にうずくまるように倒れてしまう。
「ハァ、ハァ、ハァ———」
「パスカル! 拘束を解いて!」
『周囲の安全確認。次に呼吸と脈拍をチェックしろ』
天飼は心臓を抑えて呻いている。目の前で異常な事態を見せられ、チエロはかえって逆上していた頭が冷えた。
「天飼! 大丈夫⁉ 返事できる⁉」
『天飼、一旦息を止めて、落ち着いてゆっくり呼吸しろ』
しかし天飼の様態は良くならない。
「どうしよう———病院? 救急車呼ぶの? あぁでも、呼び方分からない……」
「う……ぐ……」
天飼が突如、チエロの腕を掴む。
「キャッ⁉ な、何⁉」
いつかと同じ感覚にチエロは血の気が引く。
「病院は……止めてくれ……警察も……」
天飼は苦しみながらも、やっと言葉を絞り出した。
「何も、呼ばなくて良い……大丈夫……大丈夫だ……よくある、よくある持病だ」
「そ、そうなの?」
天飼は荒く息を吐きながら立ち上がる。その顔は先ほどまでのチエロよりも蒼白だった。
「さて……」
「ちょっと、どこいくつもり⁉」
「お前の、新しい宿を、探さないといけないんだろう?」
天飼は息も絶え絶えになりながら歩を進めようとする。
「そんな身体でやることじゃないでしょ! どっか休めるところに行かないと……」
言いかけ、チエロは悟った。そんな場所は天飼の部屋しかないということに。
「……分かった、分かったわよ。一旦あんたの部屋に戻ることにするわ」
不測の事態により気勢を削がれたチエロは、他に取るべき方法も思いつかず、結果として天飼とパスカルの言うことに従うこととなった。
「……すまない」
「本当よ……あぁもうフラフラじゃない。肩貸すから、転ばないでよね」
降りしきる雨の中、天飼の歩調に合わせて、チエロは介助しながら進む。
帰路の中、天飼は絶えずぶつぶつと謝罪の言葉を口にしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます